誰かが言った。

 どんなに暗く、寒い夜にも必ず朝は訪れると。

 しかし、それを逆に捉えると。

 どんなに明るく暖かい昼でも必ず夜になる。

 一度、夕焼けになってしまうと後は長い長い夜が待っている。

 街から光を獲ってしまえば夜、何が残る?

 それは静寂。

 永遠の静寂。

 故に神は言ったのだ。

 光あれ、と。

 神よ、我らを救い給え。

 永遠の静寂から救い給え。

 

 

 

和信は暇潰しに街をぶらついていた。

今日の空は雲が流れ、太陽が低空飛行によって世界を総覧する。

今は昼。春の昼。

和信は温厚な世界に介抱されながら呑気に街を模索していた。

すると、ぐ〜という音が鳴った。

それと同時に発生する微弱な吐き気。

間違いない。和信は空腹である。

「跋扈闊歩にでも行くか」

跋扈闊歩。

ばっこかっぽと読み、60種類を超えるあんみつを販売するあんみつ専門店。

甘味所ではなく、どちらかというと食堂に近い。

なお、この店にはみつ豆は売っていない。

ちなみに跋扈とは勝手気ままに振舞う、またはのさばり蔓延るという意味であり、同様に闊歩とは威張って歩く、または傍若無人に行動するという意味である。

和信は闊歩はともかく跋扈の意味がわからないためこの店がどういう意図で経営しているかがわかっていない。

 しかしそんな事知ったところでどうなるものでもないため和信は店名に関しては全く気にしていない。

 和信は店の中に入ると客で満ちていた。

 幸い並ぶ必要はなかったようだがあと30分来るのが遅かったら間違いなく行列に並んでいた事だろう。

 和信はメニューを開く。

 そこにはおぞましい程の奇天烈なメニューが立ち並んでいた。

 和信は少し思案した後、あんみつの生姜焼きを注文した。

 豚ではなくあの、あんみつを焼いたという実に摩訶不思議な一品。

 和信はそのほかほかに焼けたあんみつをみて涎が零れ落ちた。

 摩り下ろした生姜の香りが食欲をそそる。

 もはやあんみつというよりぜんざいに近い。

 和信は美味しそうにあんみつの生姜焼きなるゲテモノ料理に舌鼓を打った。

 ふと、周りを見回すと実に客の9割がこういったゲテモノあんみつを美味しそうに吟味している。

 雲隠市の住民の味覚はかなり狂っていた。

 隣の客がオムあんみつなる半熟の卵の中にあんみつが存在するという他では一生お目にかかれないような料理をこれまた美味しそうに召し上がっていた。

 和信はきれいにあんみつの生姜焼きを平らげた後、再び街をぶらついた。

 ちなみに料金は592円だった。

 街は3月らしくまだ、肌寒い。

 しかしそれほど厚着をする必要のない寒さのため和信はかなりの軽装である。

 中には半袖をきている人間もいる。

 まあ、それらはただ単に例外であるが。

 すると道端でばったり中学時代の友人に出会った。

 身長は180cmはあるだろう。

 和信の身長が171cmであるから少し見上げなければ目を合わせられない。

「よう屋敷」

 友人は気さくに声をかけてきた。

「やあ英一」

 その友人は京仙寺英一といい、小学、中学と一緒だった旧友である。

「久しぶりだなあ。何?東京工大は失敗したか?はっはっは」

「・・・・・・・・・・・・」

 和信の表情が少し曇る。

「まあ、いいさ。それより久美の見舞いにいかねえか? 3年ぶりだろ」

「久美はまだ退院できてないのか?」

「いや、去年退院したけど2ヶ月前また入院した」

「久美ってさ、何て病気なんだ?」

「さあ〜」

 英一は首を傾げた。

 

 

 

 病院は街から少し離れた林道の中に位置する。

 雲隠市には総合病院はここしかない。

 医院ならそれなりにあるのだが。

「へえ、病室変わったんだ」

「そりゃそうだ。・・・・・・しかしなあ」

「前もそうだったけど・・・いったい久美んちって・・・」

「「謎が多いよなあ・・・」」

 2人が同時に呟いたそこはいわゆる貴賓室であった。

 したがって馬鹿みたいな費用がかかるのである。

 2人が記憶している久美の家はいたって普通の民家であり、少なくとも5年はおろか半年以上も貴賓室で入院生活など送れるはずがないのだ。

 たとえ屋敷家でも5年も貴賓室に住む事など絶対に不可能であろう。

 2人は貴賓室(一泊8万円)の中に入る。何か合図をするでもなく、悪く言えば図々しく。

 明らかに億単位費用の入院をしている少女、赤井久美がそこにいた。

 久美は跳ねるように飛び起きソファに腰掛ける。

「やあ英一。ん、ああ、屋敷くんも来たんだ。久しぶりだね」

「ずいぶん元気そうだね」

 和信が少しだけあきれた表情を浮かべる。

「まあ、実際元気だし。まあ座んなよ。お茶入れてあげる」

 2人は室内を見回しながらソファにつく。

 和信がどうしてもこの部屋が気になった。

「ねえ久美」

「ん、何?」

「久美んちってひょっとして大金持ち?」

「ううん、全然。・・・なんで?」

 その言葉に英一と和信が揃って怪訝そうな表情を浮かべた。

「だって・・・こんなでかい部屋に5年もいるんだもん・・・有り得ないよ。」

 その直後、久美が少しごまかすような顔に変わった。

「いやあ・・・・・・この部屋の・・・というより入院費も治療費もうちが払ってるわけじゃないから」

「「じゃあ誰が払ってるんだよ?」」

 ハモった。

 こいつの入院費を払っているような奴がいるというのか。

 

 時計が2時を示した頃であろうか。

「あ、そろそろ大事なお客が来るから帰ってくれない?」

「大事な客?」

「そう、お金だしてくれてる人。つまり・・・スポンサー? あとお父ちゃんね」

 その言葉に少なからず2人が反応するが、久美が出て行けと言った以上は出て行かなければならない。

(そういえば久美の父親って会ったことねえな・・・)

 和信はそんな事を考えながら貴賓室を後にした。

 病院の廊下にて。

「あ、ちょっと便所」

「じゃあ僕も行こう」

 病院の便所はオレンジ色の光がぼんやりと照らすような空間世界だった。

 学校や駅の便所と違い、比較的『綺麗』という形容詞が適用される清潔な便所だ。

 便所、厠、雪隠、後架、トイレ、レストルーム、お手洗い、化粧室、髪結場、不浄。日本と言う国家ではこの第一次欲求を満たす空間を実に多種多様な名称で呼応する。

 一体なぜ日本はこの絶対平等空間の名称を統一しないのか?

 和信はそんなどうでもいい事を考えながら小用を満たした。

 一方英一は大きい方であった。

 和信は手を洗い、廊下に屯する。

 すると、全身真っ黒なレインコートで覆われた異様なおっさんを発見した。

 その後ろには自分より1、2歳くらい年下の女の子が歩いている。

 その光景は実に奇奇怪怪である。

 しかし不思議な事に病院内にいる人間の7割ほどは大して気にも止めていない。

 とくに看護士のスルー率は100%である。

 和信はしかしレインコートのおっさんを凝視してしまう。

 おっさんと女の子はぐんぐんと和信の方に進撃してくる。

 はっきり言って不気味である。

 和信は不覚にも身構えてしまった。しかし昨日の暴行のせいで全身が痛く、すぐに楽な姿勢に戻した。

 おっさんと和信が通りすぎる。

 その際に気になる言葉を残した。

「貴様、昨日蜘蛛畑に立ち寄ったな」

 どくん、と心臓が弾けた。

 蜘蛛畑、という言葉に心が進奏した。

 和信の記憶に蜘蛛畑という名詞が適用される場所は一箇所だけ存在する。

 昨日廃墟で発見した数万もの蜘蛛、蜘蛛、蜘蛛。

 蜘蛛の絨毯。

 あの異様な世界。

 和信はおっさんの行く手を見詰める。

 しかしすでにおっさんと女の子は曲がり角で右左折してしまってもう、姿は見えない。

 和信が2人を探ろうと身を乗り出したその時、タイミング悪く英一が便所から出てきた。

「ん? どうした屋敷」

「いや、別に・・・・・・」

 和信は仕方なく捜索を断念した。

 

 

 

 おっさんと女の子は貴賓室を目指した。

「久美、入るわよ」

 女の子がそう言った後、部屋に入った。

 おっさんもそれに続いた。

「あ、お嬢様、それにお父ちゃん」

 久美がソファでお茶を啜りながら女の子を見て、そう言った。

「久美、元気なのはわかるけどとりあえず寝てなさい」

「は〜い」

 久美はゆっくりとベッドに向かった。

 飲みかけのお茶はテーブルに置きっぱなしにしてしまった。それを見て久美はしまった、といった風に舌打ちした。

 それを見て女の子がはあ、とため息をついてお茶の入った湯呑を手にとり久美に渡した。

「はい、お茶」

「あ、すいません」

 女の子はソファに腰掛け、急須を掴んで自分の分のお茶を注いだ。

 女の子のその一連の動作は芸術的ですらあった。

「久美、気分はどう?」

「別に問題ないですよ。今日は吐き気もないし、頭痛もありませんから健康そのものって感じですね」

「そう、それはなによりね。でも大丈夫よ。もうすぐ私達が久美をこんなこぜまい病院から出してあげるから」

「別にこぜまくはないですけど・・・・・・まあ、期待して待ってますね」

 女の子はお茶を飲み干すとゆっくりと立ち上がった。

「暗影、そろそろ行くわよ」

「はっ。そろそろ習い事のお時間でございますしな。・・・じゃあまたくるぞ久美」

「うん、またねお父ちゃんにお嬢様」

 久美は手を振りながらそう言った。

 女の子と暗影と言われたおっさんは病院の通路を悠々闊歩する。

「暗影」

「何か?」

「いい娘をもったわね」

「・・・・・・・・・お褒めいただき光栄です」

「しかし、私も多忙ね。もう少し習い事減らせない?」

「楓」

「冗談よ」

 

 

 

 七条家。

 雲隠市の2代名家の一つ。

 こちらも和風の豪邸。

 しかしその規模は屋敷家とは比べ物にならないほど豪奢である。

 土地は700坪を超える広大な敷地。

 まるで御所と見違うほどに壮大な邸宅。

 中にはちらほらとお手伝い・・・否、女中が目に止まる。

 その巨邸を支配している七条家は代官の一族であったが戦後、建築業を営み成功を収め、今ではこんな巨大な家に住むことを許されている。

 しかしこの一族は屋敷家と対極の一族と呼ばれており、明治以降冷戦が続いている。

「暗影」

 数時間の習い事の末、やっと自由を勝ち取った七条家の次女、七条楓が15畳はあるであろう自分の部屋でぱんぱんと手を叩き、そう言った。

「何か?」

 すると10秒ほどで全身レインコートに身を包んだおっさんが恭しく部屋に入ってきた。

「暗影、蜘蛛畑の調子はどう?」

「それに関して少し問題が・・・」

 

 楓の表情が曇った。

 嘯風弄月と書かれた額縁が少し揺れた気がした。

 楓の声は恐ろしく低かった。

「何? 暗影、私の聞き違いよね」

「いえ、確かに昨日屋敷の御曹司が蜘蛛畑に立ち寄りました」

 楓の表情が氷のように冷たくなっていく。

 風に吹かれて詩歌を口ずさみながら月を眺める男が描かれた掛け軸がふわり、と確かに揺れた.

「暗影・・・まずいわね。仕方ない、私が屋敷を殺して」

「待て、楓」

 暗影が口調を変えた。

 楓の目付けである暗影は楓を嗜める際には口調を変えて楓と向き合う。

「あそこは山中、楓が山に行けると思うか? それに殺生は許さん。楓は無闇に人を殺そうとする癖がある。やめろ。隠匿する身にもなってみろ」

「ではどうするの? 暗影が屋敷を殺すの? 今日は雨が降ってないから『水に溺れる』事ができないわよ」

「『土に埋もれる』のだから楓は蜘蛛畑にはいけないだろうが。まあいい、しばらくは様子見だ」

「甘いわね。邪魔者は殺せるときに殺さないといざとゆう時、寝首をかかれるわよ」

「警察やIEEOが出撃するからやめろと言っているんだ」

「真弓がいるじゃない。あの娘なら警察はおろか軍隊だって皆殺しにできるわよ」

「あんな核兵器みたいな小娘使うな。それこそIEEOが雲隠市にミサイルを打ち込みかねんだろうが。ここら一体を火の海にする気か」

「・・・・・・・・・わかった、しばらくは様子見ね」

 楓を説得した暗影はしかし不安な気持ちを抱いていた。

 

 嘯風弄月。

 『しょうふうろうげつ』と読み、風景を愛し、詩歌・風流に心を寄せて楽しむ事。

 

 ちなみに七条家は特殊な家系である。

 400年にわたり呪術を研究してきた一族。

 表向きは代官であるあたり実に怪しい呪術を研究してきた事が伺える。

 そして幸か不幸か呪術に成功した結果、呪われてしまった一族。

 七条家は『土に埋もれる一族』となった。

 土の上を歩けない一族。

 それが七条家。

 

 暗影は七条家の庭を屯っていた。

 庭はほとんどが石で積みあがられており、まるで枯山水のようだ。

 しかし中には土で満たされた場所も存在し、そこには立て札に『危険区域』と書かれている。

 別に地雷が埋まっているわけではない、七条家は土の上を歩けないのだ。

 暗影はそんな七条家を眺めて侮蔑するような笑みを浮かべた。

 

 

 

 和信は本屋にきていた。

 適当に参考書の類を物色していた。

 しかしついつい雑誌や漫画の誘惑に乗ってしまい、結果として何も買わないですでに40分以上本屋をぐるぐる巡っている。

 ちょうど和信が雑誌を立ち読みしている時に店頭から見知った顔が来店した。

 それは水村純という毒を吐く事を生きがいとする女であった。和信はしかし、純の来店に気付く事無く雑誌を読んでいる。

 純は一心不乱に雑誌を黙読している和信に気付き、その方向に足を傾けた。

 純は和信のすぐ後ろまできて停止した。

 しばし思案した後、純はどこから取り出したのか氷砂糖を手にとり、和信の背中に差し込んだ。

「ひいっ!!」

 和信は背中を海老みたいにのけぞらす。

 その行動に周囲にいた人間が何事かと和信へ視線を送る。

 和信はそんな視線に全身をちくちくと刺されながらも、まず、後方を見やる。

 そこには明らかに人を軽蔑しきった目で和信を見詰めている純の姿があった。

 誰のせいだと思っているのか。

「何悲鳴あげてんのよ。この海老野郎。衣巻いて油で揚げるわよ」

 しかもまるで自分には責任がないといった然で平然と毒を吐く。

 和信は全身をわなわなと震わせながら純をにらみつける。

 和信の拳が握られる。

 それを見た純が口で攻撃した。

 口は剣よりも強し。

 それが水村純の座右の銘である。

「何? 公衆の面前であたしを殴る気? この下衆野郎。だいたい何全身震わしてんのよ。禁断症状? とっとと黄色い救急車に乗って隔離されてこい」

 和信は目を細め、純を睨みつける。

 純はさすがに言い過ぎたと思ったのか少し哀しげな笑みを浮かべる。

「ごめん、言い過ぎた。」

 和信は素直に謝罪する純を見て許容せざるをえなかった。

 純の常套手段。

 和信の手が出る前に謝罪する事で当て逃げを成功させるというもの。

 ちなみにこの技を覚えたのは昔、純が和信につい、言い過ぎたため和信が純を殴ったのが原因になっている。

 ちなみにグーで。

 その時の和信の表情を純はおそらく一生忘れない。

 ベソかいていた・・・というよりマジ泣きだった。

 涙を拭くこともなく、寄声を発しながら純のほっぺ目掛けて容赦のない一撃を食らわしたのだ。

 純の乳歯が一本抜けるほどの一撃。

 純は怒る事も泣く事もなくぽけーっと和信の悲痛な表情を見上げていた。

 時に和信と純が小学6年生の冬の早朝の出来事であった。

 それ以来純は加減を覚えた。

 ついでにこんな諺も覚えた。

 『子供のうちに火傷してしまえば大人になって大火傷する事はない。』

 なるほどもっともだ、と純は実感した。

 もしあの時殴られなかったら将来間違いなく和信と良くて絶縁、悪くて殺されていただろう。

 純はへらへらと笑いながら和信を連れて店から出た。

「ごめん、和信。おわびに夕食おごったげる」

「まあ、純の毒は今に始まった事じゃないからいいけどさあ、場所選んでよ場所」

「だからごめんって言ってるじゃん。このファシスト野郎。人が謝ってるのに何しつこくグチグチと言ってるかなファック野郎が。死者に鞭打つなんて最低のサドだね。このネクロフィリアのビッチ野郎」

 これで手加減・・・もとい口加減しているそうである。

 実際和信には大したダメージにはなっていない。

「う〜ん。ネクロフィリアって何?」

「ぺドの死体Ver。つまり死体に性的倒錯を抱く変態野郎の事。つまり死体に鞭打って興奮する和信の事よ」

「んな事しねえよ・・・」

 そんな会話をしながら街を徘徊する2人。

「どこ行く?」

 和信が純に訊ねる。

 ちなみに現在時刻は午後5時であり、夕飯にはまだ早い。

「そういや、まだ早いわね。じゃあ久しぶりに和信の家にでも行こうか」

「え、僕んち? ・・・でも母親いるよ」

「そういやそうだったわね。あの病原体女。脳に蛆わいてるもんね。ん? そういや和信顔腫れてるじゃない。昨日は何ともなかったのに。・・・・・・あの糞女がやったのね?」

 純が真剣な面持ちで和信に詰め寄る。

 空は赤から青へとどす黒く変色してゆく。

 和信はあせった。実は純と彩音の相性は最悪である。

 基本的に純と彩音の和信に対する接し方が正反対であるというのが何より大きい。

 彩音は普段は和信に対して優しいが有事の際には信じられない暴力を振るう鬼母となる。

 一方純は普段はあの通り毒を吐き和信を貶めているが実は純は基本的には和信に対し献身的であり、それを態度ではなく行動で示しているだけの事である。

 それは和信も知っているからこそよほど問題のある毒を吐かない限りはつい、許容してしまうのだ。

 ただ、その事を和信は知っているが彩音を含む屋敷家の人間が知らない事が問題なのである。

 そのため、ほぼ毎回純が屋敷家へ赴くと恐るべき気まずさが来訪し、同居してしまうのだ。

 特に3回に1回は彩音と一悶着が起こり、和信を含む屋敷家の人間が震え上がる事態が発生する。

 だから和信は純を家に招くのには大きな抵抗があった。

「いや・・・・・・僕が純の家に行けばいいんじゃないかな?」

「ダメ。あの虐待嗜好症女に言葉の暴力を浴びせないと気がすまなくなった。そもそも和信がヘタレだからあの既知外がつけあがるんじゃない」

「既知外・・・って、カタカナで書けない言葉をそんな平然と・・・」

「じゃあ気違い、狂人、気狂い、基地外」

「全部読み方一緒じゃん・・・・・・」

 ちなみに狂人もキ〇ガイと読む。(古語辞典参照)

 結局純は和信の静止を振り切って屋敷家へ向かった。

 街から徒歩1時間の屋敷家についた頃には空は漆黒と化していた。

「相変わらずでかい家ねえ」

「ねえ純・・・ほんとに入るの?」

「当たり前じゃん。なんのために1時間もかけてこんな所まで足を運んだと思ってるのよ、このチキン野郎、ノミの心臓、鳥頭、浪人野郎」

「途中から趣旨変わってるよ」

「黙れザザ虫」

「うあ・・・・・・・・・」

 2人は門を潜り抜け、豪奢な庭を歩いていく。

「3年ぶりだけど池以外は変わってないわね」

「池だけは変わったからね」

「ただ単に汚くなっただけだけどね。ま、不精な一家だからいいか」

 和信と純が玄関まで辿り着く。

 すると和信が往生際悪く何とか純を追い返そうと試みた。

「やっぱりやめない?タクシー代くらいだすから」

「腰ぬけ。矮小な細菌野郎は黙れよ。あのメス豚にはきつく言わなきゃ駄目なんだから。マザコンは引っ込んでろよ。この蛆虫が」

 つくづく純は一言どころか二言も三言も四言多い。

 2人は玄関を潜る。

 屋敷家は広いのでただいまは玄関では言わない。

 純はそれとは明らかに違う理由で何も言わないでずけずけと家に上がる。

 居間までいくと美琴と重慶がごろごろしていた。

 母親がいなくてよかった、と和信は安堵の息をもらした。

「ただいま」

 和信が含みのない口調で帰宅を告げる。

「おかえり〜」

「・・・・・・・・・・・・」

 2人の反応はいつも通りだった。

 しかし美琴が和信の方を見て純の存在に気付くと突如不機嫌な顔になる。

「・・・・・・こんばんは」

「ほんとに邪魔だ、って顔するのね。3年ぶりね美琴ちゃん・・・だったかな。ま、あんたに用はないんだけどさ」

 明らかに好戦的な態度。

「じゃあ何しに来たんですか?」

 美琴も応戦的な態度。

 重慶は完全に知らん振りを決めてしまった。

 和信は完全に困惑しきっていた。

「何しに来たかわからない?」

「ええ、さっぱり」

「知恵遅れ?」

「!」

 美琴が立ち上がった。

「わあ! 純! 美琴は耐性ないんだから!!」

 和信が必死に抑える。

「ふっ、冗談にきまってるじゃない」

 ちょうどその時彩音が居間へやってきた。

 和信はその時の彩音の表情を見て本気でおしっこ漏らしそうになった。

 まるで不動明王のような顔。

 しかもその手には恐るべき事に包丁が握られている。

 やばい。このままでは屋敷家に犯罪者が誕生してしまう。

 和信が完全に萎縮してしまっているのに対し、純は和信を庇うように彩音の前に向き合う。その動作に恐怖は微塵も感じない。

「おい、殺人未遂女」

 純は何の躊躇いもなくそう言い放った。

 その言葉に彩音の表情がさらに険しくなる。

「和信さん、この女を連れてきて、どういうつもりです?」

「え・・・いや、その」

「怒りの矛先を和信に向けるんじゃないわよ。ヘベフレニー女。既知外なら既知外らしく黄色い救急車に乗って山奥の病院にでも隔離されてるがいいのよ、虫けらが。あんたみたいな頭の壊れた根暗が社会を駄目にするのよ。この精神分裂病」

 純の容赦のない罵倒に一同は絶句した。

 和信が一瞬ヘベフレニーと精神分裂病が同じ病気である事を指摘しようとも思ったが、言ったら何されるかわかったものじゃないので黙っておいた。

 一同が停止している隙に純がさらなる罵倒を浴びせる。

「だいたい何包丁持って廊下を歩いてんの? あんた殺人嗜好症? 正真正銘の既知外ね。今すぐイエローホスピタルに直行するべきよ。この下衆が。そもそも自分の怒りを抑えられない事そのものが人間として失格なのよ。このサル。檻の中にでも監禁されろ。人間としても哺乳類としても檻の中がお似合いね、あなた。この見世物女。世が世なら見世物小屋にでも売り飛ばされるべきなのよ。この化け物。死ね。なんでもあなた、和信に『お母様』と呼ばせる事を強制しているそうね。この倒錯趣味。年考えろ年を、この年増。脳みそ痛んでんじゃないの? いや、痛んでるわね。ご愁傷様。くたばれ、このメス豚が」

 和信は関心さえしてしまう。

 よくもこれだけ包丁もってアブナイ目をした人間に向かって罵倒を浴びせられるものだ。

 少なくとも自分にはできない。

 そんな事を考えていると彩音が壊れた形相を持って包丁を振り回した。

 包丁は純のほほをかすめた。

 純はものすごく冷たい目で言い放つ。

「この人殺しが。怒りに感けて人を殺すなんて精神が確立してない証拠よ。そこらへんに転がってるクソガキ共となにも変わらない。このこども大人。自分勝手にもほどがあるんだよ、この精神障害者。死ぬがいい。死んでしまえ。死にやがれ。死ね、死ね、死んじまえ。馬鹿は死ななきゃ治らないんだから今すぐ死んで馬鹿を治すべきなのよ。この馬鹿」

 彩音は完全にキレた。

 どこかでぷつーんという音が聞こえた。

「うわあああああああああああ!!」

 彩音が叫びながら包丁を前に突き出し、純に目掛けて突進する。

 さすがに純も身をかわす。純は思い切り居間の中へダイブした。

 畳を転がる純は体勢を立て直し、猛毒を吐いた。

「この既知外! まさにキチ〇イに刃物とはこの事ね。よかったわね、あなた諺を実践してるのよ。そのまま警察の御用になって監獄のなかで狂い死ね。この売女!!」

「きぃぃぃぃぃぃぃぃ!!」

 彩音の顔はすでに真っ赤である。

 さすがに重慶もアブナイと思ったのか即座に立ち上がり、彩音を羽交い絞めにする。

「やめろ!! 彩音さん!!」

 しかし彩音は包丁を振り回しながらじたばたと暴れまくる。

 純はそんな光景が滑稽に見えたのか弾丸のように言葉の鉛玉を発射する。

「何サルみたいに叫んでんのよ。原始退行? そのまま単細胞生物まで戻れ、このゾウリムシ女」

 もはや彩音は世界が見えていない。

 完全に真っ白になっている。

 白色世界。

 しかしほかの4人は冷静だった。

 ただ、美琴は純の機関銃のように発射される猛毒舌に完全に呆気に取られていた。

 重慶が何とか彩音から包丁を取り上げる。

 しかし危険には違いないので羽交い絞めのままである。

 重慶は純に言った。

「水村くん! もうやめろ!!」

 それに気付いたかのように和信もそれに続いた。

「言いすぎだ!! 純、相手を考えろ、相手を!! 狂い殺す気か!?」

 その言葉に純は意外と素直に従った。

「OK、わかった。じゃあこれくらいでやめておくわ。でも・・・・・・最後に一言」

 そう言って純は彩音の目の前まで詰め寄り一言言った。

「この豚が」

 その時の純の表情はまるで悪魔のようだった。

 薄気味悪い笑みを浮かべた深い影をもつ侮蔑の表情。

 彩音は頭に血がいきすぎて壮倒してしまった。

 彩音があと15年老けていたら間違いなく脳溢血で死んでいただろう。

 まさに、言葉の殺人。

 口は剣よりも強し。

 和信は思った。

 言葉で人を殺した場合、何の犯罪が適用されるのだろう?

 殺人になるのだろうか?

 そんな馬鹿な。

 

 

 

 和信は純を連れて外へ飛び出した。

 純の肌は何故かつやつやしていた。

 和信は純に叱咤する。

「あのさあ、純がうちの母親が大嫌いなのは知ってるけどさあ、もう少し手加減しようよ。あの人実に些細な事でもキレちゃう人なんだから」

「知ってるわ。確か小学4年の時、小皺があるって言ったら花瓶であたしの頭殴ったもの」

「それからだよね。純と僕の母親の仲が極端に悪くなったのって」

「だってあの悪女すぐ殴るんだもの。それも壺とか皿とかガラス板とか凶器使用率99.99%じゃない」

「そういう純も会話の中に毒が含まれている率は70%くらいじゃないかな・・・」

「そんなに多くないわよ。せいぜい40%といった所ね。あまり誇張表現するんじゃないわよ。この短小」

「あんたぜったい40じゃ足りないよ!」

 そんな会話をしていると和信の眼にあの廃墟が目に止まった。

 それは田道から1kmは離れた所にある山にぽつんと映る暗い廃墟。

 和信の眼が変わった。

 それに純が気付いた。

「和信? どうしたの?」

「え、いや、別に・・・・・・」

 別にと言った瞬間にその言葉は暗く、重くなった。

 約1時間半ほどで純の家まで到着した。

 純の家は土地70坪家65坪と庭が全く存在しないかわりに住居だけは4階建て15LDKとかなりでかい家を所有している。

 ちなみに車庫は家の中に存在する。

「相変わらず家だけはすごいね」

「ふっ、庭のない家なんてマンションやアパートと変わらないわ。それにこんなでかい家も半分以上が教室だから意外とせまいのよ」

 純の家は学習塾を兼用しているため家のうち1階と2階は塾の教室になっている。

 したがって水村家は3階と4階で生活している。

 キッチンも風呂もはてや玄関さえも3階に存在するため1階、2階に立ち寄る事はまずない。

「上がってく? ま、茶くらいならだしてやるけど」

「じゃあ、今日はどうせ家に帰っても夕飯ないからお邪魔するよ」

「ご飯まで食べる気? まったくあつかましい男。この乞食野郎」

 2人は家の外に設置された螺旋階段を上って3階にある玄関まで辿り着く。

「お邪魔します」

「邪魔だと思うなら帰れ」

「・・・・・・冗談だよね」

「・・・・・・・・・・・・・・・さあ?」

 純は小さな笑みを浮かべた。

 現在時刻8時50分。

 純の両親はまだ下の教室で講師をしている。

 当然居住区の中には純と和信しか存在しない。

「TVでも見て待ってなさい。あわれな乞食に残飯をめぐんでやるから」

「・・・・・・・・」

「何か言う事あるでしょ?」

「・・・・・・何?」

「あんたは薄汚い乞食野郎なんだから『おありがとうござい』って言いなさいよ」

「・・・・・・・・・純ってほんとに平成の人間だよね?」

「気分悪くした。ほんとに残飯食わしてやる。泣いても叫んでも、たとえ吐いても残飯を完食させてやるわ」

「わあ! ごめんなさい!! 許して!!」

「じゃあ早く言いなさいよ乞食野郎」

「・・・・・・おありがとうござい・・・・・・・・・」

「それでいいのよ。乞食は乞食らしく地面を這いつくばって雑菌にまみれたまずい飯にたかってればいいのよ。このハエ男」

 そう言って純はキッチンへ赴いた。

 和信は1人、リビングでTVを何気なく見る事になった。

 しばらくして純がやってきた。

「おい乞食。残飯食わせてやるからさっさとついてきなさい」

 テーブルには口が裂けても残飯とは言えないようないたってまともな料理が立ち並んでいた。

 薄めの衣であげた豚肉。大量のキャベツの千切り。味噌汁。箸休めのお新香。ご飯。

 食堂では『とんかつ定食』と言われる料理である。

 純は幼い頃から両親が塾で講師をしているせいで夕飯はいつも1人だったため、ある程度の料理は作ることができる。

「純の料理は3年ぶりだね。たしか昔は揚げ物できなかったような・・・」

「いつの話をいってるの? この馬鹿」

「それもそうだね。いただきます」

「心から感謝して食べなさいよ。この餓鬼」

 和信はまずとんかつを口に含む。

「あ、うまい」

 その味は人並みには美味かった。

「食ったら帰れ」

 純はそう一言言い放った後、もくもくと自分の料理を頬張っていく。

 

 

 

 和信は胃袋を満足させたまま帰宅の徒についた。

 ちなみに食ったら本当に追い出された。

 和信は街を越え、田園風景広がる夜の世界に同居する。

 するとあの廃墟が気になったので帰り道を変更し、山を目指した。

 するとその道端で1人の女の子と遭遇した。

 その女の子は美琴と同い年くらいの娘だ。

 暗くてよくわからないが、しかし背は小さい。

 ただ、そんなことよりも和信が眼を引いたのはその女の子がまるで忍者の水ぐもみたいな靴を履いている事だった。

 周囲には誰もいない。

 田んぼの間を穿つようにアスファルトの道路が一本、まるで線のように引かれているだけだ。

 すると女の子が和信に向かって声をかけた。

「お前、屋敷の人間ね」

「あなたは・・・誰ですか?」

「ここから先に一歩でも踏み込んでみなさい。殺してやるから」

「はあ?」

 和信は困惑する。

 何を言っているんだこの女は?

「早く消えなさい、さもなくば殺すわよ。」

「何言ってるんだ、君?」

「・・・・・・・・・死んでしまえ」

 その直後、田んぼの泥が女の子の頭上に集結した。それは完全に物理法則から逆らっていた。

 その時初めて理解した。

 この娘は七条の人間だ。

 まずい、今は武器なんか持っていない。

 和信があれこれ思考を張り巡らしていると、集結した泥が肉食恐竜のあぎとの様に、あるいは貝の口の様に泥が口を大きく開き、和信を襲った。

「な・・・何ぃ!!」

 巨大な泥の牙は和信を埋め尽くした。

 女の子――七条楓は言う。

「そのまま土に埋もれて窒息してしまえ」

 すると和信にぶちまげられた泥は和信を包んだまま和信から見て右側の田んぼにまるで落岩のように落とした。

 和信は必死にもがいたものの、泥は重く、水の中をもがくようにどうしても出る事ができなかった。

 そして田んぼの中は海のように変貌し、いくらもがいても動く事ができない。

 和信は泥土に埋もれた。

 楓はふん、とため息を漏らし、とどめの一言を言った。

「固まってしまえ」

 すると泥は硬い土に変化していく。

 和信は頭の先だけを残し、生き埋めになっていく。

 和信の意識が無くなりかけてたその時。

「或言否定。福音否定」

 どこからかそんな呪文が流れると同時に土の硬質が停止した。

 和信はなんとか首を出すことに成功し、そのまま田んぼから脱出することにも成功した。

 半分泥、半分土の状態の田んぼから抜け出した和信は楓ではなく、呪文を唱えた方を見やった。

 それは美琴だった。

 美琴は広辞苑より分厚い本を片手に仁王立ちしていた。

 それに気付いた楓は早々に去っていった。

 和信は安堵の息を漏らすと同時に美琴に問い詰めた。

「美琴・・・何で?」

 美琴はあきれたように言い返した。

「あのね・・・お兄ちゃんがでていってから何時間経ってると思ってるの? 万が一を備えて罪人典を持ってきたのは正解だったかな」

「別に・・・純の家に行ってきただけだよ」

「ふうん。じゃあなんで七条さん家の楓ちゃんに埋められてるのかなあ?」

「そんなの僕が聞きたいくらいだよ」

 しかし楓はすでに居ず、辺りは静寂に包まれているだけだった。

 

 

 

 

 

 屋敷家。

 かつて『狩督の一族』と呼ばれた家系。

 文字通りキリスト教徒を皆殺しにする一族である。

 時の将軍、徳川家光がキリシタンを抹殺するために創始した家系。

 非罪架、罪人典、罵罪画版などの武器を駆使し、数万ものキリシタンを殺してきた一族。

 しかし明治になってキリスト教が許可されるようになってからはその矛先を異形や異能に向けられるようになった。

 そのため、異能者の家系である七条家との冷戦が勃発した。

 しかし冷戦が熱い戦争にならなかったのは屋敷家は異形、異能の他に共産主義、無産政党といった国賊を狩るようになっていたため七条家はほったらかしにしてきた。

 しかし、戦後になるとそれらの国賊が公認されるようになったため屋敷家は廃業寸前になった。

 とどめは1970年に発足したIEEOのせいで異能の駆除令状なしの殺害が禁じられたため、完全に廃業状態になった。

 

 世界はどこまでも夜の中。

 永遠に夜の中。

 神よ、我らを救い給え。





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