この学校制服徒然草における妄言真理は、規範の概念をぶち壊す。

 壊す。壊れる。破壊する。

 ロリ正当理論に匹敵するレベルの異常文章にする。

 え? なんで?

 だってたまには暴れてみたいじゃないか!!

 

 

 

 著・深田あり

 

 

 

 これは哲学体系ではありながらも、内容を哲学と定義するのは難しいものである。

 よって、これは異質と定義する。

 ちなみに文章形態は『徒然草』と同じでいきたいと思う。

 そのため、少々問題のある表現もあると思うが、文句があるなら吉田兼好に言ってくれ。

 何故ならこれは徒然草を片手に執筆しているのだから。

 

 

 

 今は昔竹取の翁といふものありけり・・・ってチャウ。これは竹取物語だ。

 では気を取り直して。

 

 序文

 

 つれづれなるままに、日ぐらしすずりにむかひて、こころにうつるよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

 

 

 

 1段 望むべき制服の姿

 

 この世に生まれたからには「いい制服だなあ」と思える制服を見つける機会は本当に多い。

 セーラー服は本当に恐れ多いもので、北は北星新札幌高校から、南は沖縄首里高校まで衣服という概念を超越しているのではないかと思えるほど尊い。

 ブレザーの感動も当然のように高く、たとえお世辞にも美形とは言えない容姿であったとしてもそこに感動が生まれるのだから、本当に大したものだろう。

 もしもそれらを着用していた彼女たちが年を取り、離れたとしてもそれでもやはり素晴らしいことにかわりはない。

 私服を纏い、それなりに美形で、それをいかにももっともそうに「学生に制服はいらない」などと顔に出している者は本当にみっともないことこの上ない。

 

 その一方で、男子制服をうらやましいと思う者はいないだろう。

「世間から木っ端のように思われている」と清少納言が書いているものの(え?)確かにもっともな事である。

 また、時の勢いに乗って女装した男子など論外である。

 

 容姿、振る舞いが抜群な事も望ましいものである。

発する言葉も聞き取りにくいということはなく、愛敬がある人となら、飽きずに向かい合っていたいものだ。一方で「素晴らしい人だ」と思っていたのにその本性が醜いもののように思えたりしたら、それは非常にみっともないことであり、残念極まりないといえる。

 

 姿、形は生まれつきであるが、上へ上へ目指そうというのならば、どこまでも、実にどこまでもその中身を高めることはできよう。

素晴らしい容貌を持っていたとしても、思慮や能力が欠けていれば、品というものも感じられなくなってしまう。

そしてお世辞にも顔が良いとは言えない人の中にさえ埋もれてしまうのだ。それは本意ではないだろう。

 

「こうありたい」と思われるその中身は学校制服、即ちセーラー服やブレザー、ブラウス等に通じ、服装の力において耀く程に素晴らしくあることである。

大妻、実践女子、白百合、目白、成蹊、フェリス等のセーラー服から慶応義塾、駒場、豊島、大西、八雲等のブレザー、アレセイア、栄東、立正等のブラウスなどに感涙するのが、人類として相応しい。

 

 

 

 2段 衣服の頂点に立つもの

 

古くから続く衣服の歴史、その重さも忘れ、個人の享楽に溺れ、伝統が希薄になっている事にも気がつかず、とにかく流行三昧を尽くしたい放題にある者というのは、本当にどうしようもなく思われる。

 

「衣服や冠から、馬や車に至るまであるがままの形で使いなさい。美麗を求めてはいけない」と九条(藤原師輔)も言葉を残している。

 

全人類の深層意識に関して深田ありが勝手に解釈した中にも「衣服の頂点は、制服をもってよしとする」とある。

 

 

 

3段       制服に関心の無い男なんて・・・

 

どんなにあらゆる事に通じていても、女性に訴えかける魅力の無い制服や、制服に興味を持たない男というのはどこか物足りなく、「立派な制服だ」と思って見たら私服だった、といったような詰めの甘さを感じさせるものである。

 

制服を見ながらふらふらと歩き回り、親の言葉や世間の評判ばかりをあれこれと気にする男。一人で寝ることが多く、制服を思うあまり、眠りが浅くなってしまうような夜が無い男というのも、なんとも味気ないものである。

 

とはいえ、制服を追い回してばかりいることもなく、変態と思われないというのが男としては望ましいものであろう。

 

 

 

 4段 制服の定義

 

制服とは、学生のことを常に惟い、若者の光に通じている衣装をさす。

 

 

 

 (中略)

 

 

 

8段       心惑

 

人を惑わせるもの、それは制服。人の心などは本当に未熟なのである。

 

制服は一時的なものでしかなく、それを承知で若者は制服を纏う。

だが、そのようにやがて消えてゆくものであったとしても、一時期しか着る事の出来ない衣装を求めようとするのは、これまた当然のことといえよう。

 

深田ありが小学1年生の時ブルマを穿いている女性の姿を見て倒錯したというのも、確かに納得の行く話である。

白と紺のコントラストが美しく、ふっくらと色づいているその姿は、肉体のような一義的な物ではない。

となれば、なるほど制服が馬子にも衣装の最高傑作というのも納得できる話だろう。

 

 

 

(中略)

 

 

 

10段 制服に宿る心

 

 調和がとれ、理想的な制服というのは、たとえそれがたった3年間という刹那な時間であったとしても、自ずと趣が感じられるものである。

 

 制服を着た人が自然体でそこに佇立する姿には、射し込む日の光でさえ、一際感じ入るものがあるようだ。

今風な服ではなくとも、白百合学園、関東国際高校、大妻、東京女学館、成蹊などにも味があり、成徳においても見る者を石化させかねない威力を秘めたその衣装にこそ、深みがあるように思われる。

 

 

 

(中略)

 

 

 

 14段 ブレザーは・・・

 

制服とは本当に奥が深いものである。

不潔な者や根暗な者も、制服を纏えば趣あるものになり、恐ろしい醜女も制服を纏えば美しく感じられるようになる。

 

近頃の制服は圧倒的にブレザーが横行し、確かに非常に美しく、楊貴妃も裸足で逃げてしまうと思われるものはあるのだが、どういうことなのかセーラー服のようなクレオパトラが失禁してしまうほどの神々しさが見えてこない。

セーラー服が『豚さえも真珠となる』とまで言わしめるその力は、もはやそのセーラー服の神聖と断言してもよいものだが、ブレザーにこれが可能だとは思えない。

ブレザーには、容姿や内面を押しのける強烈なパワーと神聖さがセーラー服よりも少なく感じ、その者の容姿に圧倒的に左右されてしまう。

無論、容姿さえ良ければブレザーの神々しさは並外れており、ヘレネさえも豚に見えてしまう程のパワーを秘めている。

しかしそれはさかしまに言えばセーラー服のように『容姿さえも無効化してしまうほどの圧倒的な毒々しさ、悪魔性が存在しない』と言える事かもしれない。

 

無論、セーラー服だけにそれだけの魔性が秘めているとは考えがたい。

目白、学習院、川村、山本学園、藤村女子、日本女子、松陰、金城学院などのセーラー服は、確かに魔性に満ちている。

しかしながら久留米、三木東、上野学園、品川女子、などのようなものに宿る魔性は否定できない事は事実でもある。

バランスが難しいのだ。

結論を言うと、東邦、東洋、つくば国際、青陵、秀明、国士舘、駒込などのどれがどれだかわからない統一的凡庸性だけで比べれば、同じ凡庸でありながら魔性を秘めているセーラー服との確執がおわかりいただけることだろう。

 

無論何事にも例外はある。

埼玉平成は高校はどうでもいいが中学校の制服は明らかに魔性があるように思われるし、埼玉栄も中学校は秀逸だ。

中には桜美林のように夏服は秀逸だが冬服は凡庸なものまで考えれば極めて複雑である。 

茨城キリスト教も高校はともかく中学校は東星学園の中学校や法政大学女子みたいなデザインで非常に秀逸である。

魔性を秘めているのは何もセーラー服だけでは無いという事だ。

 

それに川村や東洋英和女学院のように露骨なセーラー服はともかく松山東や富田のようなセーラーの場合明らかに魔性が薄れているような気がしてならない。

いやあ鈴鹿高校のように平成15年から制服が変わったりするとまた別だけどね。どこにもない斬新な制服と姪を打っておきながらどこにでもありそうな気がするのはきっと深田ありだけではないだろう。あ、東京文化はどうだろう。あれも変わったけど。

 

 

 

(中略)

 

 

 

 35段 たとえ顔がまずくとも

 

顔の醜悪な人が、それに遠慮することなく世間を肩を切って歩く事は良いことだ。しかしそれをみっともないとして、引きこもるのであれば煩わしいことこの上ない。

 

いじめとは些細な事で発生する。

故に、いじめが永遠に続く事は無い。

延々と続く苦痛を与える人間は、些細な理由では行わない。

少なくとも、与える側の人間は。

 

 

 

(中略)

 

 

 

 39段 制服に倒錯する者は救われる

 

 ある人がある人に「制服を見つめると心が葛藤を行うのです、欲望と理性が激しく争い、心が傷つくのです。どのようにして葛藤を打ち払ったらよいでしょうか」と訊ねたところ、「理論武装して制服に倒錯すれば良い」と答えたという。何とも尊いお言葉である。

 

 また「制服を眺めて極楽を感じること、これは正当だと思えば正当になるだろう。しかしそうではないと思えば不当になるものだ」とも言われたそうな。これもまた尊いことである。

 

 また「たとえ制服を眺める事を恥じてしまっても、制服を愛することでそれは無敵の理論武装となり、恥じなど超越し、極楽へ辿り着けるのだ」とも言われたらしい。これもやはり尊いことである。

 

 

 

(中略)

 

 

 58段 制服欲

 

 制服とは素晴らしいもので、跡見学園、頴明館、大妻、吉祥女子、暁星国際、光明学園、渋谷教育学園、昭和学院秀英、成女、聖ヨゼフ、瀧野川女子学園、土浦日大、東京学館、二松学舎、雙葉、聖園、武蔵越生など挙げれば本当にきりが無い。

ここまで多いともはや独立した欲求と断言できるだろう。

 

 制服への渇望、その探求心は古に遠く及ばない。

学生を無視し、年増に心変えしたとしても、あの年齢のみが放つ威光、あの服から感じられるキリストにさえも匹敵するオーラがその年増に感じられないなら心変えは難しい。

いや、不可能だ。制服への思いそのものが、常識から逸脱し、自分の欲望に執着しているように見えてしまうのも、確かに当然のことだろう。

かといって「現実と向き合おうともしない変態的な倒錯趣味」と一言に切り捨ててしまうのも、またあまりにも容赦のないことである。

一度でも『自分』を考えたり、また自分の信念を手にした者の持つだろう力は、常識的の者が持つ「倫理」からすれば確かに逸脱しているかもしれない。

日本橋女学館、安城学園、女子聖学院、そして、21世紀でもブルマが健在だった奇跡の学校、桐朋女子高等学校! これら芸術的な学校など、常識人たちの倫理の前には全てチリと同じ。どれであろうとも彼らにとっては同じであり、したがって侮蔑の対象となる。

だが、彼ら常識人たちは侮蔑する事以外の愉悦がなく、目先のことしか求めず、大局的な思考ができず、何も生産しないで一生を終える事が多い。

 

 人として生まれたからには、己の信念を貫くことこそ本意である。ただ目先の事にのみうつつを抜かし、自分の未来と向き合おうとしない姿は、あらゆる畜生と何が一体異なるというのか。 

 

 

 

(中略)

 

 

 

 107段 金なんて・・・

 

 日本に一体いくつの学校が点在するかは定かではないが、学生服としてのセーラー服の発祥は、福岡女学院である事はあまりに有名である。

セーラー服の始まりは1920年頃父母や生徒から、体操服や運動に和服・袴では不便で経費がかかるという声もあり、リー校長が委員長となり欧米各国の服装を調査し参考にしたという。

余談であるが、福岡女学院の夏服は白ではなく、水色である。

 

 若さとは、一種の信仰である。

年老いた者が今まで築き上げた、溜め尽くした財産を惜しげも無く投資してでも手に入れようとする。

人の1人や2人平気に殺してでも手に入れようとする。それほどまでに若さとは、素晴らしいものだ。それがタダで手に入れてある学生という時期がどれだけ価値のあるものか。

 

 若さを求める者たちは涙を流す。

若い時期を放棄した挙句金を手に入れ、その金で若さを買おうとするのだから絶望的な循環である。

 

 ところが目先を変えれば若さは誰でも手に入れていたのだ。

生れ落ちての数十年間、ないし数年間のほんの短い針の先のような刹那に、たしかに若さはあったのだ。

刹那は実在したのだ。

それを金のために放棄する事が、どれだけ愚かである事か。少なくとも、金や名誉よりも若さが欲しい人間だけは、若い頃を放棄してはいけない。

 

 若い頃から苦労すると大人になっても苦労する。

それは若い頃の苦労は全て大人になって金や人脈に換金されるからだ。

つまり、金のための苦労すると、大人になって金以外の事で莫大な苦労をする。

困らないのは金だけだ。

金に困らない年齢になってしまったらどれだけ金をつぎ込んでも可能とする若さなど20代が限界だ。

何億つぎ込んでも10代にはなれない。即ち、制服が定義される年齢とは、金では買えないのだ。

 

 

 

(中略)

 

 

 

 117段 制服十戒

 

 世の中には、学校制服を着込むのに相応しくない人間が7種ある。

1つは学生とは言えないほど年齢の過ぎてしまった者。

2つは幼稚園も入園してないほど幼い者。

3つはあまりに筋骨隆々の者(ガクランはいいかも)。

4つは酒を飲む者。

5つは見かけが学生っぽくない者。

6つは犯罪者。

7つは会社の社長である。

 

 一方、制服が好ましい人間には3種ある。

1つは若い者。

2つは素直な者。

3つは賢い者である。

 

 

 

(中略)

 

 

 

 127段 制服だからね。

 

 制服のデザインを改めても前のよりよくならなければ、改める価値が無い。

例えば、中京女子は水色セーラーの方がよかったとか。

 

 

 

 (中略)

 

 

 

 200段 制服は偉大なり

 

 制服は偉大なり。

制服は神々しい。

神に最も近い衣装は制服かもしれない。

ブルマとまではいかなくとも人類の栄光を一身に受ける英雄的衣装が、制服である。

 

 

 

(中略)

 

 

 

 終文 妄言真理

 

 さあ、今までいろいろ中略したが徒然草風に(というか徒然草そのまま)に制服を語ってきた。

 ちなみに50段あたりから次の段落の飛び具合があまりに極端なのは徒然草があまりにクソ長いため(全2巻だけどな)これ以上書いてられないからである。

 最後は妄言の真理である。

 これは、吉田兼好ではない!

 

 制服とは、規制である。

 規制とは、統一である。

 1つの集団として形成するための固有様式である。

 そしてその固有様式を識別するための概念が、制服である。

 つまり視覚情報。

 それは即ち人間の視覚に『その学校』の全てを定義させる情報の提供である。

 しかしそれは現実ではない。

 学校の定義する仮想、幻想を具現した理想が制服なのだ。

 学校が目指す仮想であり、幻想であり、理想の結晶。

 学校がこうありたいと願う願望の全て。

 故に制服は美しい。

 制服には夢幻の全てが詰まっている。

 明るい光が内包している。

 夢見る世界が展開している。

 それを衣装として具現しているから、だから制服は倒錯する価値がある。

 ブルマのように全ての女性を解放へと導く理念があるように。

 制服にも、学生にその学校の目指す理想の1つのカタチを発現する理念として、存在するのだ。

 それは俳句や短歌と同じ。

 限定された文字数いっぱいに理想をつめこむ。

 啄木のような悲しみも。

 子規のような自然の美しさも。

 わずかな文字を駆使して世界を展開させるように、制服も全ての理想を展開する。

 ブルマが平等の全てを結集した史上最高の概念であるように。

 だから、制服は美しい。

 甘い世界に満ちているから。

 暖かい色に溢れているから。

 だから、こんなにも、替え難い。

 栄光の衣装だ。






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