一生涯を通じて無知でいられた者こそ真の賢者であり、

 一生涯を通じて知識を追い求めた者こそ真の馬鹿である。

 

 なぜなら人間が一生涯無知でいられる事など不可能であり。

 それを可能とする事は、パンドラの箱を一生開けない行為に等しいのである。

 そんな尋常有らざる強大な理性。

 一切の欲望に打ち勝つ高潔な精神。

 然るに無知こそが尊く、博識こそが侮蔑に値するのである。

 

 

 

 朝。

 3月の冷たい風が吹きすさぶ晴れた朝。

 気温は14℃。

 もうすぐ暖かい世界が来訪しようとする平成世界。

 和信は自分の部屋にある巨大な金庫の前にいた。

 その金庫は実に大きく、まるで銀行の金庫を彷彿させる。

 和信はその金庫を開けてみる。

 中には巨大な機械でできた十字架がひとつ、ぽつんと孤独に横たわっていた。

「非罪架か・・・これ見るの5年ぶりだな・・・」

 非罪架。

 和信の異能排除に用いる武器。

 基本的にIEEOに所属している人間は皆普通の人間のため、特殊能力を所有する異能を駆除する際には武器を使用する。

 もっともIEEOの局員ならば戦争に使用するような兵器類を駆使した人海戦術を使い、あらゆる異能、異形をある種卑怯な方法で駆除するのだが、屋敷家のような末端の下請けにそんな兵器や軍隊を要請する権利などあるはずもなく、全て独自の手法で異能、異形を駆除する。

 したがって屋敷家の場合かつてキリスト教徒を駆除してきた武器を現代兵器に改造を施した物を用いる。

 そもそも屋敷家がこれらの武器を用いていたのは前時代どころか2世紀くらい昔であり、美琴や和信はおろか重慶の父、獅三郎さえも一度たりと触れた事は無い家宝となっていた。

 和信が重厚な金庫を閉めると美琴がノックもせずに入ってきた。

 和信はばつが悪そうに障子を開け、燦然と輝く太陽を見やった。

 春の太陽は幾許か眩しかった。

 和信はそのまま縁側に座る。

 そんな和信の姿を見て美琴ははあ、とため息をついて自分も縁側に座った。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 2人とも何も言わない。

 沈黙が重くのしかかる。

 和信はそっと美琴の顔色を伺う。

 それは能面だった。

「うあ・・・・・・」

 和信は引きつった笑みを浮かべてまた沈黙が大昔の重税のポスターみたいに背中にずっしりとのしかかった。

 和信はしかし何も言わなかった。

 だからこそこの沈黙がより重厚になっていく。

 10分ほどたった頃だろうか。和信が沈黙に耐え切れず美琴に向かって頭を下げた。

 しかし美琴は冷静にこう言った。

「何で謝るの? 何か悪い事したの?」

 そう考えると何が悪いのかさっぱりわからない。

 記憶を回想しても検索にひっかからない。

 じゃあ悪い事なんかしてない。

「よく考えれば何もしてないな・・・じゃあ何で?」

「さあ?」

 美琴は不自然な笑みを浮かべる。

 その表情はあえて形容するならば不動明王とおかめを足して2で割ったような何とも摩訶不思議な表情である。

 和信はその奇天烈極まりない顔に呆気に取られながらも、思考を張り巡らす。しかし検索には何一つ引っかからない。

「・・・・・・たのむから理由を言ってくれ」

「別に理由はないよ。別にね」

 この重苦しい空気は依然軽くなることはなかった。

 

 

 

 七条家。

 屋敷家とは比べ物にならない巨大庭園が聳える、まさに別世界。

 その庭園から見える一室において暗影が楓を窘めていた。

「お嬢様、昨夜何をしたか答えなさい」

 しかし楓は俯いたまま何も答えない。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 沈黙が世界を浄土する。

 暗影の眼がすうっと細む。

「昨日何で蜘蛛畑に赴いたのかをきいているんだよ、お嬢様」

「・・・・・・・・・・・・」

「その赤く爛れた御足をどうご説明いただけるのかな?」

 暗影が顎で楓の足をしゃくる。

 楓の足はまるで石油ストーブに足を突っ込んだ跡みたいに赤く爛れていた。

「楓、答えろ」

 暗影はついに楓を呼び捨てに至って命じた。

 楓はびくんと肩を竦め、蚊のような声で答えた。

「屋敷の息子を牽制しただけ・・・」

「何だと?」

 暗影の表情が曇っていく。

「おい楓、お前殺ったのか?」

 その瞬間ししおどしの水が不規則に揺れた。

「け、牽制だけよ! 殺しはしてない!!」

「そうか。なら、いいがな。お前何人殺したかわかってるのか? 4人だぞ4人」

「知っているわ、それくらい」

「隠匿のためにどれだけの費用がかかってるか知ってるか?」

「さあ? 忘れたわ」

「それでよく4人も殺せるよな・・・。まあ、5人までなら隠匿してやるが6人目は隠匿してやらんぞ。そのまま警察に捕まるなりIEEOに駆除なりされちまえ」

 駆除、という言葉に楓が反応する。

「前から気になっていたのだけれど『駆除』って何されるの?」

「俺も詳しい事はわからんが生け捕りにされて人体実験されるなりその場で処刑されるんじゃねえのか?」

「物騒なものね。ま、駆除されないように気をつけるわよ。万が一の事態になったら真弓もいるし」

 暗影が怪訝そうな表情を浮かべ、楓に詰め寄る。

「お前は真弓の能力を絶賛しているようだがあいつの能力は近距離専門じゃないか。遠くから狙撃されればおしまいだ。あまり真弓に依存するな」

 楓はふん、と鼻で笑いながら立ち上がる。そのまま部屋を出て行こうと襖に手を掛けた瞬間、こんな一言を残した。

「甘い、甘すぎる。暗影、真弓の神成蜘蛛は無敵の能力よ。その気になれば大陸だって破壊できるんだから。暗影は昨日核兵器みたいな能力と言ったけど甘すぎる。神成蜘蛛は核兵器なんか超越しているのよ」

 そう言い残して楓は去っていった。

 暗影は1人ぽつりと呟いた。

「楓の馬鹿が・・・・・・神成蜘蛛はそんな大層な能力じゃない・・・真弓がいくら大陸を破壊したとして自分自身も藻屑と消えることが何故わからない・・・」

 世界は不自然な静寂が支配した。

 風がゆらりと部屋を廻る。

 

 

 

和信は沈黙に耐え切れず、家から飛び出した。

 美琴は何も言わずただ冷たい視線を和信に向けるだけで文句一つ言わない。

 しかし、この視線が何より雄弁に語っている事は痛いほど和信の背中が理解していた。

 和信は家を飛び出したはいいものの、またもや自転車を取りそこなったため、徒歩で街まで赴かなくてはならなくなった。

 晴れた空がいかにも世界を温暖に包んでくれると錯覚させるが3月の気温はそれほど暖かくはなく、長袖を着ていないと肌寒いくらいだ。

 しかし世間には必ず例外というものが存在するようで、この寒い春の中にあって半袖で平然と歩き回っている人間が幾人か目に止まる。

 寒がりの和信にはその人たちが実に奇特に見えた。

「さて、跋扈闊歩でご飯にするかな」

 跋扈闊歩は10時開店である。

 現在時刻は10時12分。

 ちなみに和信は朝飯を食していない。

 そのため磨耗した胃袋を救助せんがためにあんみつ屋へ足が進んでいった。

 和信が跋扈闊歩へ向かう途中の信号で純を発見した。

 純はつまらなそうに信号の先を高速で飛び交う自動車を見ていた。

 その表情はあまりに遠くを感じた。

 和信は少し小走りで純の所へ駆けていく。

 すると、ある光景の目撃をもって和信は足を止めた。

 1人の女が純に声を掛けたのだ。

 和信は耳をすましてみる。

 和信と純の距離はおよそ6m。

 なんとか聞き取れるレベルだった。

「・・・・・・・・・・・・で、・・・・・・の場所は・・・・・・・・・その・・・」

 どうやら道を尋ねているようだ。

 和信は少し不安がよぎった。

 そしてその不安は数秒後に現実のものとなった。

「あ、信号変わった。じゃああたしはこれで」

「ちょ、ちょっと! せめて方向だけでも!」

がっしと女は純の腕を掴む。

「うるさいな。方向オンチな貴女が悪いんだから人に頼るな。この・・・とと・・・」

 純はこの人面害虫が、と言いかけたのを何とか抑えた。

 ちなみに女の顔立ちは美人とはお世辞にも言い難いが、並となら遜色なく述べる事ができるレベルであった。少なくとも赤の他人に人面害虫と言われるような顔はしていない。

 しかし女は遺憾の表情を隠そうともしない。

 何故?

 純は一瞬そう思ったがすぐさま初対面の人間に方向オンチと罵った事を理解した。

 ちなみに純は鈍感である。

 和信は純のすぐ後ろではらはらしている。

 女は熱い表情で純を見据えた。

「ねえ、はじめてこの街に来た人間に対して方向オンチはないんじゃない?」

 純は目を泳がせながら思案した。

 天秤だった。

 謝るか、開き直るか。

 しかしよく考えたら純は人に謝ったためしがない。

 だから、謝りかたがわからない。

 仕方ない、そう判断した純は開き直るを選択した。

「黙れ虫。誰かに依存しなきゃ何もできない自己主張の欠片もないパラサイト女が。そんなだからそう醜い顔になるのよ。この人面害虫が」

「な!!」

「げ!!」

 女と和信が同時に驚嘆の声を漏らす。

 幸い周囲には誰もいない。

 しかし、だからこそ純がつけ上がった。

「ふん、な〜にが『な』なんだか。臭い息出すな虫が。たしか文化会館の場所が知りたいって言ってたわね。いいよ、教えてあげる。感謝しなさいよこの寄生虫」

 すでに女は蒼白になっている。

 ぽかんと開いた口が塞がらない。

 当然だろう。

 この女の生涯においておそらく後にも先にもこんな罵倒を受けるのはこれだけであろうから。

 確かに悪口というレベルでならこれくらいの事は言われた事もあったかもしれない。

 しかしこの水村純の言葉は悪口と感じられない。

 ふざけて言った暴言ではなく、人を本気で貶める暴言。

 純の言葉には殺意に近い悪意があったのだ。

 女が困惑しているとすぐさま純がまるで気つけのように罵ってくる。

「何ぼーっとしてんだよ精神異常者が。そのまま倒れて車に轢かれて死んじまえ。で、とりあえず文化会館の場所は教えたからね。忘れたり聞き逃したのは貴女が悪いのよ。とっとと消え失せろ、この顔面腐敗用土め」

 そう言って純は信号を渡っていった。なぜか純の肌はつやつやしていた。

 和信はあわてて女のもとへかけよる。

 女は放心していた。

「あの〜」

 和信が声をかけるも女は無反応である。

 ただ、うわごとのように呟いていた。

「何か・・・・・・私・・・悪い事・・・したっけ?」

 和信があわてて女を揺する。

「・・・・・・・・・・・・はっ私は何を!?」

(よし、この人は大丈夫だな)

 和信が女が正気に戻ったのを確認するとそのまま信号を突っ切り、純の元へ駆け抜けた。

 純は跋扈闊歩の前であっさり見つけられた。

「じゅ〜ん」

 和信が純に向かって声をかける。

 純は左右を見回した後、後方を確認した。

「あ、和信か」

 純は幾許か表情を緩めてそう言った。

「和信も朝食?なら一緒しようか」

「え、あ・・・うん」

「どうしたの? この欠食童子」

「あのさあ純」

「何?」

「その・・・・・・・ああ・・・」

「じれったい。席についてから話しなさい。このどもり野郎」

 そう言って純はそそくさと席についてしまう。

 和信もそれに続いた。

「あたしは鉄火あんみつを」

「じゃあ・・・僕はうなぎあんみつを」

 はっきり言って誰も食いたいと思わないのではないだろうか。

 純がぱらぱらとメニューを眺めながら和信に質問した。

「で、何?」

「あ・・・・ああ、純、赤の他人にあんな毒は吐かないほうがいいよ。侮辱罪とか名誉毀損とかで訴えられるよ」

「聞いてたんだ。このストーカー野郎」

「たまたま聞こえただけだよ・・・」

純の目が細くなる。

「あたしは悪くないわ。文化会館の場所なんて駅からすぐ近くのものを指定するあの人面害虫が悪いのよ」

「少なくとも他人にはソフトな言い方をしようよ」

「何言うのよ。あたしはちゃんと場所教えたじゃないの。あたしは優しさはなくても思いやりはあるほうだと自負しているんだけど」

 和信ははあ、とため息をついてメニューを見開く。

「優しさと思いやりは同じ意味だよ。・・・まあ純は頼めば確かに何でもしてくれるけどね。でもさあ、優しさというか慈愛というか・・・・・・・そういった感情が明らかに欠落してるよね」

「やかましい、豚が」

「だからそれが欠落してるんだってば・・・・・・」

 

 

 

 かつて、純は和信にこんな事を言った事がある。

「味噌煮込み これ、白痴野郎の差別用語らしいよ」

「え? どこが?」

「さあね、考えた奴の頭が腐ってんじゃない? だいたいね、子供が差別用語で子どもがOKってのは倫理を捻じ曲げて解釈してる証拠だよ。非人が差別用語なのはわかるけどね、何で子供が? 馬鹿じゃないの? 保護者も差別用語予備軍だしね。だいたい差別って何なのかもわからない無知な阿呆野郎共が言葉を都合よく解釈してムリヤリ排他しようとしてるんだよ。まるでイスラム教みたいね」

「う〜ん。純は差別用語を連発してるからねえ」

「そもそも」

「ん?」

「差別用語を裕福な人間や五体満足の人間風情が作る筋合いはないね」

「うわ・・・」

「それにエタが差別用語で被差別部落が認可用語ってもね、意味同じだし。どうやら彼らは平等に扱われる事よりも言い方だけを重要視するんだね。明治時代、新平民って言ったら怒ったくせに」

「ちなみに乞食は差別用語じゃないし、だいたい子供にしたって子供が訴えたのか? 『僕達はあなたたちのお供じゃない!』とでも。違うね、これは自分の私腹を増やすために子供を生贄にしたんだ」

「・・・・・・・・・・・・・」

「だいたいどれが差別用語でどれが認可用語なのか正確に識別できる日本人が一体何人いる? 他にも『死ね』が差別用語なら『お隠れになってください』とでも言えばいいのか? そうとも、意味は同じなんだよ。言い方をどれだけ変えたって」

「あ・・・・・・あ・・・・・」

「要するに相手を罵るときは遠まわしに言えばいいんだな? 罵るな? 馬鹿。人間80余年の人生で罵らずに一生を送れるやつなんかいない。人は必ず誰かを罵倒する。罵倒しなきゃ生きていけないんだよ。攻撃しなきゃ明日はこないんだよ。平和も、自由も、暴力の果てに手に入るもので、圧政された者が相手を倒して、殺して、罵って、初めて手に入るんだ。その証拠にガンジーは非暴力でインドを独立させることができたか? 結局暴力がイギリスを撤退させたんじゃないか!」

「じ、純・・・・・・・・・」

「どもりだってそうだ! 吃音症だって言えばいいのか? 吃って字は訓読みで『どもる』なのにか? 馬鹿じゃないのか!? 言い方を変えても意味は同じなんだよ!! 差別用語の実態は『クレームが来ないように』なんだからな!! 本当は被差別者の事なんかこれっぽっちも思っちゃいないんだよ!!」

「あの・・・その・・・」

「結局自分が可愛いんだ! 相手の事なんかどうでもいいんだ!! そうだよ、それが人間なんだよ!! その薄っぺらい仮面の中は唯我独尊で構築されているんだよ!! その証拠が免許証だ!! 目が悪いやつは『眼鏡着用』と書かなくてもいい事書いてあるのに誰が差別した? 目が見えないやつに『めくら』と言うのを差別にするなら、目が悪いやつの身分証明書に『眼鏡着用』なんて記す方がよっぽど差別じゃないのか!? そんなの新平民と何が違うんだよ!! これは立派な差別だ!! そうとも、眼鏡をかけているやつに目が悪いというのは差別だ。『近眼』は差別用語になるんだよ!! この馬鹿共が!!」

「あああああああ」

「それに悪徳業者みたいな言い方をすれば差別用語は合法だ!! 特定の人物、団体に対して発しない限りは大声で差別用語を怒鳴っても犯罪にはならないんだよ!! 言論の自由は憲法が保証しているんだから!! あははははははははははは!! だいたい盆と年末に有明に行く連中を『おたく』と言うのなら『おたく』というのは差別用語になるのかな? じゃあ、もう日本でおたくって言っちゃいけないな。そうだな? 違うわけがないよな!? だって言ってる事全く同じだもんな!?」

「・・・・・・・・・・あ、あの〜」

「言葉がどれだけ優しくてもやってる事が変わらないなら同じだ。たとえば子供に『そんな事言っちゃダメでしょう』と諭しても、そんな言葉を言う時点でそいつが差別している何よりの証拠に他ならない。『弱者の気持ちは弱者にしかわからない』そうともその通りだ。だから五体満足の人間や、他人の差別に敏感に反応するやつなんかにそいつらの気持ちは逆立ちしたってわからない。他にも一人称『僕』だ。僕って『しもべ』じゃん。でも自分で言ってて抵抗ないんだよ。それを言葉尻捕まえて差別用語だと何で叫ばないの? ねえ、とっても不思議? そのくせOLは差別用語扱いだし」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 

 

 少しそれ以降会話が途絶えているとあんみつが運ばれてきた。

 2人は驚喜に満ちた目でねぎとろたっぷりの鉄火あんみつとうなぎが香ばしく焼かれ、極上のタレを纏ったあんみつを見た。

「和信、うなぎあんみつ一口よこしなさい」

 純がそう言って山葵醤油をつけながらあんみつを頬張る。

 しかしこれを下手物食いとは呼べない。

 何故ならこの街の住人のほとんどがこういったあんみつを当たり前のように食すのだから。

「いいよ。じゃあ鉄火あんみつも一口ほしいな」

「豚が、ほれ、食いなさい」

 和信は豚と呼ばれた事に対しては全く遺憾することなく箸をもって鉄火あんみつを食した。

 甘じょっぱい味が口の中全体に広がる。

 なんという高貴なる味なのか。

 塩辛すぎるねぎとろの味をあんみつの濃厚な甘味が実にうまく相殺している。

 まさに二人三脚の味。

 少なくとも和信はそう感じたのだ。

 統計が社会の価値の基準と定義するならば、この雲隠市においてのみの統計であるならば和信の味覚は社会的に正しいのである。

 人間の味覚など統計をもってでしか普遍を確定できないのだ。

「和信」

 純が肩肘をつき、ぱらぱらとメニューを見開きながら呼びかける。

「ん? 何?」

「このメニューのさ、納豆あんみつってさ、誰が食べるんだろうね?」

「そういやそうだね。この雲隠市にあんみつ好きで納豆食べれる人なんか存在しないからね・・・多分」

雲隠市の住人のほとんどは納豆が食べられない。

 したがってスーパーなどの納豆の売れ行きの悪さは全国一である。

 給食にもただの一度も納豆は出ない。

 中には「納豆? 何それ、おいしいの?」と本気で首を傾げる猛者も存在するくらいなのだ。

 ちなみに純や和信は過去一度だけ食したことがある。

 小学6年生の春にいつもの給食センターが火事で機能しなくなった時、隣町の給食センターから運ばれた事があったのだ。

 その時のメニューに納豆が存在していた。

 純や和信は初めて納豆を食べた瞬間、涙がでた。

 あまりのまずさに体が拒絶した。

 ふと周りを見るとほとんどの児童が同じような状態になっており、中には吐いてしまった猛者もいたくらいだ。

 ほとんど遺伝的なレベルで納豆を拒絶してしまうようだ。

 しかし中には雲隠市の両親ではない子供などもおり、その児童らは平然と納豆を食していた。

 得てしてその児童らは和信が今食べているようなあんみつは食せない。

 実にどうでもいい体質であった。

 

 すると、信じられない声が聞こえた。

 純も和信も、おそらく客の全てが・・・否、店内に存在するすべての人間が我が耳を疑ったのだ。

「牛あんみつと納豆あんみつ一つづつ」

 牛あんみつはいい。

 この店の常連なら一度は食べたことがあるであろう至高のメニューだ。

 しかしたった今その存在を否定した納豆あんみつをオーダーするとはどんな奴だ?

 和信は席を立ち、そのオーダーした人間をまじまじと見詰めた。

 それは暗影だった。

 あの真っ黒なレインコート姿は他の追随を許さない。

 それを目撃した後の和信の行動は本人にさえ、理解できなかった。

 ただ、後に「好奇心が理性を超越したんだ」とだけ語った。

 和信は徐に暗影の元まで行き、こう言った。

「お前、あんみつ好きか?」

 

 

 

 昼が消えた。

 世界が超越した。

 法則が揶揄した。

 つまり、何だ?

 

 

 

和信はぼーっとした拍子で帰宅した。

 今日は純はついてきていない。

 いや、できないのだろう。

 数時間前、あれだけ恐ろしい光景を目の当たりにしたのだから。

 極端な話、暗影は納豆が食えなかった。

 暗影も雲隠市の住人だったのだ。

 ねばっこい糸が引いた赤茶色の大豆。

 発酵と腐敗の違いは細菌が分裂するか、化合するかの違いだという事をむざむざと見せつけられる程の異臭放つ悪魔のような大豆の産物。

 それをあんみつと合成させた日には目も当てられない。

 そしてその目も当てられない料理が運ばれたとき和信も純も他の客も店員も、はてや暗影さえも「うっ!」と口を抑えた。

 この既知外極まりない料理を発明した跋扈闊歩のオーナーは語る。

「いやあ、まさかアレを注文する人間がいるとは・・・・・・はっはっはっはっは」

 この豆と豆の夢の共演を実現させた地獄絵図さながらの皿を運んだ店員は語る。

「長い間ここで働いてますけどコレ運んだのは初めてです」

 この紐なしバンジ―さながらな真似を行った命知らずなチャレンジャー、暗影は語る。

「一度だけ、食ってみたかったんだが・・・・・・まさか、これほどとは・・・・・・」

 皿にはあんみつのほのかな甘臭と納豆の苦い香りがふぞろいのりんごたちであった。

 皿の横には付け合せのからしと醤油が悲惨な難民の如く、悲壮に置かれていた。

 あんみつの上にたっぷりとかけられた恐るべき納豆。

 ちなみにこの納豆は本場、水戸産なのだがそんなこと誰も知ったことじゃない。

 これが浜松、牛久、四万十等で掲げられるどこが本場なのかよくわからない名物のうなぎであるならば如何にでも食欲がそそられた事だろう。

 店員も客も固唾を飲んで暗影の前に聳え立つ納豆あんみつを見守る。

 暗影が箸をとる。

 それと同時に周囲に緊張が走る。

 沈黙が重い。

 誰が比喩したか知らないが実に的確な表現である。

 暗影はゆっくりと箸を皿に進めていく。

 和信は見た。

 暗影が全身痙攣にも似た震えに侵食されているのを。

 特に指がぶるぶると、まるで麻薬中毒の禁断症状のようである。

 箸でつまんだ納豆はどろりとねばっこい。

 ちなみにこの店では箸とスプーンは選択可能である。

 あんみつのつけあわせがスプーンでは食えない、という苦情から誕生したのだがいつのまにか通は箸で食うのが定着してしまった。

 おそるおそる納豆あんみつを口に運ぶ。

 暗影の口の中で納豆が暴れ回る。

 それと同時にあんみつが優しく包み込む。

 まるで爆弾。

 暗影の顔がしかめっ面に豹変する。

 その奇奇怪怪な味は信じられないくらいにまずい。

「うっ!」

 暗影が口をおさえる。

 どうやら喉が納豆をうけつけなかったようだ。

 暗影はしかしなんとか咀嚼を試みる。

 喉に悪魔が宿ったかのようだ。

 あきれるほどの暴力が口いっぱいに広がる。

 どうしても喉を通らない。

 苦くて臭くてねちゃねちゃしてて。

 これ以上形容したら精神が破壊されそうなほどまずい。

 暗影の脳裏には吐く、という単語で埋め尽くされていた。

 暗影を目撃していた一堂はたった一口で挫折しかけている暗影に関心を失っていった。

 和信もそのあまりにぶざまな姿にはあ、とため息をつき席へと戻ろうとしてしまった。

 すると和信は純が身動き一つせずに暗影を見詰めているその姿に幾許かの困惑を抱き、停止した。

 すると純は徐に暗影のレインコートの頭部を鷲掴みにする。

「「!?」」

 和信と暗影は驚きを隠せない。

「おい変態河童。邪魔だから失せろよ」

 そう言って純は暗影を何故か便所へと連行する。

「?????」

 和信は全くもって何がなんだかわからない。

 和信はそろそろと純の後についていく。

 

 そこは地獄絵図だった。

 男子便所の一角にて純が暗影の腹を蹴りつけている。

 それと同時に吐き出される大量のゲロ。

「雲隠市の人間が納豆なんか食うなよ、この腐れ外道の黒河童めが」

 和信はその異臭漂う便所の中に一秒だっていたいとは思わなかった。

「ほら、落ち着いた? この変態野郎」

 純が大量の嘔吐を終え四つんばいのまま息を切らしている暗影に問う。

「はあ・・・はあ、はあ、はあ・・・」

「で、変態。あんた納豆食べた事ある?」

「はあ・・・はあ・・・いや、ない。俺が生まれたときから一度も無い」

「だからか。納豆を食べた事が無いから納豆のまずさがわからないのね。もっとも雲隠市の人間が納豆が嫌いという変な法則は知ってたんだ」

暗影はゆっくりとたちあがり和式便器の水を流す。

「まあ、古い家の生まれだからな。とにかくありがとう。なにかお礼を・・・」

「礼よりもあたしがず〜と抱いてる疑問にこたえてくれない?」

純が冷たい目をして暗影を見詰める。

 和信は便所の影から2人の会話を聞いていた。

「なにかね?」

「その『自分は既知外です』って自己主張したふざけた恰好は何? あんた見世物小屋の人間?」

そう言って純は暗影を顎でしゃくる。

和信は密かにガッツポーズをとり、耳を傾けた。

「あ、これか・・・・・・・ちょっとそれについては・・・」

「何? 言えないの? 変態野郎、あんた人に平気で言えないようなことしてんの? この既知外」

「あ・・・・・・あのだな・・・そういう君もその口の利き方はどうかと思うぞ・・・」

「黙れ虫けら」

「ぐ・・・・」

 和信は関心していた。

 よくもあれほど差別なく、分け隔てなく、平等に毒舌を噛ませるものだ。

 それにしても臭い。

 ゲロの臭気が便所に漂っている。

 よく見ると純もこの臭いに絶えられないらしく眉間にしわをよせて鼻を摘んでいる。

「ああ、もう臭い! これ以上こんなとこにいられない!」

 そう言って純は便所からでようと近づいてくる。

 和信はあわてて便所の外に出る。

 

 純が便所から出たときには和信は何とか席に戻れた。

「和信・・・帰ろうか・・・」

 純は明らかに不快な様子で和信に声をかける。

「そうだね・・・」

 和信もそれに承諾した。

 はっきりいって2人ともあのゲロの臭気にやられていた。

 

 空は昼を象徴するが如く太陽が天に高く轟いていた。

 しかし気温は20℃にも達しておらず多少、肌寒い。

「どうする? これから」

 和信が何気なくそう純に問う。

「帰って寝る」

 即答だった。

「じゃあ僕は適当にぶらつくか・・・」

「好きにすれば?」

 そう言って純はてくてくと自分の家に向かって歩を進めた。

 その後ろ姿を見届けた和信は夜になるまで本当に当ても無く適当にぶらついた。

 

 

 

 だからこそ、不思議だった。

 胃がムカムカする。

 あれから何時間経ったと思っているのか。

 それほどまでにゲロの臭気がこびりついていた。

 あのゲロは不思議だった。

 水分が感じられなかった。

 だからこそ、臭かった。

 おそらく納豆の臭いも関係しているのだろう。

 どうして雲隠市の人間は『納豆』が食えない?

 豆腐は遜色なく、食べられるのに。

 和信はそんな事を考えながら我が家の門を潜った。

 相変わらず庭は暗い。

 灯篭が灯っていないのだから当然ではあるが。

 さらに家は雨戸で締め切られており、光が僅かにもれるだけ。

 今蝙蝠が和信の目の前をよぎったら和信は間違いなく驚愕のあまり腰を抜かしてしまうだろう。

 今なら薄汚れた池も綺麗に見えるから夜とは不思議である。

「ただいま」

 和信は戸を開け、敷居を跨ぎ、居間まで赴いてからこの言葉を述べた。

 いつものことである。

「おかえり」

 居間には美琴が茶をすすっていた。

 和信は恐る恐る美琴の顔色を伺う。

 すっかり忘れていたが和信は美琴に咎められて飛び出したのだった。

「?」

 美琴は首を傾げ、和信の不信な表情を見詰める。

 どうやら美琴の怒りは収まっていたようだ。

「何? もうすぐご飯だよ」

「ああ・・・・・・今日はいいや・・・」

 和信がそう言って居間を出ると和信の後ろに恐るべき殺意を秘めた眼光が和信を突き刺した。

 和信は震え、おののき、あわてて居間へ戻った。

「どうしたのお兄ちゃん?」

「やっぱりご飯食べる」

 和信がそう言った直後、喜色満面の表情を浮かべた彩音がご飯の乗ったお盆を持って入ってきた。

(ああ、なるほど)

 美琴が何故和信が戻ってきたのか即座に察した。

 

 

 

 夜中。

 鬱蒼と草木が生い茂る山の中。

 草臥れた廃墟が異臭を放ち、暗黒の夜空を一掃不安なものへと変貌させる。

 廃墟の中には無数の蜘蛛が所狭しと跋扈する。

 その地獄絵図のようなおぞましき光景を平然と見詰める女がいた。

 七条楓である。

 廃墟の周囲のアスファルトは土にまみれ、雑草が乱立している。

 楓は一言で言ってしまえばチビである。

 身長は150cmにも満たない。

 しかし今の楓は明らかに160cm以上の背丈がある。

 何故?

 それは楓の履いている靴にあった。

 安全靴の下にすのこを敷いて滑り止めにすのこの下はスパイクになっていた。

 その丈、実に20cm以上。

 楓は基本的に外出するときはここまで仰々しい靴というにもおこがましい何がなんだかさっぱりわからないものは履かない。

 まあ少なくとも年がら年中既知外みたいな厚底の靴を履いているのだが。

 全く持って不便な一族である。

 道路が土100%だった時代はどうやって歩いていたのだろうか?

 楓は自分の足を鑑みながら常々そう思った。

「これで1人分とはね・・・一体何を作るつもりなんがか・・・」

 楓が侮蔑するように蜘蛛を見詰める。

 

 うじゃうじゃとそこらを蔓延る蜘蛛の織り成す蜘蛛畑。

 世界は蜘蛛で満ちていた。

 見渡す限りの蜘蛛畑。

「まあ、これで末期病が治るのなら仕方ないのだけれど」

 楓は病院を埋め尽くす数万もの蜘蛛の大群を嘲るように笑った。

  



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