少女は自分の家が月の上にあると信じていた。
だから、地球に拉致監禁されていると信じていた。
そこで、毎日毎日月に向かってジャンプする。
でも、何年たっても月には届かない。
地球はまるで蜘蛛の糸。
幼い頃「願いは叶う」と教わって、その言葉に感動して。
今、その言葉に裏切られた。
しかし少女はあきらめない。
我が家が聳える月に帰る。
願いを持って幾星霜。
少女の願いは叶えられる事も無く、地球で獄死した。
だが、少女の死から数千年後。
人類は、月に到達した。
願いは叶った。
少女は哄笑した。
少女の魂が2人の男と共に月に到達する。
その時、ようやく少女は気付いた。
月に、我が家など無い事を。
少女は月に永遠に呪縛される。
少女が、月に呪縛されてからふと、疑問に思った。
だったら、我が家はどこにあるの?
少女はもう地球には戻れない。
早朝。
京仙寺英一はいつものように目覚めた。
英一の家は薄暗く、よく見ると電灯が一つも灯っていない。
英一は誰もいないマンションの一室にて起き上がり、日の当らない部屋を電気をもって光を灯した。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
英一は洗面所へ向かい、顔を洗う。
まだ眠気がとれないせいかひどく、だるい。
「・・・・・・なんか、だるいな」
英一はふらふらと覚束ない足取りで冷蔵庫へ向かい、適当な食料をとりだす。
いかの塩辛、練り梅、紫蘇昆布、岩海苔。
いわゆる朝食のお供だ。
英一はこれらの食料をテーブルに置き、ジャーからご飯を掬う。
昨日寝る前に炊いていたものだ。
基本的に朝はめんどうなので調理はせず、ありあわせのもので済ませる。
ちょうど英一が食べ終えた頃だった。
瞬間、とてつもない下痢におそわれた。
何か食い合わせが悪かったのだろうか?
英一そう思いながらはふらふらと便所に向かった。
同時刻。
屋敷家では家族揃って朝食を召し上がっていた。
こちらの朝食は鮭の切り身、お新香、目玉焼き、味噌汁、ご飯だった。
微妙に重い朝食である。
和信が目玉焼きに醤油をかけていると美琴が声を掛けてきた。
「そういえば、今日も出かけるの?」
「ヒマだしね」
和信は目玉焼きをかっこみながら答える。
そのせいか、少しご飯粒がこぼれた。
それを見た彩音がやさしく言った。
「和信さん、お行儀悪いですよ」
「あ、はい。すみません」
和信は適当にそう言った。
基本的に彩音はやさしい物言いの時は逆鱗に触れるような言動さえ、しなければ怒る事も無く、極めてぞんざいに扱っても問題ない。
事実、和信は口では謝罪しながらも態度、行動は一向に変える様子もなく下品にご飯をがつがつとかっこんでいる。
彩音はそれを見ても怒る様子はない。
彩音は行動ではなく、態度を求める女であった。
和信が屋敷から出ると少しだけ冷たい風が頬を凪いだ。
空は高空に聳え、青紫色の大いなる世界が天として、地を丘陵状に埋め尽くしていた。
天は地を、地は天を、共に相反し、決して交わらない。
常人は既知外と相反し、交わらないように。
和信は街の一角で変なのに捕まった。
「もしもし」
それは変な女と変な男の2人組だった。
2人とも何故か学ランを着ている。
「・・・・・・・・・僕?」
和信はあまりの事につい、固まってしまった。
しかし2人組みは気にする様子もなく大声で捲し立てた。
「そうです。貴方です。私達は来たるべき最終審判にそなえ」
「・・・・・・」
和信は無言で通り過ぎようとする。
「ああ! 無言で行こうとしないで下さいよ」
しかし変な女ががっしと和信の腕を掴み放さない。
「いや、僕宗教はちょっと・・・」
和信が極力弱々しく言うと変な2人組は逆に力強く捲し立てた。
「何を言うのですか!! 私達の母なるペトロトドキ神様の恩恵を受けておいてその恩を仇で返すおつもりですか!?」
和信には何を言っているのかさっぱりわからない。
純あたりなら「何トチ狂った事ほざいてんだこの真性の既知外。邪魔だからこの世から消えてなくなれ、この精神障害者めが」とでもいいそうなくらい和信には理解できない人種であった。
「いや・・・だから・・・」
「世界は全て母なるペトロドトキ神様によってもたらされているのです!! 貴方が息を吸えるのも、今日という日があるのも、借金にまみれて自殺してしまうのも全て、母なるペトロドトキ神様のおかげなのです!!」
「あのね・・・人の話を・・・」
おろらく純なら「大多数の人間を弄ぶ悪魔を崇めてる自体貴様らは狂っているのよ。平等こそが無慈悲である事を学べ、この糞野郎。もっとも麻薬中毒みたいな錯乱状態の貴方達には理解できない事か、ごめんなさいね」とでも言うだろう。しかし和信はそんな非人道的なことは言わない。
だからこそこの変人は図に乗った。
「私達は崇高なペトロドトキ人種なのです! 私達はペトロドトキパワーを駆使し、来たるべき最終審判(ジュイゾ)に備え・・・」
和信ははあ、とため息をついた。
(純ばりの毒舌で黙らしてやろうか?)
和信の心の中に強い黒い光が生まれた。
和信は思考する。
純なら何と言うだろうか。純は本質的には優しいためか、それがどんなにくだらない話でも真剣に聞いてくれる。だからこそあれほど的確に毒を吐けるのだ。
かつて純はどこから来たのか浮浪者が純にむかって愚痴をこぼした事があったが、純は一応その浮浪者の愚痴を聞いた後で猛毒を吐いた。
他にも小学校時代に宇宙人にさらわれインプラントされたと公言した馬鹿がいたが純だけは決して無視することなくちゃんとその馬鹿の話を聞いた後で馬鹿にした。
おそらく純ならこういう手合いは「信仰は貴様等だけの世界で行え、この虫けらが。他人を侵食する馬鹿が横行しているから信仰が否定されるのがわからないの? この破滅症。なにが最終審判だ、貴様等の宗教はキリスト教のパクリか。オリジナリティのない教祖だな。そんな馬鹿教祖に師事するお前等は大馬鹿者だ、くたばれ人類のゴキブリが」とでも言うのだろうか。
しかし真剣に考えてそんな事言える訳が無い。
和信があれこれ考えていると変人2人組が怪訝そうな顔で詰め寄ってきた。
「どうしました同志よ」
とうとう勝手に同志扱いされてしまった。
さすがに温厚な和信も腹を立ててきている。
純の毒舌のおかげで人間としてかなり成長したと自負していたがさすがに変人の仲間入りはごめんだった。
「いいかげんにしてくれませんか」
「何をだね?」
「僕は、あんたたちの仲間になったつもりはないんですよ!」
和信はそう言って変な女の腕を振り解き、去っていこうとする。
「どうしました? 同志よ」
「同志よ、どうしたというのです?」
和信の怒りのゲージはぐんぐん上昇する。
まさに、うなぎのぼりである。
「同志って呼ぶな! 僕には屋敷和信って名前があるんだ!!」
その言葉を聞いた二人は驚愕のまなざしを向けてきた。
まるで鳩が豆鉄砲でも食わされたかのように。
その二人の驚愕の表情に和信は幾許かの困惑を抱いた。
すると変な男がずいっと一歩詰め寄ってきた。
その表情は今までの温和な表情でも豆鉄砲でもなく明確な敵意を持った憎悪の表情である。
「あなたは悪魔だったのですね」
和信は絶句した。
手のひらを返したその発言よりも名を名乗った直後に悪魔扱いされたことにより。
「許せませんね、悪魔は」
「悪魔は死ぬべきです」
「な!!」
和信はその発言に確かに殺意を感じ取った。
「悪魔よ、我等偉大なるペトロドトキ人種の『力』を持って消えるがいい」
その時漸く和信は理解できた。
変な男が天に向かって右手を翳す。
空は青い綺麗な空しかない。
しかし蒼い虚空から確かに木槌が出現した。
木槌はそのまま変な男の翳した手に収まる。
「安心しなさい悪魔よ、ここは公衆の面前。殺しはしませんよ」
和信はその奇跡に常人とは違う思考を張り巡らせた。
そしてしばらくして「なるほど」と頷いた。
「あんた異能か」
その言葉に二人は反応する。
「異能用語を使用するとは間違いなく悪魔の一族屋敷家」
魔女狩りと魔女の関係。
「もうこの街では活動できませんね」
「理さん、次は何処へ行きましょうか?」
「そうですね。ま、母なるペトロドトキ神様に委ねましょう」
そういって理と呼ばれた変な男は木槌を振るった。
ここは公衆の面前だというのに。
和信は何をするでもなくその場に膠着して動かない。
(大怪我は必至だろうな・・・)
そう思ってとりあえず無様とは思ったが両手で頭をかばった。
それを目撃した女がいた。
年齢は美琴と同じくらいだろうか。
女は木槌で撲殺されるという凄惨なシーンを目撃した。
いや、少なくとも女にはそう見えた。
女は思い込みが激しかった。
しかも女はおせっかいにもおもむろにその現場に近づく。
まだ木槌は振り下ろされていない。
女が現場に到達するちょうどその頃木槌は振り下ろされた。
木槌は茶色い悪魔となって青年の頭上目掛けて襲いかかる。
そういえば昔、電車でトンカチ振り下ろして殺人未遂になった奴がいたな。
女はそう思いながら猛然と猛り狂う木槌に触れた。
触っただけだ。
すると木槌はバラバラになった。
その信じられない光景に誰もが唖然となった。
女は言った。
「そんな立て付けの悪いトンカチで何をするの?」
その言葉で大衆は洗脳された。
それを確認した女は悠々と去っていった。
しかし理と和信と変な女は硬直していた。
特に理は1万mの高さからパラシュートも使わず落下してなお、無傷で生還した人間を目の前で目撃したかのような驚愕の表情を浮かべていた。
何故なら、この木槌は立て付けが悪くなんてなかったのだから。
太陽が空に最も高く輝く頃。
空が光を浴びて大地を照らす昼の盛り。
そんな輝かしい昼の中、山中に聳え立つ豪奢な廃墟にて暗影が1人凄然と蠢く蜘蛛を眺めていた。
蜘蛛は右往左往廃墟の中を所狭しと跋扈する。
暗影はその蜘蛛を幾分か眺めた後、下山した。
「そろそろ昼飯といくか」
暗影はレインコートのチャックをしめ顔以外は全身黒づくめとなり傘をさした。
空には太陽が燦然と輝き雨はおろか雲ひとつ見当たらない。
暗影は用心深かった。
「今日はあんみつ炒めにするかな」
周囲の目など気にもとめず跋扈闊歩に向かった。
水村純は口汚い。
「どけよクソガキ。その薄汚い顔をとっととどけて道を通せ、この害虫」
純は中学生の集団にそう言って道を譲らせようとしていた。
場所は純の家への近道で路地を縫うような道にある。
したがって4、5人のガキが屯していると非常に邪魔になる。
だから堂々と罵倒し、道を譲らせようとした。
「あぁ?」
しかし赤の他人にいきなり罵詈雑言を叩かれればまだ精神が完全に確立されていない中坊などすぐに立腹する。
案の定中坊共は憤怒の表情を隠す事も無く立ち上がった。
純は舐めるような目で中坊共を見やる。
(こいつら多分手を出すな)
純は極めて冷静に詰め寄ってくる中坊共を分析していた。
「どうするこの女?」
「犯っちまうか」
純は目を細め5人のガキ共を分析する。
(仕方ないな、久しぶりに・・・暴力を超えようか)
「何笑ってんだてめえ」
純はうっすらと冷笑を浮かべていた。
和信は呆然と街をぶらついていた。
あの既知外の能力には驚いた。
虚空から物質を具現した。
これは異能の中でもさぞ上位に違いない。
帰ったらさっそく申請しよう。
しかしそれ以上に驚いたのは突如近づいてきた少女が既知外が具現した木槌をばらばらにしたことだ。
この街は異能者の集団か?
おそらくその筆頭が七条家であったとしても多すぎる。
IEEOの公布した異能白書における異能の統計はわずか27万人。
全世界63億の中の27万人である。
約23万3000人に1人の割合である。
IEEOの調査によれば日本における異能など5000人にも満たない。
たとえ発見されてないとしても7000〜9000人が限界だろう。
基本的に異能は歴史の浅い国家や近代主義国家には少ない。
特にその両面を兼ね揃えたアメリカ辺りでは異能といったら魔女かエスパー程度である。
しかも世界における魔女の絶対数は魔女狩りによって最盛期の2%以下にまで減少しており今このご時世に魔法なんてものを使用している人間がいたら晒し者確定である。
魔女はフォアグラのようなもので極上の能力には違いないが長きに渡る迫害によって、それによる研究によりほぼ能力が解明され尽くしてしまっている。
フォアグラ心理とIEEOが定義している法則。
それはフォアグラの料理法が研究され尽くされ新たな料理法の発明が困難であることからそう命名された。
したがって現代において魔法など時代遅れもいいとこでアンティーク的な能力と称されている。
しかも下手に能力が高い分、IEEOに見つかったら問答無用で駆除される。
そのため21世紀のこの世において魔法を得ようとする馬鹿はまずいない。
魔法を得る方法は1つ。悪魔と契約する事。
当然であるが昔ならいざしらず食料も医療も基本的には困らないこのご時世悪魔と契約する奴などまずいない。
それ以前に悪魔と出会う事自体、絶対数が激減しきった現代においては極めて稀有である。
悪魔と契約しない限りは魔法とは定義されず、どれだけ純度が高い魔力を発明してもただの模倣品としか扱われない。
神の奇跡を超えた奇跡を発生させる異能がいたとしてもそれが神の奇跡をもじって使用される限り神の奇跡たり得ないのと同じ理屈である。
さて、そんな事を和信が考えていると路地の一角にてある光景を目撃した。
5人の中学生が放心した表情でふらふらと歩いている。
その表情はまるでうつ病患者のようであり、今まさにこの場で自殺するんじゃないかと懸念してしまうほど生気を失った表情を醸しだしていた。
一体何事かと和信が中学生の方へ歩み寄るとそこに見知った人物がいた事に気付いた。
水村純である。
純は恍惚とした表情でその場からぴくりとも動かない。
すごく嫌な予感がした。
和信は小走りで純のもとへ歩み寄る。
「あ、和信」
和信の予感は確信へと変わっていった。
「どうしたの?血相変えて」
和信はその口調に理解した。
(こいつ、切れやがった)
和信は純の横に束ねたポニーテールにそっと触れる。
実験してみた。
普段の純であるならば何かしらの毒を吐くだろう。
しかし純は何も言わず和信をまるで黴菌でもみるような目で見据えるだけだった。
確信は理解へと移った。
和信はゆっくりと訊ねた。
「純、君あの中学生に何言った?」
純は冷たい笑みを浮かべて言った。
「回りくどく『死んで』って言ったの。ただ、それだけ」
「お前・・・」
「知ってる和信? 人間はね、自分の頭のキャパシティを超えるか超えないかくらいのレベルの理論を述べると、簡単に洗脳できるのよ。しかも同じ言葉を繰り返したり声のトーンを少しずつ上げていくと相手は理解を示していく。ヒトラーはこの弁論術で大衆を支配した。あたしはそれを応用して言葉で相手の人生を完膚無きまでに破壊しただけよ。そうなったらもう、毒はいらない。伝えたい事を伝えれば人は、簡単に信じてくれる。特にあたしはヒトラーや美空ひばりと同様に人を魅せる声をもっているからね」
純は恍惚とした表情で説明をする。
陶酔しきっていた。
和信はつくづく理解した。
言葉には力はあることを。
だからこそ、その力を悪用する純が許せなかった。
人の人生を軽々しくめちゃくちゃにする純がどうしても許せなかった。
「純・・・昔僕は君に言ってはいけない言葉を言うなって言わなかったかい?」
ある種最終警告。
純は和信の言葉に含みを感じ取った。
純は人並みはずれて口が達者な分相手の言葉を理解する術にも長けていた。
ただ、鈍感であるが。
純の頭は今高速で思考する。
和信は温厚な分、切れるとまず真っ先に手が出る。
そういうところは親譲りなのだろう。
おそらく温厚な父重慶の血と暴君な母彩音の血が混ざっているためだろう。
昔一度だけ和信に殴られた事がある。
歯が欠ける程の一撃を何の躊躇いも無く放った時の和信の表情はおそらく一生忘れまい。
泣きべそかいているのにまるで悪魔のような凄惨な表情。
少なくとも次の発言の如何によっては再びあの一撃を見舞う羽目になるかもしれない。
さすがにそれは御免こうむる。
したがって純は不本意ではあるが和信に向かって頭を下げた。
「ごめんなさい。軽々しく禁忌に触れてしまって」
下げた頭で和信には見る事はできないが今の純の表情は苦虫を噛み潰したような表情をしている。
和信はしかし不機嫌な顔を隠していない。
「純・・・・・・もし、あの中学生が自殺してしまったら、どうする?」
考えられない事ではない。
未成年者間において最も自殺率が高いのが中学生なのだ。
中には1週間シカトされただけや、パシリに使われただけで自殺する猛者が実在するくらいである。
ましてや純の本気になった時の口調で『死んで』などと言われれば和信でさえ、自我を保てるか非常に危うい。
特に精神が中途半端に脆く、初対面で、心の準備もできていない人間が言われるのであるのなら精神崩壊を通り越して自殺してしまいかねない。
今ごろふらふらと車に飛び込んでいるのではなかろうかという不安さえよぎる。
「自殺幇助に・・・なるよね」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
和信の顔がいっそう不機嫌になる。
純はちらりと和信の拳を見る。
震えていた。
純はがばっと身を起こし必死に捲し立てる。
「ご、ごめんなさい。もっと後先考えるべきだったよね。相手はまだ子供だもんね」
和信の眼が細くなる。
「どうしてその子供相手に熱くなった?」
「べ、別に熱くなったわけじゃないよ。ただほら、相手5人でしょ? それにガキだからどんな罵詈雑言を述べたってキレるだけだから、犯られちゃ困るなーって。だからほら、一撃で中坊共を拡散させるために・・・その、ちょっとキツめの言葉を浴びせて心神を喪失させてやろうかな〜って。別に殺すつもりはないのよ。いや、確かに精神を破壊しようとは思ったけどね。ああ、もう何言ってんだか。と、とにかく」
和信はひたすら弁解する純に失望したかはあ、とため息をついて握っていた拳を解いた。
それを見た純は安全圏内に入ったと思い、一瞬不覚にも邪悪な笑みを浮かべてしまった。
ちなみにくどいようだが純は鈍感である。
和信は純に向かって平手で頬をぶった。
純は放心する。
「純、もう言わない。毒はやめろとは言わないけど本気にはなるな。絶対に本気になるな。これを約束できるか? できないなら絶交だ」
純は何様のつもりだてめえ。とも思ったが言ったら何されるかわからないので言わなかった。
「わ、わかった。もう言わない」
ようやく和信は表情を和らげた。
それを確認した純は早速毒を吐いた。
「・・・ったくそういう和信もキレるなよ、この責任転嫁の暴君が」
和信はその言葉には怒ることもなく優しく言った。
「そうそう、それでいいんだ。ぶってごめんね、純」
夕方。
太陽が赤く、青く、紫色に焼ける広遠なる空。
和信は自宅に帰宅していた。
和信は自分の部屋で調べ物をしていた。
異能白書という本で調べ物をしていた。
本一冊の厚さは風と共に去りぬの上巻程度。
つまり、680ページ弱と思っていただきたい。
しかし異能白書は全3巻構成になっており長年に渡る報告書が積もり積もって3冊の書物になった。
無論、現在も毎年報告書は提示されるので数年に1回のペースで改版される。
ちなみに現在よりちょうど2版前は2巻構成になっており一冊が『スカーレット』と同じページ数になっていたりした。
つまり1090ページ前後と思っていただきたい。
内容は異能や異形の歴史や種類、能力や統計といった図解付きの辞書のようなものになっている。
ぺらぺらとページをめくる和信。
虚空から物質を具現する能力。
実は意外とこの手の能力は種類が多く中々判別できなかった。
場所をアジア周辺に絞る。
それでも気が遠くなる程多い。
とりあえず日本にまで絞ってみる。
これでかなり削減された。
さらに光とか、風とか森羅万象を専門に具現する能力の類を除外する。
これで数えるほどになった。
日本に残存する物質具現能力は4つ。
『オノゴロの杖』『復活の船』『曼呪』『神001』
最後のがよくわからないがとりあえずこの4つの能力の説明を見てみる。
オノゴロの杖。
淡路島周辺に残存する能力。大陸を具現する能力。使用に必要なpo要素は850。発動に必要な条件は空中であること、真空であること、2人1組であること、神秘の宿った特別な杖を用いる事。非駆除対象。備考、杖と能力のみの残存のため使用者が皆無。天の沼矛を元に飛鳥時代に神職者が再現した模造品。
(これじゃないな)
和信が次に復活の船をめくる。
復活の船。
舶来の能力。1995年以降発見された能力。日本全国に分布。元はキリスト教かぶれの人間が独自の宗教を開宗する際『奇跡』として発明された能力。宗教名『ペトロドトキ教』。母なるペトロドトキ神を崇める一神教。本家は不明。教祖は不明。信者数は日本にしかおらずその数100余り。能力は廃棄された物質を改修、転送する能力。原理は次元転送の応用。使用に必要なpo要素は300。発動に必要な条件は次元波をコントロールできる場所。非駆除対象。備考、具現による事件、事故の発生により駆除対象になりうる。
(たぶん・・・これだな。まあ、ほかの二つも見てみるか)
和信がページをめくる。
曼呪。
関東周辺に発見された能力。箱の中に世界を作り、それを操作することで現実世界を侵食する能力。現在確保された箱は1つ。研究の結果残存する箱は2つあると推測される。世界の操作方法は運まかせ。その場によって事象が変化する。発明者は不明。使用に必要なpo要素は0。基本的に誰でもどこでも使用できる。駆除対象。備考、駆除対象は箱であり、使用者ではない。
神001。
詐欺師が発明した能力。発明者、黒五手武は転落事故により死亡。現在は弟子、武藤駿介が取得している。物質を消滅させた後、他の場所へ転送する能力。生物可。これにより詐欺をはたらく。使用に必要なpo要素は290。発動に必要な場所は次元波のコントロールが可能な場所、あるいは次元波を集積した箱の中。駆除対象。備考、貴金属類の転送や死体処理等に使用したため発見次第殺害可。
さらにその次の欄に『神002』『神003』『神004』という能力が記載されていたが何かすごく嫌な感じがしたので無視した。
特に神001のすぐ隣に掲載されている神002の能力に足とか眼とか透視とか云々が記載されていた事が不安を膨張させたのだ。
和信は白書を閉じた。
「ふうん、駆除できないのか」
そう呟きつつも和信は自前のパソコンを起動する。
ちなみに東京に在籍中に購入したノートで2年前のものなのでスペックは現代のに比べると幾分か落ちる。
基本的にIEEOの駆除申請は支局へ赴き申請する。
役所と同じと思っていただきたい。
しかし昨今では遠方よりの人のためネットによる申請が可能になった。
一応狭い日本の、中心かどうかは微妙だが関東に位置しているとはいえ、北の果てや、南の島といった所からだと費用もかかるし時間もかかるため申請するのに一泊しなければならなかったかつては、その隙に海外逃亡を許した事も1度や2度ではない。
IEEO日本支局のサイトを開く。
最初に目に飛び込んできたのは『異形、空飛ぶ犬!捕獲できたら一億!!』というでかでかと書かれた文章とその撮影された写真であった。
くどいようだが犬は人間ではないため特殊能力を有すれば異形として扱われる。
「ツチノコみたいだな」
和信はしばらくIEEOのサイトで時間を潰した。
夜。
空は漆黒となる水素の世界。
夕食を終えた和信は何気なく部屋の金庫を開けた。
そこには鉄製の無骨な十字架が横たわっている。
「コレなあ・・・使う日は来るんだろうか?」
和信は非罪架と呼ばれるこの巨大な十字架を手にとる。
かつてキリシタンを抹殺してきた兵器。
今では近代兵器(火炎放射器)と異能封じが施されており対人、対異能、対異形のマルチ兵器になっている。
ちなみに異能封じとは美琴の所有する罪人典にも多く含有されており、罪人典の場合は異能の放出する超常的な現象を受信し、唱えた呪文によって効果が作用する仕組みになっている。
この異能封じというやつは元が異能や異形を解剖したり、人体実験を繰り返した結果人類が手にした『異能科学』の結晶なのだが、現在はローザンヌ条約により異能、異形の人体実験は禁止されてしまっている。
さて、そんな物騒な十字架をまじまじと鑑賞していると、廊下からまるで鬼の闊歩のような奇妙奇天烈な怪音が響いた。
和信が何事かと襖の方を振り向くと、襖の上にかけてあった時計が夕飯の時刻を指し示している事を教えていた。
和信の表情がムンクの叫びのようになってしまった。
おそらく廊下には鬼婆と化した彩音が憤怒の表情で廊下を蹂躙していることだろう。
和信は身の危険を感じ、着の身着のままで部屋を飛び出した。
和信は自分の家が平屋であったことに心から感謝した。
ちなみに前文の表現についてだが「我が闘争」の第五章のドイツの自由の闘争の始めのくだりを朗読していただきたい。
ちょうどそこの文章が現在の和信の心理そのものであるからだ。
さて和信は靴も履かずに十字架を背負い、一心不乱に走り出した。
その様相はまるでステーションを上るキリストと如何ほどの違いがあろうか?
もっともキリストは涙を流した女が落としたハンカチを笑顔で拾ったそうだが和信にそんな余裕はない。
和信は思う。キリストはよくもこんな重い物を背負って果てしなく長い階段を上ったものだ、と。
和信なら第3ステーションあたりでぶっ倒れるのではなかろうか。
その証拠に田んぼ道にでたあたりで和信のスタミナは尽きてしまった。
「はあ、はあ、はあ」
肩で息をする和信。
足が異様に痛い。
靴を履かないで全力疾走したのだからあたりまえだが。
腕が痺れる。
こんな巨大な十字架を背負ったのだからあたりまえだが。
心臓が爆発しそうだ。
和信はそのまま道路に伏してしまった。
和信は倒れたまま空を見上げる。
春の寒い風も今の和信にはちょうどいい。
空は漆黒の中にあり、世界が蹲る。
和信が1人空の中を泳いでいると聞いた事のある声が聞こえた。
「さて、南川さん。そろそろ行きますよ」
「は、この南川由奈、全力を持って母なるペトロドトキ神様のお膝元へ向かうであります」
どこだよそれ。そんな考えがどうでもよく空を巡る。
和信がゆっくりと上半身を起こすと少し先のほうにガクランに身を包んだ男女がこちらに向かってくるのが見えた。
和信は今、確信した。今日は厄日だ。否、今日は天中殺に違いない。
当然であるが2、3分ほどで和信と変人2人組は対峙した。
「あれ? あなたは悪魔。それはキリスト教の武器ですか?」
「違いますよ理さん。悪魔がキリスト教徒のわけないじゃないですか。パチモンですよ、これ」
つくづく勝手に話を進める奴等だ。
なんか腹が立ってきた。
なんとなく母、彩音の気持ちがわかる気がした。
やっぱり親子なんだなあと思う。
キレそうだ。いや、キレる。
よし、決めた。
今のこの心理状況を、『彩音心理』と名づけよう。
和信は立ち上がった。
全身が疲弊し、足と肩に激痛が走るがそれを遥かに上回る苛立ちと怒りが和信を駆り立てた。
「どけ」
和信が最後通告のように冷たく言った。
しかし彼らにはそれが理解できなかった。
「・・・・・・宗教殺しの武器ですか・・・しかし我々は貴方達のいわば親玉「魔王」IEEOの許可を受けていますよ。したがって私達を攻撃すれば傷害罪、あるいは殺人罪に該当します」
冷たく笑う理であったが和信の表層は絶対零度であり、また内には恒星にも勝る灼熱が宿っていた。
「どけ」
「私達ペトロドトキ教の恩恵『復活の船』は非駆除対象。正義は我等にあり、ですよ」
和信は表情こそ不変だが、顔色はすでに赤く黄色している。
「つくづく人の話を聞かない奴だな。邪魔だからどけと言ってるんだ。どかないと焼き殺すぞ」
「ま、そんな物騒なもので襲われるんです。殺しても正当防衛ですよね」
「ほんっとに人の話を聞かねえのなお前」
理は例によって天に手を翳した。
すると虚空からバズーカ砲が出現した。
それに習い、由奈も天に手を翳した。
由奈がマシンガンを出現させた。
和信はその露骨に凶悪な武器に眼を疑った。
「・・・・・・どっちが物騒なんだか・・・戦争でも始める気か?」
理は邪悪な笑みを浮かべたまま意気揚揚と解説を始めた。
「ふふふ、復活の船とはかつて廃棄された物質を再生し、転送する奇跡なんですよ悪魔」
しかし和信は冷たく言い放った。
「あ、それ知ってる。さっき白書で調べたから」
理は多少不機嫌な表情を浮かべ、ぺっと唾をはいた。
しかし和信はやっとこっちの話を聞いてもらえた事に少し喜びを感じていた。
理と由奈は数歩下がり、間合いをとった。
そもそも長距離兵器である以上接近戦には向かない。
和信は確信した。
こいつらは正真正銘の馬鹿であると。
和信は考えていた。
この非罪架は火炎放射器が内蔵してある。
したがって今この場でこの二人を焼き殺す事が可能である。
しかし常識で考えてそんな真似ができるわけが無い。
なまじ出来たとしても百発百中で殺人罪で投獄されるだろう。
下手すりゃ縛り首である。
冗談じゃない。
では何もしないとどうだろう?
まず間違いなく殺されるだろう。
「・・・どうしよう」
完全に手詰まりだった。
美琴はあの広辞苑より分厚い本『罪人典』を持って和信を探していた。
いうまでもなく彩音の命令である。
「・・・まったく殺されるかと思ったじゃない」
鬼さえ腰を抜かし、失禁するに違いない形相をした彩音が突如美琴の部屋に入ってきた時はメデューサを彷彿させた。
ようするに石化しそうになったのだ。
「あ〜もう! どこぉ!?」
自転車をこぎながら住宅街を廻る美琴は痺れを切らしていた。
すると田んぼ道に出た所で美琴は我が眼を疑った。
「・・・・・・戦争?」
兄妹揃って同じ反応だった。
美琴がその世界を凝視するとその中に我が兄がいる事に気付いた。
さらによく見ると他の二人が今まさに引き金を引かんとしていたのだ。
美琴はその状況に困惑しつつも冷静に唱えた。
「不発砲台」
和信があれこれ考えていると困った事に二人が標準を合わせ、引き金に指をそえた。
まずい。
和信はそれしか考えられなかった。
あれこれ考えている前に焼き殺せばよかったのかな?
いやいやそんな真似はできない。
あれ?
和信はあれこれ自分が思考に耽っている事にようやく気付いた。
ふと眼前を見ると驚愕の表情を浮かべた理と由奈が必死に引き金を引いている光景が目に映った。
「何故!? 何故弾がでない!?」
かちかちと乾いた音だけが虚しく空に轟く。
その瞬間妙案が浮かんだ。
無論和信が、だ。
この非罪架は特殊合金で出来ている。
つまり。
和信はまるでバットを振るうが如く非罪架を振るった。
非罪架は正確に理の腕に命中し、激痛に悶えながらバズーカ砲を落とした。
理は腕を抑えながら痛みに悶え狂った。
和信はにたりと笑い、由奈を見る。
由奈はぶるぶると怯え、しかしマシンガンは放さなかった。
バックフィーバーを恐れた和信は軽く手の甲に非罪架をぶつけた。
あっさりとマシンガンを落とした。
ちなみにバックフィーバーとは狙撃手がターゲットを目前とした時、興奮や恐怖のために異常な行動を起こす心理現象。
一般的なバックフィーバーは銃の乱射や引き金が引けなくなるというもの。
「しかし・・・何で?」
和信が非罪架をかかえながら首をかしげる。
すると後ろから聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「お〜い、お兄ちゃ〜ん」
和信は振り向くとやはり美琴だった。
しかも異能、異形専用の武器、罪人典を持っている。
美琴は自転車を止める。
「はあ・・・はあ・・・まったく・・・そんな物騒なもの持ち出して」
「いや・・・その・・・」
「早く帰るよ。お母様がお怒りだから」
「帰りたくないなあ」
「でも帰らないと殺されるよ。というか連れて帰らないと私が殺されるの」
そう言って美琴は和信を引きずるように帰っていった。
ちなみに残された二人は別の街で布教を続けているという。