せかい。
たとえば、みらい。
そもそも、御川は、このせかいのじゅうにんではない。
このせかいに、じゅうにんなんていない。
いや、ちがう。
このせかいは、そんざいしない。
どこかで、いわかんをおぼえた。
なにがおかしいのかりかいできない。
おかしい。
おかしい。
なにかがおかしい。
「あの・・・御川くん?」
「え? あ、あれ?」
きづかなかった。
りかいできなかった。
どうして? なんで?
そもそも、ここはどこ?
ふと、がんぜんをみやる。
そこにはみしったかおのおんなのこがいた。
たしか、水村蜜柑。
このせかいはなに?
いや、それよりも、ずっといわかん。
「ねえ」
夏御蜜柑。
だった。
あれ?
いわかん。
りかいできない。
なに?
「あたしはまだ笑わないよ。お母さんがあたしを生んでくれるまでね」
こんわく。
夏御蜜柑はなにものなのだろう。
いや、それよりもいわかん。
「そもそも、あたしを不思議がってはいけないよ。この世界が存在するためには、あたしが必要なんだから」
りかいできない。
あ、りかいした。
さっきから、かんじがなまえにしかつかわれていないんだ。
・・・・・・・・・・・・よく、きづけたな。おれ。
夏御蜜柑は考えていた。
夏御蜜柑を論理的に説明するととても時間がかかる。
一言で言ってしまえば矛盾である。
存在矛盾という概念。
しかし、なぜ矛盾が存在するのか、なぜそれが夏御蜜柑なのかを説明するのが難しい。
簡潔に説明してみる。
世界はどうして誕生したか?
要点はここになる。
世界が誕生するには物理的なアプローチが必要ではある。
しかし、その理論には遥か彼方に問題がある。
原初。
世界の原初。
何も無い『空間』から何かが生成されたという自体は原初ではない。
原初とはその『何も無い空間はどうやってできたか?』である。
この言葉遊びの領域はしかし無でありながら空間を形成している時点で存在が矛盾している。
空間であるためには何かしらの概念が必要になるからだ。
夏御蜜柑はこれを『空間』という概念と定義していた。
問題はその『空間』という概念はどうやってできたか?
ここに矛盾が発動する。
いかに空間といえど領域が存在しない無の領域から空間の生成は観念的にも、物理的にも不可能である。
無と有はコインの裏表では決して無い。
有限の対義語は無限であるが、無限と無は似て非なるものだからだ。
無限とはメビウスである。
しかし無とは0だ。
無は無限じゃない。
だから、有の対義語は無ではないのだ。
有の対義語は観念の最上位、無限である。
故に、空間が誕生する道理が存在しないのだ。
空間がないと世界は生まれない。
空間の発生が必要になる。
あるいは、空間が。
空間は無限に存在していた?
ありえない。
空間が存在する時点で空間には外が設けられるからだ。
つまり、観念的に空間の外の概念がないかぎり、空間の対義語が必要になる。
即ち空間の外。
無限の超越。
概念の崩壊。
それを、可能とする概念。
それが、『矛盾』である。
矛盾は、無限を超越している。
故に、無限に存在する空間に外を設ける事が可能となる。
空間が存在している限り、矛盾は存在しなければならなくなるのだ。
故に夏御蜜柑は存在する。
世界が、空間が存在している限り、夏御蜜柑は存在しなければならないのだ。
さかしまに言えば、空間は夏御蜜柑が生み出した概念と言えるだろう。
では、夏御蜜柑はどうやって誕生した?
言葉遊びである。
つまり、『矛盾』の誕生である。
そこで、夏御蜜柑は『誕生』を体験してみたいと思った。
生まれてみたいと思った。
矛盾だから、何でも出来る。
全知全能だから。
だから、生まれることにした。
なぜなら、ここで『誕生』しておかないと、夏御蜜柑の存在は否定される。
いかに矛盾といえど、矛だけでは矛盾は起らない。
だから、誕生が必要なのだ。
このままでは無限に存在していた。で、結論してしまうから。
それは、避けなければならない。
ただ、矛盾であるからこそ、そんな事をしなくても夏御蜜柑は困らない。
これはあくまで趣味の領域だ。
夏御蜜柑の趣味。
体験主義。
神は倫理であるから趣味はない。
しかし、夏御蜜柑は矛盾であるから趣味を持てる。
全知全能は、自分自身にも有効である。
「ごめんね」
誰に謝ったのか。夏御蜜柑は笑う事無くそう呟いた。
その趣味を察知したのが、幻想主人だった。
幻想主人は夏御蜜柑と対峙する。
「あたしは笑わないよ」
「そうですか」
「残念だったね」
「ええ。残念です」
「ま、おわびに主人ちゃんの未来は保障するよ」
「期待しましょう。勿論、最初からですよね?」
「勿論だよ。誕生からだよ」
「では、よろしく」
「うん」