我々が一度は抱いた・・・と、思われるこの疑問。
なんで『はーい』や『はいはい』がダメで『はい』が認可されるのか。
これは言論弾圧だ!!
と、言う訳でこの不当な観念が如何にして恒常化され、そして認可されたのか。
そしてそれが如何に愚鈍な理念であるかをここに曝け出す。
今回は、資料が全くなかったので、凄く短い。
というか、非欲望哲学シリーズは例外なく凄く短い。
著・深田あり
深田ありはつくづく思っていた。
日本人は『表現』に気を使いすぎだと。
例えば『盲人』はよくて『めくら』はダメだとか。
例えば『被差別部落』はよくて『エタ』はダメだとか。
極めつけは『アイヌ系』はよくて『アイヌ』がダメな事である。
何故、表現にそこまで血眼になるのか。
おかしい。
言っている意味は同じなのに、内容も同じなのに、表現に『だけ』気を使う。
要するに日本人は『人を侮蔑する事は素晴らしい事だけど、人を侮蔑する用語を用いてはならない』という恐るべき人種だったのだ!!
なぜなら、日本人に限らず人間は『人を侮蔑せずには生きていけない』生物だからである。
そしてその攻撃対象は弱者に絞られる。
当たり前だ。
どこの世界に自分より強い生き物を攻撃するバカがいる?
それを日本人は『言葉狩り』を用いることでその真理を隠匿した。
お隣韓国を見なさい。
日本の数倍もの悪口雑言の専門用語が存在し、それが恒常的に使われている。
わかりやすくいうと英語に『バカ』はあっても『アホ』が無い事と同じだ。
日本人は言葉を狩りすぎた。
だから差別はより陰湿化する。
だって、言葉をどれだけ狩ったとしても、差別がなくなるわけではないのだから。
1章 全ての元凶となった言葉『はい』
これが、全ての元凶である。
日本人が表現に既知外並に拘るその代表が、これだ。
誰にでも一度は経験があるだろう。
「はーいじゃない。はいだ」
と、言われた経験が。
これに疑問を感じた事は無いだろうか?
何故なら、意味が同じなのに、表現に『だけ』固執しているのだから。
愚か。あまりに愚か。
では『はい』とは何か?
いつものように広辞苑と大辞林を用いよう。
広辞苑・・・1、あらたまって、または承諾の意を現して応対する語。2、注意を促す語。3、自分の言葉の末尾に添えて、ややへりくだって、言葉を確かめる気持ちを表したりする語。4、馬を進ませる時の掛声。
大辞林・・・1 やや改まった場面でごく一般的に使用される応答の語。ア 呼ばれたときに答える語。 イ 問いかけや誘いかけに対して、肯定したり応じたりする気持ちを表す語。2 相手の注意を促すときに用いる語。3 言葉の末尾に置いて、上述の事柄を確認する気持ちや、へりくだった気持ちを表す語。4 牛馬を進ませるかけ声。馬子唄などの囃子詞(はやしことば)としても使う。
と、ある。
これは一体どういう事なのか。
つまり応対の定義。それが『はい』だ。
しかして『はいはい』『はーい』はそれをどういう変化にしたものかが重要となる。
2章 『はい』の変化の定義
心理的な問題だ。
定義は1つだろう。
ただ単に改まると本人が思っていないのだ。
だから既存の概念である『はい』という『敬語』に反逆する。
反逆とは心理的な真理だ。
既存の定義に嫌悪すると、それに反逆する。
当たり前の話。
本能的なものだ。
何故なら、使用者は微塵も自分が相手より格下だと思っていないのだから。
否、極めて対等的だと思っているからこそ、ありうるのだ。
社会的ではなく、心理的に。
心理的に屈服していない、隷属していない。
だから、言葉を反逆させるのだ。
対等であるために。
即ち、革命。
無意識の革命だ。
権利を得ようとする革命。
それが連続と伸張への変化だ。
3章 応対の正当性と棄却
これは要するに応対する呼称である『はい』とは一体どういった状況・使用者間において有効とされるか、である。
『はい』は敬語であるから、その使用領域は限定される。
つまり、最初から『はい』とは絶対的な状態でしか使用できないのだ。
何故なら、改まった状況が前提だから。
それはつまり、社会。
社会の領域にある時、この言葉は用いられる。
つまり『はい』とは、社会の隷属の証明だ。
しかしその隷属は絶対で、拒否する者は死あるのみ。
これは、比喩ではない。
この社会に忠誠と隷属を誓うこの言葉の反逆とは、死ねという事に他ならないからだ。
だから、誰もが使用し、それを崇拝する。
つまり『はい』の連続や伸張とは、侮辱なのだ。
何に対して?
社会に対してだ。
社会という生活において神にも等しい絶対の存在に対しての侮辱。
不敬罪だ。
故に犯罪者なのだ。
『はい』を冒涜する人間とは、犯罪者なのだ。
だから、殺される。
『はい』を冒涜する人間は殺されるのだ。
なぜならこれは社会への絶対忠誠を誓う言葉だから。
その絶対忠誠の冒涜とは、禁忌。
故に、連続、伸張は棄却される。
ではなぜ冒涜に該当するのか?
これは説明しない方がいい。
1つの例でわかることだ。
戦前、不敬罪が存在していた頃、今上天皇を呼び捨てにすると該当してしまうのだ。
それと同じだ。
4章 心理的な錯綜
まずこれは3章における定義から鑑みて不当な状況如何、それを心理的状態にある時『はい』という呼称は圧迫となるのだ。
例えば日常間において仰々しくも無い状態において圧迫的な敬語である『はい』の呼称は心理的な苦痛なのだ。
それを感じ取っているから無意識下において精神の安然を求め連続、伸張を行う。
それは普遍的な状態に心理が内包してしまっているから、日常間を超越して漏らすことがある。
言葉の篭絡。
それが相手側において不快と感じる。
その理由はただひとつ。
言われた側の人間が言った側の人間を蔑視しているからだ。
相手の存在を最初から下等生物と定義しているから、ただ単に漏れた失策。言葉の篭絡に過敏に反応するのだ。
ようは神経質な暴君なのだ。
器の小さい。
それだけだ。
懐が狭いのだ。
白人至上主義者が黄色人種や黒人を下等生物だと脳内で定義されていることと同じだ。
自分の地位を誇示したいという矮小な砂上の天下。
社会という圧倒的絶対的究極的な概念を武器に取ることでそれを正当化させる。
つまり、社会という衣があるからこそ蔑視するのだ。
早い話、人間として小さいのだ。
社会によって山の上に立っているから下に居る人間に見下される事が耐えられないのだ。
社会とは絶対であり、それに反旗を翻す事は生命の危機に関わるほどである。
だから、皆社会に隷属する。
そうしないと生きていけないから。
そして社会が与えた小さなパーソナルスペースを保持、誇示する事で自分を保管するのだ。
安全保障のために。
それが社会の存在だ。
だからこそ、その存在を保持するために、誇示するのだ。
生きてゆくために。
しかしそれは生きるという絶対の前提があるからこそ誇示できるものであり、『人間』という個人の存在観念とは無関係だ。
人は社会に隷属するが、社会よりも個人の保存を優先する。
つまり、社会とは生きるための手段であり、目的はない。
目的とはあくまでも自分という存在を保管すること。
だから、保管されている状況を逸脱すれば定義できる。
社会という衣をはぎとった姿が、その人間の本当の姿だ。
つまり、そんな衣に血眼になって小さな失策を捉え、社会性を保持しようとする姿は、人間として正しい。
それが社会だからだ。
だが、小さい。
社会的人間としては極めて正常でも、人道的、心理的、存在的、哲学的な人間としては極めて小さい。
社会としての個人ではなく、人間としての個人として定義するなら、そいつは器があまりにも小さすぎる。
矮小な人間。
5章 悪魔は笑う
人は死ぬ。
死ねばそこに社会はない。
社会とは生きるための手段でしかないからだ。
悪魔は必ず笑っている。
悪魔はいつも笑っている。
何故なら、死ぬから。
生きるとは、死ぬ事を否定する行為だ。
でも、結局は死ぬのだ。
生きることを様々なクリームで塗りたくっても、やはり最後は死ぬのだ。
どれだけ死を誤魔化して、生きることを最優先しても、死ぬのだ。
だから、悪魔は笑うのだ。
金で買えない幸福は、死ぬ直前でしかわからない。