夏御蜜柑は慈悲深いのか、憐憫な表情を浮かべていた。

「未来に幸あれ」

 そう呟く。

 叶えた。

「その世界なら、大丈夫だよ」

 

 

 

 世界。

 既に世界は形成されていた。

 しかし、この世界は常人の世界とは少し違うような気がする。

 御川はそう思った。

 だが、唯一違うとすれば、違和感がない。

 ここは、世界なのだ。

 御川は違和感を払拭しえない。これが日常だから。

 誘致された意識もない。

 完全なる自意識。

 この世界は完全な、四苦八苦の世界。

 だって、御川は、虐待されているから。

 それが、当たり前だから。

 だから、いつも、幸せを求めている。

 刹那。

「あはは」

 ぞくり。

 悪寒。

 悪質な声。

 御川は今、初めて、夏御蜜柑の笑い声を聞いた。

 気づいた事。

 あいつの笑いはこんなにも悪質だったのか。

 鳥肌が全身を侵食する。

 恐怖が細胞という細胞に刻み込まれる。

 あ、少し漏らしてしまった。

 震える震える。

 恐くて震える。

 恐いよ、恐い。

 夏御蜜柑の笑いは世界中のどんな恐怖よりも悪質だ。

 核兵器さえもこの笑いの前では花火に等しい。

 一体どうやったらこんな凶悪な笑いができるのか。

 考えるだけで涙が止まらない。

 恐くて。

 震える。

 刹那。

「おはよー」

 千夏の抑揚に満ちた明るい声が御川を劈いた。

「ぎゃああああああああ!!」

 脱糞。

 ぷちん。

「え? え?」

 千夏は困惑する。

 何かした?

 いや、何もしてない。

 けど、目の前で白目を向いて、腰を抜かして、口から泡を出し、涙が止めどなく溢れ、全身が痙攣し、あまつさえ失禁と脱糞までしているこの異常な状況は一体?

 千夏は御川のもとへ駆け寄る。

 すると痙攣は止み、ぐったりと崩れ落ちた。

 慌てる。凝視する。

 気絶しているようだ。

 もっと目を凝らして見つめる。

 見れば見るほど狂ったように気絶している。

 しかも臭い。

 しかし千夏はそんな御川の臭気など意にも介さず御川の腕をとった。

 脈をはかる。

 あれ?

 心臓に手を翳す。

 あれれ?

 音がしない。

 止まった?

 え? どうして?

 御川は恐怖のあまり人生のスイッチを切ってしまっていた。

「ね、ねえ・・・御川ちゃん。ご、ごめんね。うう・・・ね、御川ちゃん。ご、ごめんなさい。あ、あたしが悪かったよう・・・ねえ、起きてよ。う・・・うう・・・ふえ・・・お願いだから目を覚まして」

 千夏はべそをかいてしまった。

 挨拶をしただけで心臓が止まるなど正気の沙汰ではない。

 いくらなんでもおかしい。

 しかし、心臓が止まったのは事実。

 一体どうすればよいのか?

 千夏の精神は決壊しきっていた。

 パニック症状。

 

 

 

 夏御蜜柑の笑い。

 世界中においてこの笑いは禁忌を意味する。

 夏御蜜柑が如何に全知全能とはいえ、今まで夏御蜜柑を滅ぼそうと画策した者がいないわけではない。

 いや、むしろ世界中において日夜夏御蜜柑抹殺計画が多角的に施行されている。

 だが、成功などするはずがない。

 夏御蜜柑はそういう時は必ず笑う。

 彼らの目の前で笑うのだ。

「あはは」

 この悪質極まる嘲笑は有史5000年において数々の書物に明記されてきた暗黒の音波。

 まるで地獄の底から響き渡るようなこの笑いは、人類には耐えられない。

 この嘲笑を聞いた者は恐怖のあまり精神崩壊を起こし、肉体にまで変調を来たす。

 それどころかこの刹那的な恐怖から逃れるために細胞が反逆を起こし、体の制御が利かなくなる。

 頭の中はぐちゃぐちゃにかき回され、最終的には恐怖から逃れるために生存本能を無視して肉体が自動的に体の機能を停止させてしまう。

 生物である限りこの笑いに耐える事は不可能。

 夏御蜜柑の自称によれば今までこの笑いで失禁しなかった生物はいないという。

 植物さえも枯れ果てる残酷な嘲笑。

 通称、超威圧。

 

 

 

 御川が死んでいるその姿は蜜柑にはどう映っただろうか。

 蜜柑は絶句していたが、脳内はいまだ冷静。

 蜜柑は困惑した面持ちで千夏に問い掛ける。

「千夏ちゃん・・・何したの?」

「え〜あたしは何もしてないよう。ほんとに」

「でも御川くんなんか凄いことになってるよ?」

「だってだって何もしてないもん!」

 瞬間、御川の心臓が鼓動する。

 そのドクンという音は2人の耳にも入るほど。

「かはっ!!」

 御川は咳き込むように息を吹き返す。

「はっ、はっ、はあああああ」

 呼吸。

 酸素。

 それらは全て二酸化炭素よりも貴重なものだった。

 御川は呼吸できる喜びを知った。

 ふと、気づく。

 臭い。

 

 

 

 恒常的な屈辱。

 しかし御川はどこまでも自若だった。

 否、自若でなければよけい屈辱が炎となって御川を焼き殺すだろう。

 自若なさまである事の方が遥かにかっこ悪い事は意にも介さず。

「ご・・・ごめん」

 御川は謝った。

 

 

 

 許されていた。

 違和感などない。

 あるとしたらあの笑いだけだ。

 千夏は笑っている。

 それとは異質のもの。

 その異質の証拠は既に処分した。

 当然だ。

 どこの世界に失禁と脱糞した下着を穿く馬鹿がいる?

 御川はそんな異質との決別は、自若をもって証明するのだ。

 今日から夏御蜜柑は現れない。

 

 

 

 菜種千夏、御川啓介、水村蜜柑は死体となって転がっていた。

 夏御蜜柑は笑わない。

 その3つの死体の上に支配していた。

 幻想主人と空想侍女は困惑を隠せない。

 何もかもが存在しないから幻想であり、空想である。

 夏御蜜柑は冷徹な表情を浮かべている。

「さて、と。あたしが生まれるかな」

 困惑焦燥違和感哨戒苦悩廃頽自虐の跋扈。

 憐憫な表情を夏御蜜柑は浮かべ、跋扈した全てが錯綜する。

 そこに、諦念などありはしない。

 はずなのに。

 3つの死体は全て水村蜜柑に集約された。

「さてお母さん。生まれたいから生んでください」

 夏御蜜柑はこの時、慈悲を浮かべた。

 刹那、夏御蜜柑さえも水村蜜柑となった。

 

 

 

 それは封じなければならない。

 幻想主人は形成する。

 幻想と空想を化合させる。

 夏御蜜柑は誕生させてはならない。

 拒否。

 夢幻。

 全てを夢幻に。

 幻想でも、空想でもなく。

 夢幻だ。

 幻想主人と空想侍女は化合された。

 夢幻となった。

 敢えて言うなら夢幻主従。

 そう、夢幻主従。

 

 

 

 夏御蜜柑はそんな夢幻主従を見て一言。

「ごめんなさい、ご主人様」 

 落涙し、深々と頭を垂れた。



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