行灯袴の考案者は華族女学校校長下田歌子という人物です。
たしか1890年(明治23年)に誕生した、比較的というより絶対的に新しい袴です。
実は1883年に女子の男袴の着用が禁止されたのです。
そのため女袴なる概念が誕生したのです。
行灯袴発祥の地、華族女学校は1906年にかの有名な学習院と合併しました

                                             (同人・慟哭2005年10月25日より抜粋)






著・深田あり






さて、上記にも示した通り行灯袴とは近代衣装の結晶であるが、とは言ってもこれ以上何を説明したらよいのかわからないので、行灯袴の考案者、下田歌子と華族女学校について説明しておきたいと思う。






1章 下田歌子



まず、下田歌子(1854−1936)についてだ。

幼名は平尾銘(ひらおせき)と言う。

代々学者を輩出した、ようするにイイトコのお嬢様として生まれた銘は幼年期から妙に上手い歌を詠んできた。

例えば『見渡せば 寒さもわたる 大井川 氷の上に つもるしらゆき』というものがある。

なかなかに上手い歌だが、これが9歳の時詠んだというのだから非常に悪質である。

何が悪質かって?

上手すぎるんだよ! 9歳の歌にしちゃ!

で、その上手すぎる歌を詠んできた銘は17歳の時、神祇官宣教掛となる。

その後19歳の時に宮仕えをし、そのあまりの歌の上手さから皇后から『歌子』の名を賜名する。

まったく貴族は有閑階級って本当だね。

まあ、それはいいとして、その歌子は26歳の時に宮仕えを辞め、結婚する。

相手は豪族・下田猛雄。

そして29歳の時に私立桃夭学校を創設。早い話お嬢様学校である。

歌子が31歳の時、夫・下田猛雄が没してしまう。

ようするに、未亡人になってしまったのだ。

しかしその2ヵ月後の事だ。

歌子は宮内省御用掛を拝命し、華族女学校創設する。

時に、1884年7月の事だ。

そして翌年、華族女学校は開設。

その時すでに女学生の男袴の着用は禁止されていた。

歌子は考える。

そして生み出されたのが襠の無い袴、即ち、行灯袴である。

その後も歌子は『家政学』や『国文小学読本』などの学術書を執筆したり、欧米各国女子教育状況視察のため、渡欧したりなど素晴らしい経歴を持ち、果てにビクトリア女王に拝謁したという。

また愛国婦人会などの女性向上に努め、53歳の時に華族女学校を学習院女子部に合併。教授兼女学部長となる。

他にも実践女子などの女学校を次々と開設し、最終的には74歳の時叙勲三等瑞宝章をも授与される。

中々に凄い人物ではあるが、83歳の時に肺水症のため逝去。1936年(昭和11年)10月8日の事だった。






2章 華族女学校



さあ、最後に行灯袴発祥の地、華族女学校についてだ。

華族女学校は千代田区永田町に存在した。

あれ? もう終わり?

じゃあ、もう少し。

他にも日比谷通りを 日比谷方面から北上して 神田橋を渡り, 1ブロック西側の通りに入る。 神田錦町郵便局の向かい側, YASUDA GREEN PALACE という建物の前に 華族女学校の礎・・・じゃなかった碑が建っている。

え? もう終わり?

だって華族女学院って早い話学習院だし。

皇室御用達だし。

それ以外何を語れと?

何? 当時の学習院や華族女学院は文字通り『華族』は入学無料で、庶民は大金を積まないと入学不許可という差別の塊みたいな学校だったとか?

何? 華族女学院は正確には学習院ではなく、学習院女子だとか?

何? 入学試験あわせると入学資金だけで114万3000円かかるとか?

何? 実践女子は華道部が小原流と桂古流の2つあるくせに学習院女子は1つしかない(池坊)とか?

何? 学習院女子の進学は何故か法学部が一番多いとか?

何? 両親の職業・家柄・学歴は一切関係ないとか明記してあるけど極めて嘘くさいとか?

まあ、いいだろ別に。

・・・そういや歌子の学校である実践女子も学習院もセーラー服だね。どうでもいいけど。

歌子はわかってると思う。

さらにどうでもいいけど井口阿くりという人物をご存知だろうか?

そう、彼女こそ体育学を学ぶため留学生として渡米し、ブルマの機能性に瞠目した人物。

もっとわかりやすく言うのなら、日本にブルマを伝来した人物!!

もっとも、フェリスを始め多くのミッション系女学校では既にブルマが存在したんだけどね。





3章 行灯袴



おっといい忘れた。

華族女学校の行灯袴はカシミアだ。

では、このへんで。

シーユーネクストパッション(また次の熱情で)






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