日本の就学率が98%になったのは1910年。

 それ以前は、義務教育さえも通えない子供が沢山いたのだ。

 特に、女子は。

「おい! みや! みや!!」

「は、はい、ただいま!」

 早雲が怒鳴りつけて呼びつけたのは、水村みや。

 みやは早雲の妹の子にあたり、苗字が違う。

 まだ、養子にしているわけではないが、天地家でただ一人爵位を持つこの天地早雲が気に入ったという理由でこの家で育てていた。

 男爵。

 基本的に一番低俗な貴族。

「叔父様。お呼びですか?」

「おう。お前来年で尋常小学校卒業だろ?」

 ちなみに、この年の女子の尋常小学校就学率はまだ60%後半で、そろそろ70%に届こうかというレベル。

 日本人というのは、どういうわけか過半数を超えると途端に数値が上昇する傾向がある。

 たとえば、明治中期の女子就学率は50%だったのに、後期では90%に達したように。

「は、はい」

「お前の親はとっとと嫁がせたいようだが、わしは思わん。お前を東京女学校か女子学院にでもいってもらいと思うておる」

 当時の女子の進学率はわずか10%。

「え・・・でも父は・・・」

「それよ。いくらわしでも親でもないから強制はできんのじゃ。で、どうする? 近々お前の親を呼びつけようと思うておるんじゃが、あの男は頑固者でな。中々首を縦には振らん。まったく腰弁の分際でのう」

「・・・・・・・・・・・・・・・」

 腰弁とは、早い話サラリーマンの事であるが当時はそう呼ばれていた。少なくとも、大正末期までは。

 腰に弁当をひっさげて仕事にいくからだ。

 つまり、労働者階級、プロレタリアートだ。

 一方この男は華族。職業は県会議員。ブルジョワジー。

 その、見下したものいいはしかし、誇り高いみやの心にぐさりと何か槍のようなものが突き刺さった感覚を抱く。

 それを馬目にしたからこそ、早雲は笑う。

「ん? 親を貶されるのは嫌か? がっはっは! そりゃすまんな! まあええ、今のは取り消す。だが、腰弁であることは変わらん。だからお前を進学させる気がないんじゃろ? だがな、わしは爵位を持つ列記とした良家の主よ。その血脈を持つお前が進学しないというのは、わしの沽券にかかわるんじゃ。だから進学してもらう」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「そこでだ、お前が進学したいと親に進言しろや。なに、金ならわしが出したら」

 力。

 早雲の巨体がみやを押しつぶさんとするその、威圧感。

「わしに逆らうとろくな目にあわんぞ、みや」

「う・・・・・・・・・」

「わしは男爵じゃから貴族院議員言うても終身じゃなく7年だが・・・それでも華族様には変わらん。わしの言うことは聞いたほうがええぞ」

 

 

 

「てて様。何故天地の叔父様はあんな人になってしまったの?」

「昔はああじゃなかったんだがなあ・・・爵位を拝借してから人が変わった」

「もともと天地家は百姓ですから」

「だったらどうして爵位がある?」

「明治に入ってから『天地藩』を作り上げ、藩主になったからです」

「馬鹿な。大名でもない者が、藩主になどなれるものか」

 

 

 

 夜。

 深遠なる世界。

 笑っていた。

 悪魔は笑っていた。

 薄暗い電気灯の明かりに顔を揺らしながら、ぼんやりと笑うその姿は不気味以外の何者でもない。

 そんな不気味な悪魔は、ぽつりぽつりと何かを呟いていた。

 それを、眺めていた。

 なぜか、寝ようと部屋というか牢獄にぶち込まれたのは妹だけで、姉だけは残留させられた。

 しかし、幾十分も経過したが、まだ、何も起こらない。

 ただただ異質なつぶやきが聞こえた。

「うっくっく。長かった。齢35を重ね、ようやくここまで来たのだから。3代、3代かかった。じじいが百姓から郷士に、親父が郷士から仕官に、そして仕官から家老に、そして、わしが大名へと。長かった。満願成就は長かった」

「あの・・・旦那様?」

 そんな悪魔にしびれをきらしたのか、姉はおそるおそる声をかける。

「あ? なんじゃ?」

 その双眸に宿る狂気は爛々と燃えていた。

 悪質な音。

 恐い。

 しかし、勇気を踏み出す。

「もう寝てもよろしいでしょうか?」

「寝る? ・・・そうか、もうそんな時か。そうなあ、おい、一つ問いかけをする。その答えによってどうなるか決めてやる」

「はあ・・・」

「蜜柑と柿、どっちが好きじゃ?」

 理解のできない問いかけ。

「蜜柑・・・」

「そうか、蜜柑か。わかった」

 笑った。

 確かに。

 

 

 

 それは、蜜柑のような床だった。

「さあ、寝たけりゃ寝ろや。明日も早いじゃろ?」

 全身が蜜柑の皮のように包まれる異質な布団。

 体が縛り付けられるような布団。

 枕は顔を全身で包み、口には怪奇的な物体が枕ごと押し込まれる。

 敢えて形容するなら、顔をすっぽり覆うマスクにオーラルバルーンのついた口枷が付属しているような枕だ。

 そして、布団は全身を縛り付ける縄か、あるいは手枷足枷をはめ、ラバースーツを身に纏っているような、強烈な圧迫感。

 それが秘所さえも圧迫し、何もしていないのに刺激を受ける。

 姉には早雲の顔が見えない。

 完全に圧迫されているからだ。

 それが、幸いだったのかもしれない。

 すごい形相だったから。

 息がしづらい

 自然な呼吸など夢のかなただ。

 しかも身動きがほとんどとれない。

 この謎の毛布、かなり重い。

 くわえてもぞもぞと体を動かすたびにあそこが擦れるように構築されている。

 なんだろう、この床は?

 眠れない。

 鼓動が聞こえる。

 熱気が宿る。

 そして、微弱な電気が体を刺す。

 錯覚だとしても。

 豆にあたる。

 体をこすると、毛布が豆にあたるのだ。

 なんか、暗黒の中。漆黒の中。深遠の闇の中。

 体を動かしたくなる衝動と興奮に苛まれるようになった。

 ほんの少し、ほんの少しの移動が、そのたびに刺激を与える。

 口では呼吸できないからか、息苦しくなってきた。

 死にそうになってきた。

 快楽というものは、体は求めるが、命は求めてはいないのだ。

 でも、命ある限り動かしてみる。

 こすってみる。

 動く。

 揺れる。

 いつしかその作業に没頭し、窒息との格闘へと境界から、桃源郷が理解できてきた。

 その頃には股はどろどろになり、ぬるぬるの感覚が下半身、尻へと侵食していた。

 刺激されればされるほど命は薄れてゆく。

 しかし、桃源郷は見えていた。

 動く。

 揺れる。

 体を可能な限り動かす。

 快楽が襲う。 

 絶頂が近い。

 圧迫と電気が流動し、痙攣する。

 絶頂に到達した。

 

 そんな状況を早雲はにやにやと眺めていた。

「むーむーむーむー何わめとんじゃ。はよ寝や。だがま、わかった。今後のお前の行動値が」

 そういって早雲の声が薄れていく。

 気配が微弱になってゆく。

 最後に聞こえたのは自慢のような呟き。

「さてわしは寝るまで蘇音器の手入れでもするか」 





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