最初に言う事は、深田ありはそこまで奴隷には興味がない事である。

 ただ、哲学の項目でこれは必要だった。

 理想郷の過誤は須く奴隷にいきついてしまうからだ。

 ブルマしかり、ロリしかり、メイドさんしかり。

 そこで、これらの救済のためには、奴隷の定義が必要である。

 よって、ここに『奴隷』という概念を定義し、かつ、奴隷を救済する。

 

 

 

著・深田あり

 

 

 

 ここで奴隷という概念の『性質』をはじめ、『日常』『未来』『束縛』『人権』『定義』『服従』の7つにおいて全て救済する。

 

 

 

第一救済      性質

 

 

 

まずは奴隷というものの本質を知っていただきたい。

奴隷を一言で定義するのなら『人間を消費的物品として定義された動物』である。

つまり奴隷とは、商品なのだ。

それは世界各国の常識であり、カタチこそ違えど全ての国家で定義されていた。

日本における奴婢。

インドにおけるスードラ。

タイにおけるタート。

これら奴隷の観念は実は社会を形成する上でなくてはならないものだ。

社会とは、階級である。

しかし社会が完全なピラミッドとして形成しようとすると、実は崩壊する。

それは支配者階級の少なさと、最下層階級の多さが反乱によって滅亡を招くからだ。

 

奴隷の必要性は集団として、ではなく個人として考えれば理解できると思われる。

 

個人において上層の連中から永劫の支配を受ける事はストレスである。

早い話、学校において死ぬまで一年生をやっているようなものだ。

しかもこの学校は極めて封建的で、二年、三年が傍若無人に振る舞い、一年を精神的、身体的圧迫を行っている。

また二年、三年の嗜虐によって一年は一方的、かつ謂れの無い迫害を受けるわけだ。

つまり、極めて軍隊的。

ところが通常の場合は一年は二年になる事で今までの圧政から抜け出し、一年を迫害する側、即ち特権階級となる事ができる。

これが年功序列である。

しかし奴隷制は年功序列がないため、ずっと一年でなければならない。

また、自分だけが一年であり、他の生徒はいきなり二年生からスタートする。

絶対的な精神的圧迫である。

 これが集団で行われていると思えばいい。

 

 では、一体どうすればいいのか。

 このままでは精神的圧政から抜け出すために一年どもが反乱をおこしてしまう。

 一年どもが学校をやめてしまう。

 古代エジプトにおいて奴隷だったイスラエル人がモーゼに率いられて逃げ出したように。

 

 結論は、一番人口の多い下層階級の下に、少数のさらなる下層階級を置く事が最も効果的だと結論づけた。

 つまり、学校を三年制ではなく四年制にし、人口分配を二年生を一番多くし、逆に一年生を一番少なくすればいい。

 そうすれば反乱は起らない。

 人間は自分より見下せるという保険がある限り反乱しない。

 しかも、その一番人口の多いブービー賞の階級の連中が居る限り、ブービーメーカーの最も人口の少ない一年生を抑える事など容易い事である。

 

 これは別に一国限定ではない。

 たとえば軍隊。

 これは徴兵制が出来る前は、貴族にのみ与えられた職業なのだ。

 国のために剣を取る事は大変な名誉であり、高貴なのだ。

 その名残は未だに欧州各国、特に未だに貴族階級があるイギリスでは根強く残っている。

 王様や貴族が戦争になっても城の中で贅沢三昧をしていたのはアジアであり、ヨーロッパでは真逆。特権階級たちが率先して行ったのである。

 その理由は一つ。

 下賎の輩に武器を持たせて反乱させられるのを恐れたからだ。

 日本で言えば城攻めが大得意の天下統一を果たした猿と呼ばれた関白。豊臣秀吉が行った『刀狩り』を考えればおわかりいただける事だろう。

 

 奴隷制度はそれと同じ。

 

 奴隷に武器を持たせてはいけない。

 奴隷に知識を与えてはいけない。

 奴隷に豪華な食料を与えてはいけない。

 奴隷に自由を与えてはいけない。

 奴隷に権利を与えてはいけない。

 奴隷に綺麗な服を与えてはいけない。

 

 これは全て、奴隷が絶対的な弱者で無い限り、庶民も、貴族も、王族も困るからである。

 奴隷が強くてはいけないのだ。

 奴隷が強いと上の階級が困るのだ。

 だから、奴隷は弱者にしなければならない。

 

 もう、おわかりいただけている事だろう。

 

 奴隷の性質の救済は、学問である。

 強さとは、知識である。

 強さを得るために一番重要なのは体を鍛える事ではなく、頭を鍛える事だ。

 それは、福沢諭吉の学問のすすめにしっかりと明記されている。

 

 農奴もそうだ。

 農民=奴隷ではないのだが、農奴とは文字の如く奴隷化した農民と定義するに相応しい。

 また、第二次大戦までは黒人軍人の仕事は戦場で戦う事ではなく、弾薬処理や運搬、死体処理等の裏方雑用である。

 裏方という言葉自体が既に下等なイメージがあり、差別意識が深層的に植え付けられている。

 下等の定義とは、無知である。

 頭の悪い人間はいつの時代も下っ端なのである。

 大昔からそうだった。

 今でもそうだ。

 学の無い連中は決して社会のトップにはなれない。

 それは中国の科挙が如実に証明しているではないか。

 

 奴隷の救済は学問である。

 奴隷は学ぶ事で救済される。

 知識は勝利を生む。

 知識を、知恵を得る事で必ずや勝利者になれる。

 だから、モーゼは奴隷でありながら勝利者だ。

 だから、イソップは奴隷でありながら勝利者なのだ。

 

 

 

第二救済      日常

 

 

 

 第一救済において書いてはいなかったが、奴隷反乱は世界各国であった。

 だからこそ、現代で奴隷は違法なのだ。

 また、奴隷ではなくとも、農奴にも反乱があった。

 当然である。

 しかも奴隷とは違い農奴は人口が違う。

 その規模たるや、桁違い。

 それがワット・タイラーの乱などである。

 もっともこれは百年戦争が背景にあるからかもしれないが、別にこれほど大規模な反乱でなくとも日本にもつい150年前までは当たり前のように『一揆』が行われてきた。

 これはまさしく農民反乱。

 日本史上最大の一揆は地租改正反対一揆であり、歴史的に見ればつい数年前にも20世紀最後の一揆と騒がれたものまである。

 近代一揆では越中の女一揆は教科書にまで載っている。

 では、農民は数の力があるからこうも頻繁に一揆を起せるが、奴隷はどうだろう?

 有名どころで言えばスパルタクスの反乱、映画にもなったアミスタッド号事件など挙げればきりが無い。

 

 自由は暴力でしか手に入らない。

 

 有史5000年の歴史において自由は全て暴力の果てに手に入れた腕力の産物なのである。

 それはインド独立がガンジーの非暴力では成し得なかった歴史的事実を見れば一目瞭然。

 

 そんな暴力の果てを国家ではなく、『個人の集団』で発生し、数百年の歳月をかけた奴隷の日常とはどういったものなのだろうか?

 

 まず前提であるが、奴隷には一切の権利は無くとも、主人には様々な奴隷に対する規定が定められていたと言う事だ。

 例えばヨーロッパにおいて安息日が絶対だった頃。

 これは奴隷さえも例外ではなく、主人は決して奴隷を使役してはならなかったのだ。

 十戒の力は当時の人間においてまさしく法律を通り越した究極の束縛。

 また、奴隷は職業選択の自由が無い変わりに自由な部分も大きかった。

 それは共産主義国家を鑑みればすぐわかる。

 特にソ連では地域ごとに人民にかせる労働は決定しており、ノルマを定義した他はそれで終わりだったのだ。

 つまり、資本主義的観念がないのでノルマさえやってしまえば仕事などもうしなくてもよいのだ。

 だから、ソ連では誰も勤勉に勤めるものはいなかった。

 ノルマをこなせば金がもらえる。

 沢山仕事しても給料は同じ。

 果たして誰が好き好んで勤勉に勤める?

 奴隷も、それと同じ。

 主人にかせられた仕事、あるいは組織にかせられた仕事以外の時間は基本的には自由である。

 また、奴隷の仕事とは、裏方で汚らしい雑用ばかりで、華やかな仕事はまず与えられなかった。

 日本においては被差別部落がエタと呼ばれていた頃、汚物処理や死体処理しか仕事を与えられなかったという。

 奴隷にメイドさん的な家事を行わせたのはアメリカの黒人奴隷の影響。

 住居の隣に奴隷小屋があって農作業の従事していた合間に家事をさせられた。

 つまり、近代的なものだ。

 

 そもそも奴隷が家事を勤めるのならこの世にメイドさんなんか存在する意味が無い。

 

 メイドさんとは、庶民の職業であり、奴隷の従事ではない。

 ましてやメイドさんの動機は無学の徒の女子たちが結婚までの短い間生活するためにおこなった繋ぎのようなもので、一生涯務める者は少数だった。

 当然である。

 メイドさんが終身業であるなら、無学の徒の婚姻率は激減する。

 そもそもメイドさんの仕事は水汲みに始まり水汲みに終るように、屋敷の内部での職業が中枢である。

 ならばどうして屋敷の中に、奴隷などという汚らわしい生き物を置かなければならないのか。

 特権階級たちは体裁を死ぬほど気にする生き物である。

 だからこそ、奴隷を屋敷内に入れるなどありえない。

 また、家柄が良ければ良いほど務める使用人達の家柄も良くなるのである。

 それは世界各国の共通であり、特に王族ともなると庶民ですらおいそれと勤めることなど不可能。

 日本においても庄屋の家に小作人の娘が奉公し、城の中では武家の娘か、商人の娘が奉公していたもので、少なくとも小作人の娘が勤めるなどまずなかった。ましてや部落などが敷地内に入った瞬間切り捨て御免であろう。

 

 また、奴隷は庶民に比べて扱いが劣悪には違いないが、何でもしていいわけではなかった。

 いわゆる目には目をで有名はハムラビ法典には奴隷に対する犯罪の規定が細かく明記されている。

 それは庶民が相手なら目を潰されたら目を潰すという文字通りのシステムであったが、奴隷の場合でも銀2枚といった規定があった。

 また、奴隷の仕事は朝から晩まで外でつらい重労働であり、牛と共に農作業を行ったりもしたもので、間違って牛によって殺された場合は牛を殺すと明記されていた。

 まさしく平等ではないが、奴隷=何をしてもいいという認識では決してなかった事が証明されている。

 

 それは、奴隷に性的行為の禁止が、それにあたるのだ。

 そもそも奴隷には二種類ある。

 先天性の奴隷と後天性の奴隷だ。

 奴隷同士の子は奴隷であるが、片方が奴隷であった場合の子供は奴隷ではないのだ。

 だから、奴隷への性的行為は禁止されていた。

 奴隷の子を虐待する事は違法だからだ。

 また、奴隷とは階級であり、庶民が重罪を起した結果、奴隷に格下げになるといったケースも世界各国にあった。

 それは日本では『非人』と呼ばれた階級である。

 非人とは、罪人に与えられた階級でこれまた鼻の曲がるようなつまらない単純作業に従事していた。

 なぜなら、武士は勉強する事が職業であり、商人は商いをする事が職業であり、工人は研磨する事が職業であり、農民は農作業が職業であると、職業が完全に限定されていたからだ。

 つまり、死体の処理だとか、藁編みだとか、ゴミ捨てだとかの士農工商のどれにも値しない仕事は全てエタと非人の仕事なのだ。

 もっとも死体やゴミを商品として売りさばくのは商人の仕事であるが。

 

 つまり、奴隷の日常とは、主人とは別個の生活なのだ。

 主人に購入されている道具ではあるが、生活には掟があり、主人は主人として蹂躙できない。

 つまり、モラル。

 奴隷は保護されている。

 奴隷は鞭だけでは形成されない。

 飴が与えられているのだ。

 また、奴隷は死ぬまで奴隷では決しなく、大抵の場合は期限があった。

 当然である。

 奴隷が永久であるなら奴隷の数は際限なく増えつづけ、いつしか庶民さえも対応できない数になってしまう。

 だから、奴隷には先天性と後天性があるのだ。

 後者は期限が設けられているのはそのためだし、前者も主人、ないし庶民と一度でも性的な行為を受けた瞬間に庶民になれるのである。

 奴隷の賞与とは自由である。

 奴隷には、庶民になる権利が存在していたのだ。

 

 

 

第三救済     未来

 

 

 

 今までは史学的に奴隷というものを証明してきた。

 それは巫女哲学と同じである。

 では、これよりは巫女哲学同様、奴隷の理想像を追い求めようと思う。

 奴隷の理想像や巫女さんの理想像を後に書かなければならなかったのは、いきなり理想だけ定義しても非現実的、非歴史的であり、空想の歪曲にすぎないからである。

 そもそも歪曲する事がこの哲学の前提であるから、あらかじめ歪曲ではない概念を定義した。

 しかし、ロリ正当理論やブルマ哲学論考に関しては存在そのものが正当と歪曲が重なっているから、同時に行った。

 メイド救済学の場合は既に100年前に定義した人物がいるから補足的な事しかしなかった。

 だから、巫女と奴隷の2つは定義をぶち壊すのだ。

 さあ、これからが奴隷を勝利に導くための、奴隷の理想像である。

 

 

 

第四救済     束縛

 

 

 

 奴隷は束縛される。

 そして束縛といったら拘束具。

 拘束具の歴史は古いが、まあそれは後でしっかり論考するとして。

 やはり物事はカタチから入らないと。

 奴隷といったら全裸か奴隷服。

 しかし奴隷服があったほうがなんかそそるよね。

 と、いう訳で第四救済は奴隷服→拘束具の順番にいってみよう。

 

 さあ、最初は奴隷服からだ。

 奴隷服というと真っ先にイメージするのはボンテージ。

 本来奴隷服というのは汚い布を重ね合わせた泥臭い服なのだが、何故か昨今の奴隷服はボンテージらしいのでその路線で考察しよう。

 ボンテージという意味は『奴隷身分』『拘束』『抑圧』という意味なので、ある種最も適切な衣装なのかもしれない。

 ただ偏にボンテージといっても結構種類があり、かつ名称も様々だ。

 巫女哲学で色の名称を掲載したが、あれは物凄くわかりづらいので、同じ過ちを繰り返さないためにも、今回はわかりやすい表現をしたいと思う。

 そこで、誰でもわかるようにググればすぐわかる名前にした。

 つまり、シアン酸カリウムだと意味不明だが、青酸カリだとすぐにわかるような、そんな表現である。

 そこで、いきなり結論を言ってしまうのは問題があるのかもしれないが・・・さまざまなボンテージを考証した結果、アニマルボンテージのブラックキングが一番いいと思う。

 そりゃあ、個人の好き嫌いはある。だが、様々なボンテージを見てきて最も『奴隷っぽい』のはこれだと思った。

 確かにリボンボンテージも捨てがたい。

 だが、バランスの面と、奴隷らしさの表現を考えるとやはりブラックキングだと思う。

 いや、ブラックレザーのハーネスも相当のものだとは思うし、ハーネスとリボンボンテージだったら間違いなく前者の勝利である。

 つまり、ハーネスとブラックキングのどちらが良いか? という問題になる。

 だが、前者は奴隷というよりも、女王様に相応しい衣装だと思う。

 後者の装飾を端的に説明すると、ビスチェとガーターのコンボである。

 前者はその名の如く、レザーのハーネスを全身に装填する衣装と言う事だ。

 え? ハーネスって何?

 本来はロッククライミングに使用される安全ベルトのこと。

 で、女王様に何故ハーネスが似合うのか?

 それは女王様にビスチェが似合わないからだ。

 それは観念的であるから説明ができないのが残念ではあるが、何故か、どういうわけか、女王様がビスチェを纏う姿が想像できないのだ。

 早い話がビスチェとはブラジャーとキャミソールの中間である。

 そしてキャミソールとは19世紀のヨーロッパでコルセットを覆う服として、そしてコルセットが廃れたのちに普段着として生存したものだ。

 さらにコルセットは12〜13世紀のステーズを原型としているが・・・そこまでいくと話がよじれるので割愛。

 とにかく、敢えて言うなら、『なんとなく!』女王様にビスチェが似合わないと、勝手に判断したのだ!!

 だから、論法上、ハーネスは、奴隷服として適切ではない! と、判断した!!

 故に! 結論は! アニマルボンテージのブラックキングだと定義する!!

 それに問題があるのなら! 古代の奴隷の如く汚い布を重ねた臭い一枚衣!! これが歴史的に正しい!!

 

 さ、次は拘束具にいってみよう。

 ちなみに最初に言う事は、拘束具とは本来『処刑道具』だと言う事だ。

 つまり、拘束具とは拷問具とイコールで結ばれる。

 拷問具というと鉄の処女を真っ先にイメージしてしまうのは深田ありだけであろうか?

 まあ、それはいい。鉄の処女も立派な拷問具である。

 何でも鉄の処女は急所を外した位置に針があるため即死できないらしいがそれはどうでもいい。

 では、世界最初の拘束具とは何だろう?

 そんなものは手枷に決まっているが、それだと面白くない。

 首輪、足枷も同様。

 と、なると貞操帯だろうか、やはり。

 貞操帯とは15世紀のイタリア人、フランチェスコ2世によって発明されたと言われている。

 ところが初期の貞操帯は不良品で、つけると股間を圧迫し、肉が擦り切れ、激痛が走ると共に自分の手でははずせないため肉が腐り、最後には全身が壊死し死んでしまうのだ。

 ・・・・・・・真剣に考えて恐ろしい拷問器具である。

 じわりじわりと殺していくその様は他のすぐに死ねる、あるいは数時間、数日で死ぬような拷問器具より遥かに悪質である。

 そのため現在の貞操帯は肉体に負荷をかけないように作られている。

 ただし、奴隷に貞操帯をする意味がなく、するだけ無駄である。

 ギャグボールのように一時的な閉鎖とは根本的な使用手段、使用意図が違うからである。

 ちなみにギャグよりはミラビリス(棒の口枷)のほうがそそるものがある気がする。

 手枷、足枷、首輪はデフォルトだと思うが、では鎖の有無は?

 いや、愚問だった。鎖のない枷に意味は無い。

 さて、やたらわけのわからない考察が繰り広げられたが、最後に。

 ロングローブは必須だ。(断定)

 

 従って、私服の着用こそが、奴隷の束縛の解放であり、救済となるのである。

 

 

 

第五救済     人権

 

 

 

 奴隷には基本的人権などというものは無い。

 それは奴隷という概念が基本的に古代様式より延々と続くからであり、いわゆる古代思想を取り入れてあるからである。

 つまり、奴隷とは、アンティークなのだ。

 ならば奴隷に対する扱い、また奴隷自身もアンティークでなければならない。

 まず、最初に重要なのは主人側である。

 主人は奴隷という『壊れ物』の所有者である以上、適切な使用方法を熟知していなければならない。

 奴隷とは骨董品ではあるが、生物(なまもの)であるため、取り扱いにおいて最低でも以下の項目を理解する義務がある。これを『主人五原則』と名づける。

 

1、肉体、精神が壊死するレベルの熟知。

2、奴隷の月経周期。

3、危険日の特定

4、性感染症の熟知

5、適切な避妊方法。

 

 大衆を支配できない独裁者がいないように、奴隷を支配できない主人が存在してはいけない。

 そして、古来より独裁者の最大の悩みの種が大衆の適切なコントロールである。

 これを誤った独裁者は須く革命によって粛清される。

 大衆に無謀な圧政を強いると例外なく革命、暴動が発生する。

 もっともその引き金は『飢え』だ。

 大衆を飢えさせてはいけない。

 肉体にせよ、精神せよ、財産にせよ、無謀な搾取は自分の立場を危うくするだけである。

 それは奴隷を支配する主人にも該当する事だ。

 奴隷を精神的、肉体的に過剰の圧迫を強いてはいけない。

 奴隷が壊れる。

 アンティークかつ生物(なまもの)である奴隷という商品は、とても繊細で、使い方を少しでも間違えると壊れてしまう。

 しかも壊れた破片が主人の回避不可能な領域に突き刺さる可能性もある。

 故に奴隷に対しては基本的人権とはまた別の領域で奴隷に対する権利を与えねばならない。

 それはつまり、形式さえも古代に染める事。

 要するに、遥か昔、基本的人権なんて言葉が存在しなかった頃にも人間同士において確たる倫理を形成していたという意味であり、転じてこれは奴隷に対し倫理をもって統制するという証明でもある。

 故に、主人は絶対的倫理を所有していなければならない。

 

 次は奴隷である。

とは言っても奴隷側が与える主人への人権など考察に値しないので、ここは言葉づかいにいこう。

 問題は敬語の使い方である。

 敬語には3種類あり、また最上級の使用は二重敬語であるが、奴隷にそれは的確か? という問題に直面する。

 また、敬語の3種類においてその全ての的確な使用は良いのか? という問題だ。

 では、敬語の3つを一つ一つ解析してみよう。

 

 尊敬語。

 話し手側の敬語。主に動作、状態の高尚変化。

 つまり『いらっしゃる』『ご主人様』は尊敬語に該当する。

 ここで重要なのは『ご主人様』が尊敬語に該当するため、この敬語は絶対に必要である。

 ならば尊敬語として『ご主人様』が該当した以上、他の尊敬語も適用されなければならない。

 つまり、会話に接辞『お』『ご』助動詞『れる』『られる』補助動詞『〜なる』の使用が原則となる。

 

 謙譲語。

 これはざっくばらんに言うと、話し手側が、自分を卑しめて表現する敬語。

 別名『謙遜語』『敬譲語』

 実はこの謙譲語という言葉は、ある程度己の立場が立脚している事が条件になる。

 まず『わたくし』は謙譲語になる。また『弊社』『伺う』も謙譲語である。

 早い話、この敬語の使用方法は最初から立場が下だと確定している存在が使う必要がない敬語なのだ。

 何故なら主にこの敬語は立場が対等、あるいは上位に位置する人物が相手を尊重する際に自分を謙ることを使用目的としているため、最初から格下な人物が使用してもその効果が無い。

 極論な例題を言えば、客人に対してメイドさんが主人の事を『主人』と呼び捨てにする行為は謙譲語にあたるのだ。つまり、奴隷が主人に対し謙譲語の使用は根本が間違っており、主従関係において適切ではない。よって、謙譲語の使用は問題である。

 余談ではあるが、メイドさんが客人に対して自分の主人の事を『ご主人様』ないし『旦那様』というのは敬語が間違っている。本来第三者に対して自分側にある事を尊敬語で表現する事は無礼に該当するのだ。つまり、メイドさんが『主人がいらっしゃいます』というのも間違っており『主人が参られます』という謙譲語の使用が適切である。

 

 丁寧語。

 率直に言うと、これは『ですます調』である。

 つまり、使用は助動詞を丁寧に表現する技法である。

 あるいは、名詞にたいしても『お』をつけるなど。

 元々この丁寧語は尊敬語、謙譲語を分割して作られた語であり、ところどころが尊敬語や謙譲語と被っているのだ。

 本来の使用方法は物事を上品に表現するために使う。

 結論は、汚い物言いを清浄化することが目的なのだ。

 飯を食う。を、ご飯を食べる。これが丁寧語である。

 ならば奴隷においてこの丁寧語は必要である事はいうまでも無い。

 いや、丁寧語が無い状態で尊敬語だけの表現ならばまさに『私は頭悪いんですよ』と言っているようなもので実にアンティークであり、骨董であり、古代の奴隷が学業を営めず、無知蒙昧である事を十分に示唆していて極めて良好ではある。

 しかし、それだと『ご主人様は飯を食われています』という実に奇怪な表現となり、かつ、主人側にとってもどことなく違和感・・・否、嫌悪感を苛ませてしまう。

 故に、丁寧語の使用は重要である。

 例題で言うのなら、生徒が教師に対して使う敬語は丁寧語だけで充分だ。

 謙譲語は使用方法が間違っているし、尊敬語だとかなり生意気に感じてしまうので、子供という概念を表現するのであれば、適切であれば、丁寧語だけでいいのだ。尊敬語はいらない。『先生がご飯を食べています』これが丁寧語だけの表現。

ここに尊敬語が入ると『先生がご飯をお召し上がりになっていらっしゃいます』という実に糞生意気な表現に変貌してしまう。

だから、丁寧語だけでよいのだ。

 

 故に、奴隷の使用を許可される敬語は尊敬語と丁寧語の2つである。

 次は、二重敬語についてである。

 ちなみに超目上に対する時にこの敬語は使われるが、その対象は主に神であり、その敬語の名称は『絶対敬語』という。

 この超とはその名の如く『目上』という概念を超えている対象。故に神に該当する。

 あるいは、戦時中、戦前において皇族に対してもこの敬語使用は用いられた。

 ただし、二重敬語は『1つの動詞に2つの敬語を入れる技法』であり、『一文』ではない。

 つまり、先ほどの『お召し上がりになっていらっしゃいます』は『召し上がる』と『なる』の2つの動詞を個別で敬語にしているため問題にはならない。

 これを『お召し上がりになられています』だと二重敬語に該当する。

 つまり、言葉の分割。

 たとえば『まず最初に』だと意味が重複してしまい、適切ではない。

 しかし『まず、最初に』だと意味は重複しないのだ。

 句読点が存在するため文章が途切れるからだ。

 ほんの、1つの表現だけで全て変わってしまう。

 だから『前に向かって前進する』は意味が重複するが、『前に向かって、前進する』だと問題は無い。

 文が違うから。

 問題は奴隷がいちいち言語の際にこれほど面倒くさい段階を踏むべきか否か。である。

 むしろここまで適切に敬語の分割を行うと嫌味に感じてしまう。

 やはり奴隷はある程度存在自体が間違っていなければならない。

 故に、奴隷は二重敬語の使用は問題はない。

 また、奴隷にとって主人とはまさしく超目上に該当すると判断できるので、むしろ二重敬語の使用は適切である。

 

 結果、奴隷は尊敬語、丁寧語のみを二重敬語で表現する事が適切である。

 故に、救済手段は、謙譲語のみの使用である。この言葉はそれ自体が己の存在性をある一定量立脚する事が可能だからである。

 余談だがタメ口とは博打用語で、タメが『同じ数字』という意味である。

 

 

 

第六救済     定義

 

 

 

 奴隷の定義について。

 とはいっても、現時点で定義に対しての理論的な考察は困難である。

 そこで、段階を踏んでいきたいと思う。

 まず、最初は奴隷の呼称である。

 いわば、1頭とか1羽とか1人とか。

 奴隷は商品であり、愛玩動物(ペット)とは別物である。

 無論、愛玩動物も商品であるケースが非常に多いが。

 だが、奴隷は結果、愛玩動物となるケースが存在するにしても、本来の用途、即ち古代様式としての奴隷は犬馬の如く重労働者、即ち道具としての用途である。

 機械のなかった当時奴隷は最も適切な道具として用いられた。

 無論、奴隷は卑しいという定義があるため、ピラミッド建設などの『高尚な仕事』にはつくことはできなかった。

 つまり、雑務道具である。

 道具である以上『匹』『頭』などの呼称は適切ではない。

 故に『個』である。

 1個2個のような呼称が定義的に適切である。

 つまり、物品。

 ならば『彼/彼女』『こいつ』『あいつ』などの表現も適切ではない。

 この場合は『これ』『あれ』が適切である。

 だが、世の中には人形を愛する者や、愛玩動物を家族だと定義する者もいるように、奴隷をいわゆる『愛奴』と定義する事もある。

 この場合においては個人の主観として『これ』『あれ』『個』が的確ではなくなるため、段階がいるのである。

 また、主人にとって奴隷への意識が奴隷を従えていることの自覚が必要となる。

 主人とは、最低でも一個の生物を支配しているため、支配者である。

 支配者は、支配者として適切な威厳を内包していなければならない。

 それはただ峻厳であればいい、というわけではない。

 否、峻厳であればあるほど求められる主人性は強調される。

 その威厳性は、あまり特殊ではない。

 以下は主人の簡単な威厳手段である。

1、主人たる者、常に奴隷から注目されていなければならない。

2、命令、誘引は全て主人が率先して行う事。

3、終了は全て主人が行う事。

4、いかなることも、決して奴隷に負けてはならない。

5、奴隷と行動を共にする時は必ず主人が先導する事。

 このように要するに、主人は奴隷よりも行動する事が条件となる。

 あらゆる事で奴隷が主人の前にいくような事態に陥らせてはならない。

 要するに、奴隷は主人に『依存させる』事。それが、主人の力のバロメータとなる。

 

 ならばもう考察の必要は無い。

 結論、奴隷の定義とは『依存者』である。

 よって、奴隷の第六救済は1つだ。

 主人に勝つこと。

 

 

 

第七救済     服従

 

 

 

 まず、この救済は『奴隷戒典(どれいかいてん)』というものを定義してみた。

 これは奴隷の権利一切を無視した奴隷の理想の終点を経典形式にしたものである。

 

奴隷戒典(どれいかいてん)

第一条       戒宣

1、奴隷は主人の所有者として一切の自由を剥奪し、人間の権利を放棄しなければならない。

2、奴隷は生態道具と定義し、思考、飲食、排泄、果てや呼吸の一切に至る全権利を放棄、その執行権を主人に依託する。

3、奴隷が妊娠した場合の一切の責任を主人は負わない。

4、奴隷の人間昇格は全て主人に委ねる。

5、奴隷の心身的障害においての一切の責任を主人は負わない。

6、主人が死んだら殉死しなければならない。

第二条       戒従

1、奴隷は自主的に主人に快適な生活を送れるよう奉仕する義務を負う。

2、主人の命令はいかなる非人道的な内容であろうとも絶対服従。

3、奴隷の肉体を破壊(四肢切断など)する権利を主人は有する。

4、奴隷に与えられる感情は1つ『感謝』のみとする。

5、実行不可能な命令に対しても、命が尽きるまで施行しなければならない。

第三条       戒日

1、奴隷が許される言語は尊敬語、丁寧語、二重敬語が含まれなければならない。

2、奴隷は自分の財産を全て主人に贈与する義務を負う。

3、奴隷は主人を侮辱してはならない。

4、奴隷の衣服は全て主人に委ね、奴隷は自分の意志で衣服を着用する事ができない。

5、主人と対峙するときは必ず跪くこと。

6、主人の友人、家族、親族に対しても奴隷は屈服しなければならない。

第四条       戒労

1、奴隷は必要に応じて主人の生活に関する一切の家事を引き受ける義務を負う。

2、その時、主人の命令が無い場合は光熱費、電気代がかからないように家事をしなければならない。

3、主人が奴隷を便器にした場合は、主人の命令がない限りは全て胃に収めなければならない。

4、基本的に奴隷の餌は主人の残飯とする。この際、皿1枚(あるいはその代用品)を除く食器の一切の使用を禁ずる。

5、奴隷は便器で排泄してはならない。その時、汚した床は全て己の体を持って清掃する事。

第五条       戒奉

1、奴隷は必要に応じて主人に対して性的奉仕を行う義務を負う。

2、奴隷は主人の命令なしでの奉仕を禁ずる。

3、奴隷は主人の命令なしでの自慰を禁ずる。

4、奴隷は主人の命令なしに奉仕を中断してはならない。

5、奴隷は主人が他の者と交わる間は正座して待機する義務を負う。

第六条       戒罰

1、主人、または他の者が行った失態は全て奴隷が責任を受け持つ。

2、奴隷が失態を行った場合は主人の主観で罰を与える権利を持つ。

3、奴隷が一切の失態を犯していなかったとしても、主人は奴隷に罰を与える権利を持つ。

4、主人が与える罰は、いかに非人道的であろうとも、生命に危険が及ぼうとも、必ず実行、あるいは享受しなければならない。

5、そのとき奴隷が死んでも主人には一切の責任がなく、自殺とする。そのために、奴隷になった時点で遺書を残す義務を負う。

第七条       戒除

1、主人は奴隷を自由に売買する事が出来る。

2、主人は奴隷を自由に廃棄する事が出来る。

3、奴隷は死んでも主従契約は切れない。

4、主従契約の解除は主人しか行えない。

 

 

 

 以上七つの救済理念を定義した。

 最後に、奴隷を勝利に導く7つの掟を制定する。これを『奴隷七解(どれいななかい)』と名づける。

 

 

 

 奴隷七解(どれいななかい)

1、奴隷である時と奴隷でない時の2つの自分を形成すべし。

2、生命にかかわる命令は従ってはならない。

3、理性と知識のない主人に従ってはならない。

4、社会生活に支障をきたす命令には従ってはならない。

5、主人が暴走したら謀反すること。

6、生活が破綻するレベルの財産の贈与を行ってはならない。

7、主人が死んでも殉死してはならない。






回帰