魂の分岐


2005/10/28(Fri)■今日で一週間連続慟哭更新

昨日の深田哲学において少し言い忘れた部分を。
命が金より強いもう1つの理由を言い忘れていました。
といっても単純です。
深い論理などありません。
なんせ言い忘れるほどですから。
命が金より強い理由。
それはただ単に金を駆使するには生きていないと使えないからです。
飯を食うためには金も必要ですが、それ以前に生きていないと飯など食えません。
極端な話、金なんかなくても木の根っこだって食えるんですよ。
戦時中や戦後直後の貧しい日本では、虫を捕まえて食べていたといいますし、何より昔の農民が飢餓に直面したのは金がないからです。
それでも死なないレベルで飢えをしのいでいたでしょう?
まあ、餓死者は必ず出たのですが。
服を着ることもそうです、生きていない限り服など着る必要がありません。
戦時中の兵士は死んだ兵士から服をかっぱらって自分が着込んだといいます。
あくまで金は手段です。
たまに目的を凌駕しますが、どっちにしろ前提には勝てません。
生きていなければ金は使えないという絶対の前提には。
ただ生きるために金が必要なため、どちらかというと支えあっているといった方が適切かもしれません。
となるとは基本状態で互角
だからこそ、時間という味方を命が得た時、を凌駕することができるのです。

さて、今日は信仰です。
信仰には時間などという小細工は必要ありません。
さて、信仰というと宗教をイメージしてしまう事かと思います。
実際信仰という言葉は宗教用語ですから同然ですよね。
信仰とは特定の概念を心の拠所にする行為の事を言います。
つまり、その1つに神や仏を崇めるという信仰があるにすぎません。
ま、仏教の極意でもある無我の境地も1つの信仰ですね。
無我の境地に到達するのに金などいりません。
というかむしろ邪魔です。
あっては困るんです、金など。
そう、信仰はそれ自体が金を否定するのです。
いえ、最初から金などという概念は頭の片隅にも存在しないのです。

たとえば愛は金より強いと信仰している人にとっては本当に愛は金より強いんです。
何故ならその人にとっての愛とは愛する事が信仰であり、結果どうなろうと知ったこっちゃないからです。
何十億という金よりも、自分の信仰の方が重要なんです。
要するに、信仰とは心です。
金とは、結果を作り出せる概念です。
よってさかしまに言えば結果を目的しない概念の前に、金は役に立たないのです。
だってそうでしょ?
結果を生み出せなければ、金などただの紙切れです。
あくまでも金の価値とは、金を使えば結果が生まれるという前提があるから、金を求めるのです。
例えば宗教に信仰している人はあの世があるとか死後の世界とかは本当はどうでもいいんです。
宗教を信じるという信仰こそが重要であって、内容はどうでもいいんですよ。
その証拠に、お寺のお坊さんに「空とはどんな概念なのですか?」と聞いても半分以上の人は答えられませんよ。絶対。
信仰とはあくまでも結果ではなく経過、いいえ、原因です。
信仰とは原因と目的とする概念なのです。
逆なんですよ、金とは。
金は結果を目的とする手段として存在します。
一方信仰は原因を目的とする手段として存在します。
金も信仰も経過にすぎません。
ただ、目的が正反対なだけです。

だから信仰は金など眼中にもないのです。
命と金のようにお互い目的が同じなため命が金に勝つためには金という悪峰を登りきらなければなりません。
しかし信仰の場合、最初から峰に上らないんです。
そもそも土台が真逆ですから。
金は峰ならば信仰は深海です。

問題は命は峰にも深海にもどちらにでも行く事ができるのです。
ところが金という峰の魅力・誘惑に人は踊りますが、信仰という深海の魔力・強制力の前に砕け散るのです。
何だかんだ言っても金はとても大切ではあっても、金は嫌われ者なんです。
あまりに峰が険しすぎて、途中で挫折してしまうんです。
ところが信仰という深海はただ漂っているだけで底まで運んでくれるのです。
そう、なんですよ、とても。
金よりもず〜っと楽。
だから人は金という峰よりも信仰という深海に誘い込まれるのです。
だから、金より信仰の方が強いんです。
しかも困った事に、この楽な信仰を苦痛レベルまで貫き通すと境地に到達できる概念が多々あります。
金で境地に立てる概念など・・・思い浮かびません。
せいぜい享楽に埋もれた貴族的生活くらいでしょうか。
いわゆる昨日描いた理想世界
欲望の到達点。
金の限界です。
ところが楽なこの信仰は境地が存在するという点でも人を掴んで放しません。
だから、どう考えても信仰の魔力の前には金など太刀打ちできるものではないのです。
むろん、信仰という深海の浅瀬を漂っているレベルの人には金の力で陸地に引き上げる事もできるでしょう。
しかし、何万メートルという深海まで潜ってしまった人を陸地に引き上げる事は不可能です。
一方金という峰は飛び降りればいつでも深海に叩き落せます。
そう考えても、やはり信仰の方が金より遥かに強いのです。


2005/10/27(Thu)■最近毎日慟哭更新してるね

来自未来世界。
幇助現代的年軽人。
克服很多坏炎オ。

現代社会的年軽人。
害怕困難。
不愛学堰B
独立能力差。

性格井朗。
温柔大方。
是大雄青。
梅丈馬的好朋友。

性格暴躁。
周皮覇道。
只以自我為中心。

・・・って何書いてんだ?

まあ、さっきのが一体何かは別にいいでしょう。
別に。
大雄とか宜静とか技安とはどうでもいいんです。
あれが多拉A夢だという事はどうでもいいんです。
というかタイトルが多拉A夢のくせに機器猫とは一体何事でしょうか?
これはある意味トンチャモンやDONGRI、Mr.IQ、ブロードバンド君より意味不明です。
すみません。何か書いてるかわからないと思います。
じゃ、この話はもう止めにしましょう。

人は平和を尊びます。
人は博愛を尊びます。
人は平等を尊びます。
人は自由を尊びます。
人は権利を尊びます。

確かに、これらはとても美しく、甘く、まるで蜜のような概念です。
でも、甘いから。舌にニチャニチャとまとわりつくから、蜜だから、だから、人はこの蜜に飽きるんです。
たまに、辛いもの、塩辛いもの、苦いものを欲するのです。
人は甘いものが大好きですが、それだけでは満足しないのです。
何故なら、平和とは退屈であり、博愛とは攻撃ができない事であり、平等とは差別ができない事であり、自由とは誰も支えてくれない事であり、権利とは誰かに支配されるという事だから。
つまり、分不相応なのです。
人間にはあまりにも不相応な概念なのです。
だって。
人間とは刺激が欲しくて、攻撃がしたくて、差別がしたくて、誰かに支えてもらいたくて、支配されるのが嫌という物凄く自己中心的な生物なのですから。
そんな悪魔のような生き物が蜜を永遠に欲する事など在り得ないのです。
そもそも、人間は自分勝手です。
彼らの定義する理想世界とは自分の人生に支障をきたす事無く刺激に満ち溢れ、みんなから愛されていながら自分は攻撃し、かつ支配階級に存在し、自由奔放に日々を過ごしながらも生活は保障してくれる世界なのですから。
こんな夢のような・・・と、いうよりも自分勝手な世界を彼らは望むのです。
おそらく、人間が何千年も前から夢見つづけたあの世、天国・極楽という世界像はこのようなものなのかもしれません。
そして、この理想世界を可能としてくれる素晴らしい概念がこの世にはあります。
しかもそれは一定量を溜めなくても身分相応の夢と理想を実現させてくれる魔法のような概念です。
おそらく人類5000年の歴史において最高の発明と言えるでしょう。
ご存知です。

金より大切なものはある。
そういう人は多い事でしょう。
そして、人生において金を超越する事態に直面する機会もあることでしょう。
しかし! さかしま言えばよっぽど特別な事が無い限りという悪峰を越える事など不可能という事です。
金という峰は常識では考えられないほどに高く険しく悪質なのです。
並大抵の概念など金の前には塵の前に同じ。
もはや金という峰は要塞というに相応しい。
並大抵の兵はおそか兵器など何の役にも立たないのです。
それこそ旅順にトテトテトーと突撃するようなものです。
3度突撃しても全滅がオチです。
金はこの理想世界を可能な限り叶えてくれます。
文字通り甘くて辛くてしよっぱくて苦くて酸っぱいという五味全てを兼ね備えた概念です。
料理で言えば麻婆豆腐です。
麻婆豆腐は麻という人物が発明した料理だからそう言うんですが、まあこれはいいでしょう。

金とは大切なのです。
ただの紙切れ? とんでもない。
人間の命さえも押しつぶすほどの力を持った紙切れなのです。
飯を食うにも、服を着るにも、家に住むにも、遊ぶにも、勉強するにも、運動するにも、恋愛するにも、治療するにも、仕事するにも、供養するにも、戦争するにも、政治するにも、生きるという行為は無しでは行えないのです。
つまり、さかしまに言うのなら、生きる事が前提となる概念は全てより格下です。
金に勝つためにはその前提をブチ壊さなければなりません。
つまり、生きるという前提が存在しない概念。
要するに、死ぬ事が前提となる概念
これが金よりも強いと言えるのです。
金という悪峰を本気で越えたいと思ったら生きるという前提は放棄しなければなりません。
文字通り手を滑らせたら即死。
乗り越えても結局は降りられなくて死ぬ。
それくらいの凶悪な峰なのです。
金に勝つのは生半可な事ではありません。
それこそ峰を越えたら死んでもいいくらいの概念でないととてもとても・・・。

まず金より強いのは命です。
生活するのにがいるし、戦争するのにもがいるし、病気を治すにもがいるので極論から言えば命は金より弱いかもしれません。
なんせ金がないと生きていけないのですから。
つまり命が金を超えるには味方がいるのです。
そう、時間です。
時間は金では買えません。
例え何億つぎ込んでも、時間は買えない。
それは命の場合。
命が金に勝つためにはこの時間を味方につけなければなりません。
命が金を凌駕する時間帯。
金では絶対に買えない時間。
つまりどういう事か。
人間は死ぬ事が確約された瞬間、金の必要がなくなります。
この時間において命は金を超えるのです。
目の前に銃口が突きつけられた時、事故で車が崖から転落した時、あるいは、自分以外の人間の命がそういった危機に陥った時。
文字通り限定的な状況。
時間という味方をもって、さらに命を放棄する程の危機的な状況。
金とは間接的、未来的にか効能を発揮できないという致命的な弱点があるので、直接的、限定的な状況においてのみ、という悪峰を越えることが出来るのです。

命ではまさに寸差の勝利ですが、金という悪峰を軽々と越えてしまう概念があります。
それは信仰
信仰の前には金など何の役にも立ちません。
非常にへんちくりんな例えですが、例えば暴動を起すにも金がいります。
人を支配し、扇動するにも金がいります。
しかし、信仰の前には金はいりません。
武器を手に入れるにも金がいる?
だったら素手でも石ころでもそこらへんに転がってるじゃないですか。
信仰とは結果という前提を無視した概念です。
例えば金のないロシア庶民が2月革命を起しました。
パンよこせ。
子供たちは、飢えている。
有名な言葉ですね。
でも、金の力で生み出された機関銃が金のない庶民を殺しまくります。
しかし、信仰の力はいとも容易く多くの屍とともに金を、そして金で生み出された暴力に打ち勝ったのです。
一揆だってそうでしょ?
金のない農民が錆びた鎌を竹の棒にくくりつけて町やら城やらに襲い掛かるのです。
彼らは不満を訴えるという信仰のために、命も結果も完全に無視しているのです。
金などいらないという信仰。
目先の金など知らないという信仰。
殺されたって構うものかという信仰。
殺せるもんなら殺しやがれという信仰。
つまり、結果という前提がないので金の価値がないんです。
さて、詳しくは次回述べるとして、今日は軽く。
わかりやすく言うのなら、金という悪峰の前提である大地があるから峰があるという常識が信仰の前には通用しないのです。
え? わかりにくい?
じゃあもう少しわかりやすく。
結果さえ気にしなければ。
信じる者は救われるのです。


2005/10/26(Wed)■最近のマイブームは漢字

マイブームの漢字とは。
ただ単にマイナーな漢字を見てるだけなんですけどね。
うわ〜暗〜。
でもなんかおもしろい。
まさか驫みたいに変換できる漢字ではなく、変換不可能な漢字があんなに沢山あるとは。
つーか84画の漢字って・・・。
龍4つたしたあれより多いとは・・・。
まあそんな使い道の全く無い漢字を眺めるのが最近の根暗な趣味です。

さて、昨日の自殺の理由の中にいくつか意味不明なものがありましたね。
全部は深田あり自身もよくわかってないのがあるので確実にわかるものをいくつか説明しましょう。
まず、ぼんやりした不安
これは芥川竜之介の自殺の理由です。
遺書にそう書いてあるんですよ。
「僕の場合は、ぼんやりした不安である。僕の将来に対する、ぼんやりとした不安である」
って。
次に死を仮想する事で生を理解する。
これは死を神聖なものと解釈し、死ぬという行為を行う事でリアルを体感するというものです。
だいたいが狂言で終るんですけどね、たま〜に本当に死んじゃう人もいます。
次はファッション感覚。
文字通り死ぬという行為を娯楽の1つとして考えるものです。
これの場合は死ぬという行為で周囲の目を引くという理由で行う場合があります。
次は芸術感覚。
これは死に対する反逆。あるいは、生きるという行為に対する反逆。もしくは自分として死ぬという意味。
自分の意志で死ぬという事です。
天国は楽園と神の元へレッツ・ゴウの違いはただ単に死んだ後の世界に希望する人間と、宗教思想で死亡する人間の違いです。
つまり自爆テロなんかは後者になるケースが多いですね。
破滅したいというのは、文字通り破滅願望があまりに強い人間です。
ようするに、破滅が大好きなんです。
切腹は自殺というよりは処刑ですけど、まあ、最高の名誉らしいので挙げときました。
他の理由はだいたいそのまんまなので説明の必要はないでしょう。
ちなみに一番多い自殺の理由は傷つきたくないが多いかと。
これ以上傷つきたくないという願望。もう傷つかなくてもよいという幸福。
これは自殺に限った事ではありません。
病気で死ぬ事が確約された人間、例えば末期癌患者とかはその苦痛を和らげるために死期を早めるとわかっていながらモルヒネを投与するでしょう?
そう言うことです。痛いのは誰だって嫌なんです。
痛い思いをするくらいならいっそ死にたいと思ってしまうものなんです、人間は。
どんなに痛くても構わないからとにかく生きたいと思う人ってそんなにいないと思いますよ。
だから自殺者、特に傷つきたくないという理由で自殺する人は決して弱虫なんかではなく、極めて人間的。
誰でもありうるという事です。
だから深田ありは自殺者を否定しません。
だって痛いのは嫌だという気持ちはよくわかるから。
痛くて痛くて耐えられない痛みはあるものなんだから。
致命的な激痛を感じた事も無い人間が一方的に自殺者を批難するというのは、極めて偽善的なものです。

目に映る困難な人間には同情できても、目に映らない困難な人間には同情しないんです。
少なくとも、目に映るまでは。
例えば、何万キロ放れた所にいる難民も、生まれたときから障害がある人間も、目に映らない限りは全く同情なんかしないという事です。


2005/10/25(Tue)■最近毒強いね

さて、ローゼンソール効果における初歩の巫女哲学というものを少し前に執筆しました。
そこで1つだけ説明の補足をすべき事があります。(つーか指摘されたからなんだけどね)
それは行灯袴。
行灯袴の考案者は華族女学校校長下田歌子という人物です。
たしか1890年(明治23年)に誕生した、比較的というより絶対的に新しい袴です。
実は1883年に女子の男袴の着用が禁止されたのです。
そのため女袴なる概念が誕生したのです。
余談ですが、同年代に日本にブルマが伝来しました。
日本最初のブルマの学校は知りませんが、たぶんフェリスかなあと。
すくなくともフェリス女学院が1890年代にブルマを導入したのは確かです。
ちなみにブルマ誕生は1850年ですよ。
え? 華族女学校は現在どうした?
行灯袴発祥の地、華族女学校は1906年にかの有名な学習院と合併しました。


さて、場違いな欲望哲学はこれくらいにして、昨日言った自殺の9割が幸福願望であるという事を説明しましょう。
とは言っても単純ですよ。
別に複雑でも何でもない。

例えば。
傷つきたくないから自殺→幸福願望。
天国は楽園だそうだ→幸福願望。
神の元へレッツ・ゴウ→幸福願望。
人生に飽きた→幸福願望。
自殺を体験してみたい→幸福願望。
死を仮想する事で生を理解する→幸福願望。
ファッション感覚→幸福願望。
ぼんやりした不安→幸福願望。
破滅したい→幸福願望。
自暴自棄→幸福願望。
自分が死ぬ事で誰かを救いたい→幸福願望。
特攻→幸福願望。
玉砕→幸福願望。
切腹→幸福願望。
洗脳されて自殺→幸福願望。
みんなと一緒に死にたい→幸福願望。
死ぬ事が大好き→幸福願望。
疲れた→幸福願望。
芸術感覚→幸福願望。
独立願望→幸福願望。
社会を否定する→幸福願望。
自殺から芽生える恋→幸福願望。
等等。
とにかく無意識に自殺してしまった以外の理由のほとんどは幸福願望です。
もちろんルーツは人それぞれ。
この幸福願望とはその奥底。つまり根底。
それが全て幸福への道標。
ちなみに幸福願望以外の自殺は強制されたなどがありますが、これは例外でしょう。
少なくとも自分の意志でやった自殺は大抵幸福願望です。

死ぬ事が幸福、死んだ後が幸福、死ぬという行為が幸福、死のうとする事で誰かに興味を引かれる事が幸福、自分が死ぬ事で誰かが救われるのが幸福、無意味な世界から脱却できる幸福、存在する事が嫌だから存在しなくなれるという幸福。これ以上傷つかなくてよいという幸福。死という概念を理解できる幸福、みんなと一緒だという幸福。社会から反旗を翻せたという幸福。
幸福の場所が違うだけで、結局幸福への願望の現れが、自殺という1つのカタチとなるのです。
本人は特に意識していなくても、深層心理では幸福を望んでいるのです。
それは昨日の哲学の、自分が嫌いでも、結局は自分を大切にしてしまうという現象と同じなのです。


余談ですが悪質王国!が全然進みません。
つーかまったく進みません。
9章書けねえ・・・。


2005/10/24(Mon)■昨日よりも猛毒です(見ちゃダメ・・・)

命は地球より重い。
ところがこの言葉を批判する場合。
決まって言う言葉はコレ。
その命が地球上に何億あると思うんだ?

偽善。
あまりに偽善的。
地球は公共物。
しかし、自分は公共物ではない。
そもそも、こんな量り方は土台が間違っているのだ。

地球という比喩。
そう、ここで言う地球とは比喩なのだ。
この論議は命という概念が尊いものだとおもわせるための、プロパガンダなのだ。
真実は違う。
ここで言う地球とは、即ち63億
63億の人間よりも自分の命は重いという事なのだ。

この言葉は博愛ではなく、極めて独善的な言葉なのだ。
自己中心的で、唯我独尊で、しかし、それが真実。

個人は63億の人間よりも重い。

考えればわかる事だ。
自分がどれだけ大切なものか。
極端は話、63億のうちの62億9990万人は一生涯出会う事も無い赤の他人。
そんな面識も無く、情も宿らず、ましてや愛してもいない名前もしらない他人の命の何が重い?
簡単なことだ。
例えば、自分1人が犠牲になれば63億の人間が助かるとしよう。
そいつは考えに考え、葛藤に葛藤を繰り返し、その果てに生贄となる。
英雄に祭り上げられて。
しかし。
そいつが考えに考え、葛藤に葛藤を繰り返す相手は断じて63億の他人じゃない。
そいつにとって大事な人間。
恋人。
友人。
家族。
少なくとも、名前も知らない、面識もない、情もない、そんな赤の他人の事など2の次3の次だ
しかも赤の他人の場合、その理由は断じて彼らの未来を優先しない。
赤の他人が集結していないと、社会が成り立たないからだ。
例えば戦争で兵士が何故国を思うのか。
それは国がなくなったら生活に困るからだ。
もし自分が死んだとしても、自分にとって大事な人間の生活が困るからだ。
赤の他人の値打ちなど、その程度でしかない。

結局は自分勝手。
国を思う、相手を思う、第三者を思う。
その理由は自己中心的で、唯我独尊で、自分勝手なものなのだ。
少なくとも目の前に銃口を突きつけられ、自分の命を助かる方法が第三者の命の場合、物語のように、寓話のように、相手を思い自分を犠牲にできるか?
相手が恋人、友人、家族などようにの面識もあり、情も宿り、あるいは愛しているわけでもない。面識も情もない他者の命を、逸話のように、伝説のように、本当に思い、救い、助ける事ができるか?
できるはずがない。
できたとしたら、そいつは聖人だ。
正真正銘の聖人だ。

自己嫌悪に陥る。
自分を大切にするあまり他者を犠牲にすると自己嫌悪に陥る。
しかし、望む望まぬに関わらず、結局は自分を大切にしてしまう。
どれだけ反省に反省を繰り返しても、実際には自分が大切なのだ。
言うならば、自分は尊いのだ。
自分は誰よりも尊いのだ。
そう、神よりも。
神よりも尊いのだ。

だから自分に恥じない生き方こそが偉大なのだ。
自分に正しく、自分に誇りを抱き、自分を愛せるような、そんな人間。
それこそが最初の理想像。
自分を嫌うような人間は話にならない。
何故なら、自分がどれだけ嫌いでも、結局は自分が大切な事を偽っているのだから。
自分は嫌い。でも大切。
なんという自分勝手。
自分が大切なら、そんなに大切なら、何故、自分を愛さない?
何故自分に愛される人間になろうとしない?
それは、自分が大切であるという事を、否定するからだ。
自分が大切である事が嫌なのだ。
ところが、頭では嫌でも、体は、心は、本能は、どこまでも自分を大切にしてしまうというのに。

生まれてから1秒たりとも離れる事無く共にいる存在など、自分だけだ。
自分の考えを熟知し、自分の本音を理解し、自分をいつでも助けてくれる場所にあるのは、自分なのだ。
成功も、失敗も、決して裏切る事無く一生涯一蓮托生してくれる存在。
文字通りゆりかごから墓場まで共に居る存在なのだ。
大切にしないわけがない。
たとえどれだけ自分を嫌っていたとしても、大切なものには違いないのだ。
自分はとても、とても大切なんだ。
勿論、自分を超越できるほどの、死んでも悔いさえないほどの相手がいないとはいわない。
自分の全てを捧げるに相応しき人間も、きっといることだろう。
人は誰かを愛する。
でも、愛するためには絶対の前提として、自分が存在しなければならない。
人を愛するためには、自分がいなければならないのだ。
何事もそうだ。
どんな事するにも、まず自分が生きていない限り自分は何もできないのだ。

自殺者。
彼らもまた同様。
自殺の理由の実に9割は幸福願望だ。
原因は多々あれど、そのルーツの果てに結ばれる真の理由は、幸福なのだ。
その事由を詳しく説明してもいいが、今回はやめとこう。ま、次回という事に。
結局は、自殺もまた、自分が大切だから行う事なのだ。
これ以上自分が傷つきたくないから。
自分が大事だから。
だから自殺だってするのだ。
自分のためなら自殺だってできるのだ。

自分は誰よりも尊い。
尊いのだ。

何故必死になって勉強する?
何故汗水たらして苦労する?
何故ストレスを蓄積しても我慢する?
何故嫌な相手にでもへつらう?
何故自分の一生をかけて冒険する?
何故ほんの数日の休暇、雀の涙の金を楽しみに明日を待てる?
何故努力する?
何故生きる?
それは、自分が大切だからだ。
自分を痛めつける事で、自分を守っているのだ。
何故金を稼ぐ?
それは自分が大切だからだ。

断言できる。
自分は誰よりも尊い。


2005/10/23(Sun)■今回かなり毒強いです(見ない方がいいかも)

自分を高めて早死にするくらいなら、下衆で薄汚くても長生きしたい。

これが深田哲学です。
少なくとも、これを否定できる人間は相当な高みに至った人だと思います。

例えば、人間は窮地に立たせられたら間違いなく、この思考に至ります。
深田ありは知っている。
聖人とは本当に極僅かの人間しか存在しないからこそ、聖人とまで称えられるという事を。
少なくとも、深田ありは逆立ちしても聖人ではない。

まず、自分を高めるという事に関してですが、具体的にどんな利点があるのか説明できますか?
生きるとはどういう事か。
それは信仰と金です。
人間は生きるために死ぬのです。
でも、死なないために金を使うのです。
金で命を買うのです。
そして心は信仰で補うのです。
これで、1つの人間が形成されるのです。

人間は金の奪い合いが90%を占めるでしょう。
人間としても美徳など、金の前には無意味です。
金は徳よりも強い。
この世で金に勝るものは信仰だけです。
命が金よりも強いのは窮地に立たされたら大抵の人間は金を見捨てて保身に走る事からすぐにわかるでしょう。
問題は信仰。
実は信仰は命より強いんです。
命も金も、1つの信仰を貫くという力の前には無となるのです。
自分の命よりも、幾億の金よりも、自分が信じる崇拝の概念の方が強いのです。

深田ありは絶対に聖人ではありません。
だから聖人になる事も不可能です。
ところが、普通の人はここで努力をするのです。
聖人になろうとするのです。
徳を積もうとするのです。

不言実行。
言い訳もせず。
我慢を通し。
八つ当たりもせず。
卑怯を嫌い。
嘘を憎み。
金よりも高いものがあると信仰し。
努力を尊び。
平和を望み。
博愛を誉れ。
素直であり。
人の幸せを喜ぶ。

そんな理想的な人間像が、1つの悪魔を形成します。

有言不実行。
言い訳ばかりして。
我慢をしないで。
八つ当たりを繰り返し。
卑怯で。
嘘つきで。
金に汚く。
努力もせず。
暴力的で。
嫌われ者で。
偏屈で。
人の不幸は蜜の味。

つまり、対極。
ところがこれが自分がそうだから、そうはなりたくないと思うから、だから聖人を目指し徳を積もうとするのです。
でも、この悪魔は誰にでもある。
キリストですらシナイ山での断食でこの悪魔と戦ったのです。
「消え去れサタンよ!」は有名ですね。
悪魔が嫌いだから。
でも、深田ありは悪魔でいい。
徳なんかいらない。

人間はどれだけ上っ面の徳を積んでも窮地においては悪魔が顔を見せるのです。
上っ面。
上っ面。
聖人が最も嫌う内面を否定し、とにかく上っ面だけでも、表層だけでも、聖人でありつづけようとするその偽善
聖人になれない人間が聖人を目指すなどあまりに偽善的。
そいつらこそが本当の嘘つきだ。

人間なんだから。
口で言った事が実現できない事だってありうる。
結果を出すためにどれだけ努力しても実るとは限らない。
自分の立場を守るためには言い訳をしなければならない時は必ずある。
人間は、人間は、聖人なんかじゃない。
それを上っ面だけ聖人ぶるから、いざという時自分を認められなくなる。信じられなくなる。
最初から、自分が下衆な生物だと認めてしまえばいいのに。
高い所から落下したら死んでしまうが、低い所からなら死にはしない。

だから深田ありは最初から聖人なんか目指さない。
生きることに聖人である必要は無い。
生きるだけの金と、生きるだけの時間と、生きるだけの誇り。
それさえあればあとは望むのは享楽だけ。

ここに聖人の定義をしましょう。
聖人とは、他人の不幸が毒となる人間です。
そう感じる事のできない人は聖人になる才能はありません。
諦めた方がいいでしょう。

少なくとも、上っ面の聖人はあまりいいことないですよ。
一度結果が出てしまうと捻じ曲げようとする時点で偽善となるのです。
不言実行と言えば聞こえはいいですが、それは逆にいえば不言なら不実行でもバレないという事です。
人間は神じゃないんだから一生涯成功しかない、なんて事はありえない。
大きさの程度こそあれ、必ずどこかで失敗します
つまり保険。
不言実行とは、失敗しても大丈夫なようにする言い訳。言葉に出さない言い訳です。

だから、深田ありは最初から聖人を否定します。
聖人を目指すくらいなら長生きしたい。
最初からできない事はしない。
できない事を努力すれば何とかなるとか神話の如く唱えて、結果失敗に終わり、致命的なダメージを受ける。
そんな事は絶対にあってはならないことだ。
出来る事しかしてはいけない。
出来る可能性があることしか努力してはいけない。
人間は必ず失敗する。
だから、失敗のダメージは低ければ低く、成功の美酒は高ければ高いほどいい。
ローリスク・ハイリターン。
それは卑怯でもなんでもない。

自分が特別な存在だと思う事は人間なら当たり前の事。
ならばそれでいいじゃないか。
自分は大事。
自分は大切。
自分大好き。
釈迦だって「天上天下唯我独尊」と言った。
キリストだって「私は神の子だ」と言った。
マホメッドだって「私は預言者だ」と言った。
つまり、世に言う聖人ですら、彼らは唯我独尊だったのだ。
その当たり前の事を批難しようとする聖人意識。
自分だって特別だと思っていながら他者が特別だと主張すると批難する。
聖人の仮面を被った偽善者。


2005/10/22(Sut)■目的

深田ありは120歳まで生きたいです。
そんなもん他の人からすれば「好きにしろよ」の一言で終わりです。
だから、深田ありは孤独に努力する。

さて、120歳と口に言えば簡単ですが、実際に可能とする場合並大抵の努力と才能では不可能です。
本当に数十万人、数百万、下手をすれば数千万人に1人しか成し得ない大偉業なのです。
この億にも届こうかという奇跡を成し得るためには、今のうちから努力しないと到底無理です。
あと100年後?
何言ってるんですか。
今という時と大切にしないと100年持つかわからないほどに難しい事なんですよ、120歳というは。

どんな権力者であろうと、どんな大金持ちであろうと、全てを成し遂げた人間が最後に望むのは長寿です。
特に始皇帝のような欲深い男は長寿のために専属の医者やコックを手元に置き、毎日体調管理をさせたそうです。
長寿とはそれほどに魅力的であり、同時に不可能への挑戦なのです。

だから今のうちから自分を見つめなければなりません。
1秒だって寿命を縮めるわけにはいかないんです。
そのためには幼い頃から毎日毎日を大事に使わなければ成し遂げる事など絶対無理
30歳40歳の暴飲暴食による不摂生がたたって50歳くらいになって病院に通うようになってはおしまいです。
いいですか?
本気で目的を達成しようと思ったら早期の段階からしっかり計画する事が大切なんです。
例えば警視総監を御覧なさい。
全員東大卒ですよ?
1つの巨大組織の頂点に君臨するためにはそれこそ幼児の頃から努力に努力を重ねなければなしえることはできないんです。
今さえよければそれでいいなどという刹那的な思想では、120歳など逆立ちしても不可能です。

無論、努力だけではダメです。
例えば警視総監になるためには東大法学部卒という肩書きだけではなれません。
金とコネ。様々な黒い領域を錯綜しなければ成し得ません
例えばスポーツで前人未到の大記録を達成するためには相当の才能が要求されるのです。
例えば大企業のサラリーマンが社長にまで上り詰めるためには99%運まかせです。
究極の頂点に到達するためには、膨大な努力と膨大な才能が要求されるのです。

さて、寿命はどうでしょう。
ちなみにまだ100年先の事をこんな風に述べるのは、結果が出た時点で深田ありは死んでしまい、伝える事ができなくなるからです。
ギネスに登録されるのは死んだ後ですしね。
ちなみに日本最長寿は114歳です。
つまり、長寿大国・日本においてですら、1億2700万人の中で未だ120の領域に到達した人間は存在しないのです。
まさに前人未到の大偉業です。
国民栄誉賞確実です。
いえ、地球上における公式記録の男性最長寿は117歳ですから、まさに全人類史上最大の領域なのです。
ただ、達磨太子が150歳まで生きたそうですし、非公式には128歳の男性もいるそうですから真の頂点ではありませんが。

そんな奇跡に奇跡を重ね、ついに奇跡の極みに達したような領域に足を踏み入れようとするのですから、それ相応の努力と才能が必要になります。
さて、努力は別として才能はどうでしょう。
長寿の才能は遺伝子です。
つまり、深田ありの家系での長寿率です。
母方の曾祖母が97歳で老衰してしまいました。
父方の場合は94歳で没落です。
微妙ではありますが、少なくとも早死にではないでしょう。
才能が充分とは決して言えない年齢ではありますが、あとは努力でカバーします。
どんな努力?
それはストレスを溜めない事と、生きるという強烈な意思をもちつづけ、かつ健康体を100年間維持するという途方も無い努力です。
なんか文に書くと物凄く不可能な気がしてきますね。
さすが前人未到の大偉業。

成し得るのは100年後。
いえ、正確には101年後です。2月生まれですので。
これも年齢的には幸運と言えましょう。
少なくとも12月生まれのように年度ではなく、年における最後の月に比べればほんの数%確率が高いといえます。

ストレス、意思、健康。これだけじゃまだダメです。
まだまだ気をつけることがあります。
それは事故殺人です。
自分の努力とは無関係に命を奪うこの2つは何としても避けなければなりません。
後者は前者に比べれば比較的楽です。
人に殺されないように注意して過ごす事。
骨の2・3本は犠牲にしてでも命だけは守り抜く生存能力と、人に殺させるほどの恨みを買わず、かつ戦争や虐殺に巻き込まれないようにする事が大事です。
しかしこの日本で150年以上戦争が無い状態など江戸時代くらいのものです。
国際社会の一員となっている以上、鎖国ができない以上、間違いなく戦争に巻き込まれるでしょう。
その時泥を啜ってでも生き抜かなくてはなりません。
もし中国に侵略されたら大変です。虐殺の嵐が巻き起こります。
虐殺だけは御免被ります。もはやですね。これは。
前者も前者で大変です。
自動車事故、飛行機事故などの乗り物の事故から大地震、大津波、台風、家事、暴動、脱線、転落、挙げればキリがありません。
そういった様々な悪質な障壁から1つ残らず乗り切らなければならないのです。

長生きが誰にでもできると思ったら大間違いです。
戦争、健康、事故、意思、人間関係、虐殺、遺伝子。その全てを攻略しなければ絶対に成功しません。
むしろ長生きは、選ばれた者にしか成し得ない聖なる領域なのです。


2005/10/21(Fri)■昨日の補則


信仰を失うことは生きることを失うことだ。



2005/10/20(Thu)■深田哲学

名誉を失うことはとても痛いことだ。
権力を失うことは絶望的な程に痛いことだ。
希望を失うことは人生を失う程に痛いことだ。
愛する者を失うことは廃人となる程に痛いことだ。
だが、金を失うことは死ぬ程に痛いことだ。

そして、生きることを失うことより痛いことは無い。


2005/10/7(Fri)■火傷って痛いね

たった今、ラーメン食べたら火傷しました。
えーラーメンの汁を10秒間くらい我が利き手である左の人差し指と中指に直撃。
具体的に言えばインスタントラーメンにおいて汁を器に入れようとするただの熱湯。
これが指に10秒間直撃。
熱いというより痛い痛い。
幸いペンは右手を使うのでそこは全く問題ないのですが飯を食うのは完全に左なので箸が痛くて持てません。

ちなみに両利きは器用とよく言われますが。
それは迷信です。
深田ありの手先はかなり不器用です。
未だに紙飛行機さえ満足に折れません。
そもそも、左利きだったのを無理矢理右に矯正したような手が器用なわけがありません。
神は残酷です。
神様が右利きだった。ただそれだけの事で何千年もの間右利きこそが王道にして正道にして神!!だという意識を受け付けたのですから。
特に戦前の頃は双子と左利きの人間は人間扱いされなかったのですよ?
双子や左利きは悪魔の子と呼ばれ、いじめと村八分の対象にされたのです。
右に習え?
バカと違うか?
そういう悪しき共同意識が戦前の悲惨な迫害を生み出したのです。



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