我が愛するブルマの未来へ。

 

 人類が、本当の未来を切り開いたのは、全て女性によるものである。

 故に、今まで影となり人類を支えてきた彼女たちを表舞台へと上らせたもの。

 その偉大なる存在は、わずか1つの衣である。

 

 

 

著・深田あり

 

 

 

 まえがき

 

 この論考はおそらく数多くの者に忌み嫌われ、決して理解されないだろう。

 だが、もしもこの論考を理解してくれるのなら、その者はブルマの未来を託すに充分な存在であるといえるだろう。

 これは、哲学書ではあるが、哲学を体系した正当な論文ではない。故に、私が述べたいものは全てここに残したいと思う。

 本論は、ブルマに関する知識ではなく、ブルマというものの本質を哲学として解明する事を目的とする。それというのも、人類の大半が、ブルマというものの本質を見誤り、一種の快楽しか目的としていない事に起因する。

 しかるに本論の意図は正しいブルマというもの、その本来の真理を解析する事にあり、それは理想でしかないのだが、すでに絶滅の一途を辿るブルマへの、最後の救済は理想論しか残されていないと言う事を、重々理解してほしい。

 私はブルマの全てを知っているわけではない。ただ、ブルマが好きなだけである。

 だからこそ、失策した快楽の象徴に成り下がった、泥土の中からブルマを引き上げる藁となるべくこれに意味は存在する。

 願わくは、ブルマを再び人類の新たなる掛け橋となって、否、もしならずとも、ブルマに変わる第二、第三の人類の未来を救済するものが誕生し、率いては世界人類の未来の開拓を望む。

 本論は全てブルマの愛に始まるものであり、ブルマの未来に終るものである。

 

 

 
1、 ブルマとは、女性の不可侵性を持った聖域である。

 

 

1・1    ブルマとは、女性を外の世界に導く扉である。

 1・11 ブルマは絶対原則として、女性が着用する。男性の着用は女性への冒涜である。

      1・12  ブルマは活動するための衣装を原則とする。それは、室内外問わないが、活動を目的としなければならない。

 

1・2     体操服がブルマの全てではない。

 

1・21 ブルマは体操服の一様として存在しているのではない。女性の活動を目的とした、普段着として誕生した事を忘れてはならない。

1・22 ブルマが破廉恥であるというのはブルマの装飾でしかない。重要なのは女性が男性の独裁から勝利するという基本理念であり、破廉恥だと思う全ての起因は男性の屈折した欲望である。

 

1・3     ブルマの正当性を、太陽だけは知っている。

  

1・31 貴兄がどれだけブルマを悪質に捕らえたとしても、コルセットとドレスに身を包み、家に縛られてきた女性を解放した事を、太陽だけは知っている。

1・32 男性がどれだけブルマを性的道具にしか見ていないとしても、その屈折した欲望に真っ向から立ち向かい、そして勝利した事を、太陽だけは知っている。

 

1・4     ブルマは女性が着用した時初めて価値を成す。

 

1・41 ブルマの常時性は、女性が行動心理にて目的を遂行する手段としてブルマの着用を成しえた時、その存在は正当される。

1・411 ここでの行動心理は運動に限らず、敢えて言えば新聞を読むという行為もまた行動心理に起因してしまうということだ。

1・412 しかしそれではブルマの必要性を失ってしまう。故に行動心理とはある程度の肉体活動を内包した行為でなければならない。

1・413 人間の行動理念は下半身と上半身に起因する。ならばその装飾価値をなすためには、下半身の活動を目的とした時、ブルマを着用する。そこにブルマの価値が具現する。

1・42 ブルマの連動する運動性とは、行為の使用価値を問わない。

1・421 すなわち、ブルマを着用するに足りる正当な理由など必要なく、個人がブルマを着用する事で何らかの活動性があるのなら、その意味は必要ない。

1・422 何故なら、ブルマを着用し、何らかの肉体活動を行う時点でそこにブルマの価値が付加するからである。

1・423 以上の事を総合すると、ブルマとは、着用し、体を動かした瞬間に価値が誕生する。

 

1・5   従って、ブルマとは単に1装飾様式ではなく、女性の価値、存在を昇華し、活動的、創造的な発展を促す聖域であるという事を証明する事が可能となる。

 

 

2、ブルマの視点は2つ。穿く側と見る側だ。

 

 

 

2・1  ブルマを見る者は女性を尊敬するか、自分を軽蔑するかの二者択一である。

  

2・11 ブルマを穿いた女性はそれだけで一切の差別から開放される。それは、女性が上位では断じてないが、どちらかが優劣を競うものでもない。

        2・111重要なのは平等とは何か? という事である。それは社会的、そして精神的優位である。

2・112 自分が学歴、職業、年齢、そして性別で自分が優位な存在だと思っていたとしても、ブルマを穿いた女性の前では全て捨て、あくまで対等な視点に立たなくてはならない。

2・113 ブルマは見ているのではない。見せてもらっているのだ。

2・114 ブルマを見たいのであれば、その女性が自分と全く同じ存在であり、対等な立場に立っているんだと言う事を重々理解しなければならない。

2・115 一方穿く側も、見る側に対して自分がその者より優れている、また劣っているなどという事は一切感じてはならず、見ている者の威圧に負けてはならない。

 

2・2   ブルマは、必ず見られている。

 

2・221 ブルマを絶滅へと追いやったのは全てこれが起因している。しかし、真に絶滅へと追いやった、憎むべきはブルセラである。アンダースコート同様ブルマも19世紀の世から人類に見つめられてきたのだ。

2・222 すなわち全ての害悪は男性の腐った欲望であり、しかしそれは2世紀前から存在していたのだからここで屈してはいけない。男性という愚かな悪魔に勝つことを目的とした衣服である以上、ここでの泣き寝入りは敗北である。

 

2・3 ブルマだけではない。

 

       2・31いろいろとブルマだけを悪性と思われているが、男性の欲求は全ての女性の衣服、職業に起因しているのだ。

2・311 ブルマに限らずセーラー服、ブレザーといった学生服から看護士、女医、教師、メイドさん、巫女さん、耳、妹、姉、母親、幼児、スチュワーデス、ウエイトレス、私服、警備員、警察官、魔法少女、死体、料理人、割烹着、着物、浴衣、ラバースーツ、奴隷、女王様、おむつ、ランドセル、縄、全裸、靴下、スパッツ、短パン、下着、水着、スクール水着、アンダースコート、ワイシャツ、スポーツウェア、着ぐるみ、理容師、OL、スーツ、ドレス、ウェディングドレス、マスク、エプロン、裸エプロン、保母、格闘家、人妻、熟女、ライフセイバー、ロボット、いや、まだまだあるが取り敢えずこれらはほんの一例である。

2・312 故にブルマだけを排除するのはあまりにも異常。もしブルマを廃止するのであれば、この地球上から全ての女性の衣服、職業を取り上げなければならない。否、それでも全裸という排他不能な欲求がある以上、女性をこの地球上から消滅させなければならない。

2・313 それは言うまでもなく不可能であり、即ち、ブルマに罪は無い。

 

 

 

3、ブルマは男性のためにあるのではない、女性のために存在する。

 

 

 

3・1 ブルマを誕生させたブルーマー夫人とミラー夫人。

 

3・11 ブルマを考案したのは言うまでもなく19世紀アメリカのジャーナリスト、ブルーマー夫人である。そして、ブルマを発明したのは同じくジャーナリストのミラー夫人である事を決して忘れてはならない。

3・12 ブルマとは、あくまでも男女平等の象徴であり、破廉恥だと当時から蔑まれた事実に変わりはなくとも、当時の女性はブルマを認めたのである。

3・13 ブルマとは関係ないが、当時の男性のアンケートでは『煌びやかなドレスに身を包んだ上品ぶった良家の娘より、庶民の娘の方が好きだ』という意見が実は16世紀以前から蔓延していたのだ。

 

3・2 ブルマは確かに性的興奮を誘発させる。しかし、この地球上を見回せば性的興奮を催す衣服など腐るほどある事を忘れてはならない。ならば、男性からの圧政に打ち勝ったブルマを抹殺するのは、まさにキリストの処刑と同意ではないだろうか。

 

3・3 中世以前より、この地球において女性は常に影に追いやられ、非人道的、奴隷的な扱いを受けていた事は小学生の社会の教科書にすら掲載されているほどの歴史的事実である。20世紀になり、女性が今の地位に立てたのは偏にブルマの力だと言う事を忘れてはならない。

 

3・31 旧来、特に我が国において女性とはまさに奴隷であり、農家で凶作に追いやられたらまるで商品の如く売買され、女工に勤めた者達は安月給、17時間労働、病気、封建社会、果てや豚の餌さえも食わされたのである(参考文献・女工哀史)他にも『女は座して死ね』という諺も存在し、いかに女性という者が昔は奴隷であったかをありありと証明している。

3・32 男は外で働き、女は家を守る。などという旧態依然のしきたりは、実は世界中に存在し、いかに全世界において女性が奴隷となっていなのか理解できると思う。

3・33 『嫁』という字を御覧いただきたい。女の家と書くが如く、この文字自体が差別語と言っても過言ではないのである。他にも『父兄』とう字にはどこにも女性を証明する文字がない。これは、旧態依然において女はただの道具であり、人間として認められなかったという何よりの証明である。

3・331 ブルマは家に家畜や奴隷の如く幽閉され、牛馬のように働かされ、動けぬように女性特有の『歩きにくい服』によって鎖とし、休みなど与えられる事の無い当時の絶望的な状況を打破したキリストか、釈迦か、ムハンマドのような神がかり的衣装なのである。

3・332 今まで掲載した事例は誇張のしすぎだと思われるかもしれない。しかし、世界中において当時女性に参政権はなく、選挙活動はできず、賃金は男に比べて安く、出世もできず、第一次世界大戦によって男が戦場に借り出され、労働力が激減するまでは女性が働く事そのものが禁忌とまで言われてきた事は紛いの無い事実である。

3・333 その最たる証明は、女性には遺言がない限りは遺産を相続する事が出来ない事に公明される。

 

 

 

4、現代ブルマにおける形成原理。故にブルマは正当される。

 

 

 

4・1 ブルマの機能性は、その運動性においてアメリカで進化し、東京オリンピック以降日本でもその運動性が証明された。

 

4・11 ブルマを破廉恥である。という概念を持っている貴兄等において問いたいのは、いわゆるショーツ型ブルマを推奨したのが誰か? という事である。

4・111 ブルマが日本に伝来したのは当時アメリカで体育力学を学んでいた留学生がブルマの機能性に瞠目し、日本に伝来したのが始まりである。

4・112 しかしそれはいわゆる『ちょうちんブルマ』であり、現代に存在するショーツ型とは異なったものである。

4・113 ショーツ型は、アメリカで陸上競技の際、より運動性を向上させるがべく誕生したものであり、それを日本人が輸入したのである。

4・12 ブルマをショーツ型にする事に賛同したのはPTAである。しかも、当時のPTAの面々は、戦前のお堅い中年たちで構成されていながらなお、ショーツ型を賛同したのである。

4・13 よって、ブルマを廃止させる前に、自分等の祖父母に「何故あんな形を許可したの?」と一言進言してから廃止させるのが最低限のマナーである。

 

4・2 ブルマを愛でたい者達に対する最低限の条件。

 

4・21 さて、今までがブルマという概念の詳細であるが、それもまた全て女性側の正当性を証明するものでしかなかった。故にこれからは男性側、即ちブルマを愛でる際のマナーを論考する。

4・22 まず、ブルマの魅力とは何か? という事は次章に論考するのでさておいて、また、ブルマを持った性的欲求の解消法はさらにその次に論考するのでここではブルマを絶滅させずにブルマを愛するための手段を論じたい。

4・221  最初に取り上げるべく例題ははみパンについてであるが、確かに女性のはみパンは美しい。しかしである、これがブルマ絶滅への要因において実は重要なメタファーとなっている事を重々理解してほしい。ゆえに、はみパンを愛でる際は、女性が気づくレベルでの視聴は控えるべきである。その場ではいいかもしれないが、それでは環境破壊と同じであり、この積み重ねがブルマを滅亡させてしまうのである。真にブルマを愛しているなら、はみパンの視聴は一瞬で止めなければならない。

4・222 現在においてブルマは急速に絶滅の一途を辿っている。まだかろうじて現存しているが、気を緩めてはならない。トキやヤンバルクイナ同様の絶滅危惧種である以上、最大限の注意を払わなければならない。1990年以降ブルマは絶滅の道を超高速で進んでいる。従って、撮影の際は、極めて、最大限の注意を払い、決して『それが原因で廃止』とう事態に陥らせてはならないのである。

4・223 気をつけるべくは、現代の娘と70年代、80年代の娘とは物事の観点が違うのである。従って80年代のように撮影の申し出をすれば快く許可してくれる。・・・なんて事態は絶対に期待してはいけない。それは滅亡への直行ルートになりかねないのである。

4・224 その場が私的、職業的な場であるのなら問題はないのだが、学校内といった公的機関に、彼女としてではなく、あくまでの1ブルマ娘として視聴するのであれば、絶対に気づかれてはいけない。また、気づかれたとしても、即座に言い訳できる話術、あるいは迫力を備えてなければならない。さもなくば、ブルマは絶滅してしまう。

4・2241 以上の事から、ブルマを実物で、学校で、本物を視聴する場合は、『短期間』で、『発見されず』に『こっそりと』心ゆくまで堪能するという難行を必要とするのである。

 

 

5、2世紀にわたり人類を魅了しつづけた悪魔のような衣装『ブルマ』

 

 

 

5・1 ブルマの魅力・悪魔編

 

5・11 我々がどうして絶滅に追いやるほどにブルマを乱獲してしまったのだろうか? それは、ブルマには一種の悪魔が宿っているからと推測できる。

5・111 まず、色彩である。最近でこそ赤、青、緑、白、茶、黄などまるで空手の帯の如くカラフルになっているが、濃紺、あるいは黒であるこの色彩にこそ真の悪魔が潜んでいると推測する。

5・112 まず、この『濃紺』『黒』という色彩には一体何が宿っていると言うのか? そう言えばメイドさんも『黒』か『濃紺』が主流であるし、セーラー服も『濃紺』か『白』である。やはり『濃紺』という概念には凄まじい悪魔がいるということになる。

5・113 『紺』の色言葉は『聡明』である。ならばメイドさん、学生は『聡明』なのであろうか? ブルマは今まで提示した命題を持ってすれば、なるほど『聡明』である。女性の地位を向上させ、発展させたその聡明さは瞠目に値する。数千年に渡り女性は虐げられてきたのをたった一枚の布が救済したと言う事実は聡明意外の何者でもない。また、メイドさんもまた聡明でなければ勤まらない難しい職業である。

5・114 さて、学生が聡明かどうかはわからないが、学生の理念は『社会を担う者達の育成』であるから、その理念にのっとるのなら理想の学生は『聡明』と言えるだろう。なるほど、人間というものは、『賢い者』に心理的安堵をするという事が証明された。

5・115 そういえば社会でも学校でも日常でも、人から好かれるのは『聡明な人物』である。ならば、ブルマは濃紺でこそ、その『聡明さ』を最大限に発揮し、悪魔を呼び覚まし、真の欲求を煮沸させると言う事である。

5・12 次に下半身について考察したい。極端な話になってしまうが、果たしてブルマにニーソックスやブーツが似合うであろうか?

5・121 たしかにそれは個人の趣味趣向である。しかしせっかく濃紺を用い『聡明』を醸し出したと言うのに何かぶち壊してしまっているような気がしないだろうか?

5・122 分かりやすく言うのなら、桂離宮の中をベルサイユ調にするようなもので、個体としては芸術でも、複合することでお呼びでなくなってしまう気がする。

5・123 しかるにメイドさんにはニーソックスが良く似合う。ならば同じ『聡明』であるのなら、ブルマでも似合うのではないだろうか?

5・124 しかし恐るべき事態を理解した。ブルマの魅力とは何か? という根源的な理屈である。そう、ブルマ最大の興奮は下半身の露出にあったのだ。

5・125 ブルマの絶滅に関して同じ理由であり、ハーフパンツがあれほど人気がなく、ブルマに爆発的な人気があるのは一重にこの下半身、および太腿の露出である。・・・私情になるが、それ以前にはみパンは下でさえなければ明らかにハーパンの方が多い気がするのは何故だろう・・・。

5・126 ゆえにニーソックスのような体系を利用する事でブルマによってせっかく露出されている下半身が隠れてしまうのだ。これこそが、ブルマとニーソックスの組み合わせが禁忌の理由であった。

5・127 よく考えればブルマにはポロリはあってもチラリはないのだからニーソックスの必要性がない。

5・128 ではブルマにはどんな靴下、および靴が似合うであろうか? ストッキングは論外としてまず色であるが、何色が良いだろうか。やはり清楚の象徴、白であろうか。清楚にして聡明、ある意味では理想的と言える。

5・129 ブルマで長時間走ると太腿が擦れてとても痛い思いをするという欠点があるが、やはり絶滅の一因にそれも入っているに違いない。しかしそれでも絶滅して欲しくは無い。

5・1210 しかし色はともかくとして靴下や靴の形状は完全な個人の趣味趣向となるので、これ以上の詮索は止めたほうが良いのかもしれない。著者個人の趣味で言うのなら三折りよりハイソの方がよいと思うがこれは論理的ではない。

5・13 次に上半身である。つまり、体操服の形状である。ブルマの歴史的には私服こそ伝統なのであるが、21世紀の現在そんな非現実的な論理は非科学的、非実現的である。よって東京オリンピック以降より定着したブルマ=体操服の形式にのっとって考察したい。

5・131 まず襟のから考察しよう。体操服は『丸襟』『Tシャツ』『襟付き』の3種類に分かれている。これもまた個人の趣味趣向が強いが、しかしである。基本的に楕円状のブルマに大して鋭角な襟付きが似合うかどうかという点である。

5・132 グラビア、AV、漫画、エロゲー、CG、盗撮問わずブルマを参考にした所、Tシャツは学校指定、すなわち実社会が殆どであり、他は全て丸襟か鋭角な襟付きの2種類しか存在しなかった。

5・133 そこでスポーツ漫画では圧倒的に襟付きが多かったのである。特にバレーボールは7割以上が襟付き。しかし鋭角は何を連想するであろうか?

5・134 現時点でブルマのテーマが『聡明にして清楚』という法則が出来上がっている。鋭角から聡明と清楚を連想しなければならないのだが、これは心理上とても難しい。

5・135 日本語にも『角を取る』とか『丸くなる』とか存在するように、少なくとも日本人にとって鋭角とは『攻撃的』な概念と連想してしまうのだ。

5・136 よってスポーツを目的とするならこれほど適したものもないだろうが、あくまでもブルマの理想は『聡明にして清楚』であり、攻撃的なイメージは彷彿しえない。

5・137 即ち、心理上ブルマは丸襟こそがもっともブルマを昇華させるものであると言う事が証明されたのである。

5・138 また、体操服の色であるが、当然清楚さを醸し出す為に白でなくてはならない。しかし、スポーツ等における攻撃性が必要ならば色彩を変えてもよいだろう。

5・139 では、丸襟にも白でよいのだろうか? この事態ではブルマと体操服、靴下の割合から考えても圧倒的に白一色である。比較上のバランスの面を考えても襟は色をつけ、バランスを統一した方がよいと思う。

5・1310 以上ブルマに関する衣装であったが、明らかに主観が強い。また、これは『旧態依然』のブルマであり、未来を担う『21世紀のブルマ』とはかけ離れすぎてしまっている。ブルマの開拓を担う以上第五命題そのものは未来でなければならない。しかるに今まで提示したブルマの装飾は全て『古代式』である。この発展を阻害させる古代様式こそがブルマに潜む悪魔の正体と言えるのかもしれない。

 

5・2 ブルマの魅力・天使編

 

5・21 故にこれからはブルマに内包すべき未来を、開拓を信ずる。

5・211 ブルマは運動する上での効果的な効能と心理的効果をもたらした活動装飾の究極形態である。

5・212 女性は、ブルマを穿く際に男性の視線を気にすることが重要になる。

5・213 重要なのは、そこで心理的圧迫を感受し、ストレスとなる場合絶滅の要因となるので、ブルマを穿くという行為に対し食い込み、はみパンなどの男性の視線に関する要素を可能な限り排除すべきである。

5・2131 そこまで心理的に気を配る要素があるのならブルマの必要性が無くなってしまう。あくまでも装飾様式とは言え、ハーフパンツ、スパッツ等の代用品が存在する以上そちらの方が気を使わないで住むからである。

5・2132 しかしならば問題なのは男性側であり、ブルマの未来のためにも、男性が見ない場所、あるいは環境であるのならブルマを穿いてほしい。つまり、ブルマを隠してしまう事がブルマ存続最後の手段になる。

5・2133 ブルマは男性のためにあるのではない。あくまで女性のためにあるのだからわざわざ男性に見せる必要は無い。だからせめて、隠れてでも、見せなくても、よいからブルマは穿いて欲しい。

5・22 ブルマさえ絶滅しなければ、たとえ公の場で男性の目に止まらなくてもそれで良い。そもそもそんな必要がないのだから。

5・23 言うなれば、ブルマは女性を支えた初代平等様式であり、世界に大いなる飛躍と発展を告げた衣装として老年期に入ったのである。しかるに、公の場に出なくとも良いので、現実社会からブルマの絶滅を阻止するために、女性の、女性による、女性のためのブルマ文化を建設しなければならない。

5・24 1960年当初からすでに体育教師のセクハラによって健全なる女学生たちが屈辱を味わってきたと言う歴史を知った。故に憎むべきはブルマ鑑賞のマナーを欠片も理解していないで当時の『公害』と同じ理論でブルマを汚し、汚し、汚し尽くした、腐った体育教師もまた、重大な悪魔なのである。

5・25 以上のことから、ブルマ絶滅は『ブルセラ』『体育教師』の2大巨頭が最大の問題であるとした。健全なブルマ文化を育むためには一刻も早くこの2つの改善が必要である。

 

 

 

6、ブルマの正しい汚し方。

 

 

 

6・1 今まで男性の邪悪な思想によってブルマは汚されつづけた。しかし、あまりにもブルマは魅力的過ぎるが故にこの欲求を消す事は生物学的に不可能である。そこで、現在獣と化している男性を紳士とするべく正当なるブルマの陵辱方法を考察する事で、ブルマ絶滅を何としても食い止めるものである。

 

6・11 ブルマを脱がすか、脱がさざるかという最初にして最大の命題である。第五命題では掲載しなかったが、体操服にブルマを隠すか否かという点もまた、ブルマ誕生から現代まで遂には解答がでなかったフェルマーの最終定理並の超命題。従って、この命題をこれより『ブルマーの最終定理』と命名する。

6・111 これより、1項は『ブルマーの最終定理』を考察する。問題は、『露出するか否か』これの二者択一こそが単純にして難題といわれた最終定理そのままなのである。体操服にしても、ブルマそのままにしても、結局はこの二者択一に変わりはない。

6・112 この地球上のあらゆる命題の中で、2世紀にわたり人々を悩まし、かつ解答には至らず、最後には独自の主観さえも困惑と焦燥の渦に埋もれて崩壊してしまうのはブルマーの最終定理だけであろう事は想像に難くない。

6・113 何故なら、フェルマーの最終定理ですら135年で解けたのだから。この人類史上最大の命題はおそらくあと50年は解答されることはないだろう。何故なら、この二者択一に要する黄金比が共に異種でありながら相対係数が1であるからである。故に格差がなく、半永久的に相反してしまうのだ。

6・114 従って、ここでどちらが良いとは明記しない。これを解くには膨大な計算と高度な心理学的知識、詳細なブルマ民俗学、さらには広大なるブルマ愛が必要だからである。

6・115 これは即ち、私にはあまりにも難題すぎるが故に解答には至らなかった敗北宣言に他ならない。この超難題を解くにあたり、心理学辞典、ブルマの歴史、溢れんばかりのブルマ愛、多数のブルマーの最終定理に対する意見、さらには衣服のデザインに対するバランスに至るまで詳細な要素を取り揃え、計算を行ったが、それでも解く事は出来なかった。

6・116 統計学においてもこの命題を正確な分量で測ることは出来ず、また、ブルマーの最終定理に対する二者択一は全て個人の主観と、日本民族の民族性に基づいた『長いものには巻かれる』という観念が混入されており、少数意見の尊重という民主主義的解釈もまた、後者の原因のせいで判別が不可能なのが現状なのである。

6・117 しかしこれをただ単に多数決で決めてよいものだろうか? 少なくとも私はそうは思わない。多数決による決議ならば、衣服を入れる、また、ブルマは脱がさないが多いのだが、だからと言ってこれで決めてしまうのは早計というものだ。

6・118 ブルマは平等の象徴である以上、民主主義的に解釈しなければならない。民主主義とは多数決による決議では断じてなく、論議に論議を重ね、満場一致を目的としたものである。

6・119 よって永久に解答がでない。従ってこのブルマーの最終定理の解答は読者に委ねる事にする。この解答は『満場一致』をもって正当なる解答とする。それは数学の命題同様、いかに難問と言えどその審査が満場一致で解答した公式を認めない限り正当しないからである。分かりやすく言うのなら、『1+1=2』という公式は、数学の発祥の際、満場一致によって可決したからこそ正当な計算であると認知されたことに起因するのである。

6・1110 ではブルマーの最終定理を解くにあたり、私が要素を提供する。これは、考えに考え、挫折に至るまでに到達した私の限界点を解答としたものである。

       体操服を入れる場合はブルマを伸ばさない。体操服を出す場合はその限りではない

『理想としては、体操服入れた際、少し垂らす事でブルマのゴムが隠れる事が望ましい』

ブルマを脱がさない。ブルマを脱がすのであれば絶対に半脱ぎでなければならない。もし、ブルマを脱がしてしまったのならそこにブルマの魅力はなく、ハーパンでも代用が可能となってしまうからである

『故にブルマにしか出来ない事という条件を捜索し、ブルマは脱がさない事で初めてブルマにしかできない、ブルマの特別性を誇示することが出来る』

と私なりの結論を出した。しかしこれは到達と言えるかどうかは不明であり、おそらく満場一致は得られない。故にこの私の結論を参考に、真の解答を強く望む。

 6・12 ブルマにしかできないという特別的な装飾であるが故に可能とする技法。これは、憎むべきハーフパンツに対してブルマがどれほど無限の可能性を秘めているのか考察するものである。

 6・121 まずはマニアックに『ふたなり』から考察してみたいと思う。言うまでもなく、ハーフパンツではふたなりの性質が完全に隠れてしまうので何の価値もなくなってしまう。ふたなり娘がふたなりを隠すための涙ぐましい努力と、それを崩壊させるアクシデントの相反的なメタファーによって発生しうるのはブルマしか、ありえないのである。ただし、これはスパッツでも代用が可能となってしまうので十分な注意が必要である。

 6・122 次にバイブ、ローター等とこれまたマニアックになってしまうが、やはりこれもハーフパンツではいけない。どちらかというとこれは体操服という形式にはあまり芸術性を見出せないという観点もあり、十分な考察が必要である。

 6・123 次に、ブルマを脱がした場合の『その後』だからこそ出来る事がある。それは、汚れたブルマを穿かせて授業を受けさせる事だ。

 6・124 ブルマは食い込むことでさらなる理想郷へと変貌する。すなわちハーフパンツには絶対に不可能な神の領域に侵犯できるのである。

 6・125 ブルマによる擦股はある意味究極である。しかし、願わくば膣内に挿入するのではなくブルマごと押し込むのもまた、芸術ではなかろうか。

 6・126 ブルマによるスパンキングは脱がしても実はメリットが無い。スカートのように上にはだける美学があるわけではなく、液をたらす事を目的としているわけでもないので、是非とも穿いた状態で叩いてもらいたいものだ。

 6・127 カテーテルの挿入に関してもブルマは脱がさないで挿入するのが最低限のマナーというものだ。

 6・128 他にもブルマだからこそ可能とする変態的陵辱行為は多々あるだろうが、きりがなくなってしまうので中途では有るが、ここできらせていただく。

 

6・2 重要なのはブルマを、率いてはブルマ娘を愛するという事である。

 

6・3 人類が、ショーツ型ブルマにあれほどまでに執着するのは、ブルマが本当のショーツとオムツの中間に位置すると言う絶妙極まる神がかり的な構造を要しているからである。

 

6・4 故に、ブルマによるおもらしはもはや聖水である。

 

6・5 しかし、あくまでもブルマは平等の象徴であり、そのブルマを汚すという事は、自分が国家大逆罪に値する最低行為であると言う事を重々承知してほしい。

 

6・51 すなわち、ブルマを汚すことはヒトラーによるユダヤ人虐殺の一因となるべくゲシュタポの一員であるという覚悟が必要である。

6・52 それは、人類の歴史的にも平等に真っ向から立ち向かう強烈な差別主義者の権化となり、悪魔となって一生を終える事と何も変わらない。

 

6・6 また、ブルマの冒涜はそれ自体がブルマ絶滅への道を踏み出すこととなるので、真にブルマを愛するのであるのなら、絶対にブルマを冒涜する行為は行ってはならないのである。

 

6・7 故に、ブルマを愛し、ブルマを守り、ブルマを救い、ブルマを考える事の出来る真のブルマの救世主となるべく者の出現が必要なのである。

 

 

 

7、もしブルマが絶滅してしまったら、沈黙せねばならない。






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