痛いのは嫌です。
 もっと優しくしてください。
 言いつけはちゃんと守りますから。
 素直ないい子でいますから。
 それでも、それでも私を虐待するというのなら――
 もう、殺しちゃいますよ?



           三日間のしずく


 ――雨の初日――

 冷たい雨だった。
 十一月中旬の寒空から吹き荒れる悪意のような向かい風が、学校から帰省しようとする俺の肌をこれでもかというくらい痛めつけ、それに混じって全身を打ち付ける水滴はまるで槍を彷彿させた。
 寒い。もうすぐ冬が到来する。
 ぶるる、全身が震える。ダメだ。傘は役に立たない。俺はどうせ雨に打たれるなら一刻も早く帰ろうと、傘を閉じてぐっと両手で自転車のハンドルに手をかけ、身を起こし、力強くペダルを漕いだ。
 灰色の住宅街を駆け抜け、家に辿りついた頃にはもう全身はびしょ濡れで、ブレザーからは鼻の曲がるような臭いが俺の鼻孔を汚染した。
 またYシャツと、その下にあるTシャツも雨の侵略によって肌にべったりと付着し、冷たさとぬめるような気持ち悪さがこの不快に拍車をかけていた。
 俺は大急ぎで自転車を車庫に放り込み、庭を走り、乱暴に玄関のドアを開けた。築一年。玄関からは新築の香りがブレザーの悪臭を相殺するようにふんわりと漂う。
「ただいま」
 俺がそう告げると、ぱたぱたとスリッパが廊下を鳴らす耳障りのよい音が届く――と、同時に、
「あ〜、けーちゃんおかえりぃ〜」
 身長一四〇にも満たなそうな矮躯の女の子が、腰下にまでさらりと伸びるストレートの茶髪を棚引かせながらこちらに駆けてき、問答無用にぎゅっと抱きしめてきた。
 この人は風緑春胡と言って、俺の母親にあたる人だ。一応年齢は四十路を突破しているはずなのだが――不思議なことにシワが見当たらない。異様な若作り。いや、幼作りというべきか。確か現在単身赴任中の父親の金を使って整形手術を十回以上していたと思う。日本人は整形手術をまるで悪魔の如く嫌っているイメージがありそうだが、まあ、実際にはこんなものだろう。
 ちなみにけーちゃんというのは俺の名前が風緑景至だからだが、そんなことは全くもってどうでもよく、ひたすらに抱くこの鬱陶しさに辟易しながら、小さくぽつりと言葉を零す。
「ね、姉さん……は、放してくれ。ていうか、仕事はどうした?」
 この人は俺の学校の歴史教諭のはずなのだが――何故、家にいる?
「今日? 今日は用事あったから休んだの。ま、そんなことは別にいいじゃない。同じお腹の中から生まれた者同士仲良くしようよ」
「あんたは俺の母親だろうが!」
 俺は耐えられなくなって怒号を上げた――刹那、
「あ? 今何か言ったかしらぁ?」
 母の双眸がぎらりと、怪しく光った。
 やばい。即座にそう感じた俺は、
「す、すみません、姉さん」
 そう素直に頭を下げた。ロリータじみた容姿に相応しいヘンなこだわりは、彼女から年齢を引くことを強要させた。つまり、おばさんとか、中年などはもっての他で、二十歳以上だと思わせる発現は全てNGである。
 その一つとして――母でも『姉』と呼ばなければならなかった。母とはつまり、中年の証明だからだ。永遠の十歳を気取るこの人にとってそれは耐え難い称号。
 そんな俺の従順さが嬉しいのか、母は下げた頭を優しくなでなでした。
「よしよし。いい子ねけーちゃん。さ、早くリビングへおいで。見せたいものあるから」
「見せたいもの?」
「うん、はやくぅはやくぅ」
「あ、あぁ……」
 俺は母に連れられるままリビングへと向かった。全身がびしょ濡れの制服を着替える暇さえ与えずに。
 しかし、俺はこの人に逆らうことはできないので素直にリビングの戸を開く。暖かかった。エアコンをつけていたか。
「さあ! コレをご覧あれ!」
「なんだってんだよ…………あぁ!?」
 絶句。
 ……なんだ、これ?
「あ、あぁ……」
 床に女の子が寝ていた。ソファが隣に置いてあるのに、何故か床に。
 だが、そんなことよりも俺はその女の子は容貌に目を引かれた。簡素に束ねた黒髪の横ポニテに象られた端麗な顔立ちは魔術的な美を創り上げており、体つきは巨乳でありながらもデブではなく、一見すれば華奢ともとれるほっそりとした体つきでありながらトップとアンダーに著しい隔絶が存在していた。
 美が。圧倒的な美が俺の前に顕現して――不思議と、見ているだけでとくんとくんと胸が疼くような錯覚を抱かせる。
 鼓動。膨張する鼓動。
 俺は初めて人を見て衝撃を得た。
 なるほどこれが――一目惚れというやつか。
 そんな砂糖菓子の思索にまみれ、溺れている。そんな時、
「いやあ、今日お仕事休んだのはコレ拾ってきたらなの」
 母の言葉が、なぜか冷水を帯びたように感じられた。
「コレって……ど、どうしたのさ、この娘」
「コレは今日から我が家の奴隷して朝から晩まで働いてもらうことになったから」
「はぁ!?」
 俺仰天。
「ふふ。コレはね、遠い親戚なんだけどね。なんか親死んじゃって身寄りがここしかないから貰うハメになっちゃった」
「ちょ……! 貰ったって!」
 普通『引き取った』とうべきでは?
「でもあたしはコレを子供として認めたくないっていうかー。ぶっちゃけ金食い虫でうざいんだよねー、でもほら、世間体ってあるでしょ? それにあたし教師じゃん? だからしぶしぶ転校手続きするハメになっちゃったから学校にも通わせないといけないしー。でもあたしとしてはどうしてもコレを奴隷にしたいの」
「ど、奴隷って……」
 それはもう虐待しますよと公言しているような――いや、比喩にする必要はない。大の大人が公然と告げているのだ。
 何の罪もない女の子を虐待しますよ――と。
「部屋は外の物置を開ければいいか。敷居またがせるの嫌ねえ。入る前にホースから冷水でもぶっかけて……ああ、部屋がびしょびしょになっちゃうわねん。めんどいなあ」
「ちょ、ちょっと待ってよ、かあ――」
「か、あ?」
 ぎょろりと母がねめつけた。下手なこと口走ったら殺すぞ? と言わんばかりの恐るべき睥睨だった。
「い、いえ、姉さん。待ってよ。なんで、奴隷なのさ」
「えーだって今日から無給無休で死ぬまで働いてもらうんだもん。まあ、学費は出しやるけどさ。でも大学に出す気はないわね。大学なら出さなくても世間体に傷はつかないし。ま、卒業したら奴隷らしくどっかのヒヒジジイにでも売り飛ばしましょ。あ、そのお金で海外旅行もいいわね。あたし世界一周とかしてみたかったの〜」
「……」
 俺は確信した。この女の子に惚れたからとか、そんな領域とは無関係の問題で。
 この人は、人間としてもっとも大切な部分が完全に欠落している。
 いや、そんな生易しいレベルじゃない。
 この女は――人間じゃない。
「あれ? どしたのけーちゃん。あ、この奴隷で遊びたいのね。いいわよもちろん。ただし避妊はちゃんとね。一応書類上は保護者だから堕胎させるとあたしがお金払うことになるでしょ? あたしはコレに余計な金はビタ一文払う気はないからねー。はい、ネオサンプーンループ錠。ちゃんとやる前に膣内に入れてね」
「あ、あぁ……」
 言葉がでない。俺と母とでは常識が著しく乖離してしまっている。
 ――そんな心境を表情から察したのか、嗜虐的な顔をずいっと近づけて、
「……ねえ、けーちゃん。嫌なの? このクソガキを奴隷にするのに反対なの? ねえ、お前も同じ穴のムジナのくせにそんなこと言えるの? 言える立場なの? ねえ?」
「い、いえ……姉さんの言いつけにそむくなんて……」
 できない。それはできない。
 何故なら――俺もまた、この女の子同様、親が死んで引き取られた、義理の息子だからだ。ただ、この女の子とは違い可愛がられている。何故? わかってる。
「そうよね? 貴方は大学に行っていいわよ。欲しい物は何でも買ってあげる。いずれはかわいいお嫁さんも探してあげるわ。あ、自分で恋愛してもいいけどその時はあたしが姉として採点するから気をつけて。家柄が悪かったり性根が腐ってる女は認めないんだから」
 一呼吸置いて、
「いいけーちゃん。あたしはけーちゃんが好きなのは清潔でいい子で、なによりあたしが大好きだったお兄ちゃんの息子さんだから可愛がってあげてるのよ? わかるよね?」
「あ、う、うん。わかってるよ姉さん……」
 俺はおどおどと答えた。
 と――
「ん……んん……」
 目覚めた、女の子が。
 刹那、母の双眼がぎょろりと見開く。口がにゅまっと開く。わかりやすくいえば、三日月を真横にした感じ。
「あ、目覚めたぁ」
 声が――歪んでいる。歓喜の断末魔とでも言おうか、悪魔が人間の魂を奪う瞬間って、こんな声を出して喜びを表すのかなとか、そんなことを感じさせる、悪意の声。
「ねえしずく。水村しずく」
 母が女の子に声をかけた。なるほど、水村しずくというのか。遠縁らしく知らない苗字だった。
 さて、しずくは――
「あ、あれ?」
 困惑しているようだ。ふらふらと頭を揺さぶりながら周囲を見回し、寝ぼけ眼のうっすらとした瞳が照らし出すものに、理解などという語彙は存在しない。……一体、どうやってしずくをここに連れて来たんだ? 疑問はつきない。
 母はそんなしずくを見て、彼女の眼前にうんこ座りすると、にっこりと微笑んで、
「おはよう。あたしは風緑春胡。あなたのご主人様よ。あぁ、でもあたしのことは『お嬢様』って呼ぶように。間違っても『奥様』って呼ぶなよ。呼んだら丸刈りにしてやるからな。で、この子は坊ちゃまと……あ、あたしがお嬢様なのにけーちゃんも坊ちゃまだと変ねえ。じゃ、名前でいいか。うん。しずく。あの子は景至様と呼ぶように。いい?」
「え、え……えと……」
 それでもしずくは理解してない。
 ……いや、これは理解しろという方が無理な話か。
 と――

 ぱぁん!

「…………え?」
 打った。頬を。ビンタだ。しずくの頬が赤くなる。しずくの目が呆然と見開く。しずくの声が不思議そうにこぼれる。
 母は、そんなしずくの髪の毛を乱暴にぐしゃっと鷲づかみすると、さきほどまでの笑みを消失させ、怒気をはらみ、退屈そうに、吐き出すように――
「いつまで寝ぼけてんだ糞蟲。お前は今日から風緑家の奴隷になったんだからとっとと自己紹介して家から出て行け。お前の寝床は外の物置なんだから」



 しずくはおとなしい子だった。
 逆立ちしても母に太刀打ちできるような人間ではなかった。
 困惑と焦燥が俺の体内を連環する。
 リンクされた心の情報は最終的に『不安』という概念に収斂し、帰結する。
 そして――それは事実となって発露した。
「あ、けーちゃん。今日はきのこ鍋と炊き込みご飯だよ。一緒に仲良く食べましょうね」
 夕飯時。母の言いつけで俺は台所に向かい、きのこ鍋と炊き込みご飯をテーブルに運ぼうとして……気づく。
 二人分しかないことに。
「あ、あの……しずくちゃんの分は?」
「あ? しずく? 知らないわね。ま、いつかあげる日もあるでしょ」
 なんてことを真顔で言うのだろう。さすがに俺も黙ってはいられない。
「……姉さん。い、いや! 待ってよ。しずくちゃんにもご飯をあげてよ」
 さすがにこれは酷い。立派な虐待だ。
 最初の虐待は――ネグレクトか。
 しかし母は特に気にした様子もなく、にんまりと悪魔のような笑みをたたえて、
「あら? 口答え? けーちゃんが? 信じらんないんだけど……聞き間違いよね?」
 恐い。冗談抜きで恐い。三日月が真横になったような口と、出目金のようにぎょろりと見開かれた双眸は人間のそれとは明らかに逸脱を果たしていて――とても、逆らえるような雰囲気を俺に与えない。
 でも、でも――さすがに酷いと、いくらなんでも酷すぎると思った俺は、自身の内に蓄えられたすべての勇気を総動員させて、ぐっと口を開いた。
「ううん。しずくちゃんにもご飯をあげてください」
 敬語になってしまった。あまりにも恐すぎて。
「景至様……」
 と、後ろからすがるようなしずくの声。
 不思議だ。普段なら「よし、ここでいいとこ見せて評価を上げておくか」とでも思い立ちそうなものなのに――眼前に、風緑春胡がいるだけで、そんな砂糖菓子のような思考はほんのひとさじさえも浮かばない。
「どうして? なんでご飯あげなきゃいけないの? ねえ、なんで?」
 足が震える。喉から声がでない。どきんどきんと心臓が高鳴る。体がカチカチになってきた。でも、俺は紡ぐ。
「しずくちゃんは……いえ、姉さんはしずくちゃんの保護者です」
「それが? それが何か?」
「で、ですから……しずくちゃんに健康で文化的な最低限度の生活を保障する義務があるんじゃないかなーと……その……」
 ――瞬間、
「ふっ、あは。あははは! けーちゃん! ねえそれ本気で言ってるの!? たった二日や三日ご飯抜きで何馬鹿なこと言ってるのけーちゃん! あは、あはははははは! ねえ、それひょっとしてギャグ? はははは! ありえない。ありえないよばーか!」
「……で、でも……」
「ま、五日断食させれば倒れるくらいはしそうだけどね。でも確か……ギネスでは二週間だか三週間飲まず食わずで、水分は自分の尿を飲んで補って生きてたって例もあったから、あと三日くらい何も食べさせなくても死にゃしないわよ。死なないなら別にいいんじゃない? 死なない程度にご飯をあげればさ。あははは!」
「そ、そんな……」
 後ろから聞こえるしずくの声が、限りない悲痛の色をもって俺の背中を塗りたくってゆく。
 それは勇気と、憤怒を与えた。
「み、三日って! いくらなんでもそれは……あんたそんなことして心は痛まないのか!?」
「けーちゃんこそ養っていただいてる義理のお姉さまに向かって『あんた』なんか言って心は痛まないの?」
 母は俺をぎょろりとねめつけて、それだけだった。
 だ、だめだ。この人に情を訴えても意味はない。となれば……
「……姉さん。仮に長期間断食して生きていても、栄養失調で病院送りになるよ。そうなると姉さんの財布からお金が消えるよ。かといって倒れて放置したら警察が来て姉さんの人生が滅茶苦茶になるよ。……それでもいいの?」
 俺は少しひねくれた口調で母に問うた。
 するとさすがにまずいと思ったのか、うーんとうなり顔。
「……そうね。確かに死ななくてもそれは困るわね。入院費もバカにならないし。しずくには保険かけてないし。いいわ。エサを恵んであげましょう。……しずく」
「あ、はいっ」
「しずく、そんなにご飯たべたい?」
「は、はい……食べたいです」
「そう。なら坊ちゃまに最大限の感謝をなさい。これから本来抜きになるはずだったエサにありつけるんだからね」
「あ、はい……景至様、その……ありがとうございます」
 しずくは俺に深謝を表すように、わざわざ俺の視界に映るように前にやってきて、何度も何度も頭を下げた。
「え? あ、いや……別に……」
 俺はてれてれと頭をかいた。
 喜びと照れが相乗され――たのも束の間。
「本当はウンコでも食わせてやりたいところだけど、アレは病原体がわんさかあるから変な病気にかかってもらうと困るしね。安心してしずく。ちゃんと病気にならないもん食わせてあげるから」
「は、はい……ありがとうございます」
「らら〜ら〜らら〜ら〜こと〜ばに〜できな〜い」
 母は小田和正な調子で歌いながら戸棚を開き、ボールを手に取ると――
「ほれ、持ってきたー。しずく、好きなだけお食べよ」
 そう言って、ボールの中にご飯と鍋の具をいっぺんにぶちまげた。
 それはどれだけ贔屓目に見てもねこまんまの粋を脱さない、文字通り、猫の餌。
「ね? 炊き込みご飯と野菜。別に三角コーナーから拾ってきたモンじゃないわ。安心して召し上がれ」
「あ……あ……」
「どうしたの? あたしのご飯が食べられない?」
「ね、姉さん……」
 悪魔が――悪魔が眼前にいる。
「しずくぅ。まさか同じ食卓につけるとは、思ってないよね? そこまでうぬぼれてないよね? 同じ釜の飯食わせてもらえるだけで泣いて喜ぶと思ったんだけど……しょうがないなぁ、罰として――」
「あ、あぁ……」
「ほら、しずくが喜ばないから牛乳なんかかけちゃった。あはは。まあいいか。ねこまんまみたいで。全然違う? 知らないなぁ。おい、しずく。何してるの? 食べなさい」
 声が完膚なきまでに命令形だった。
 どこまでも否定を許さない、絶対的で高圧的な、強要。
 それは虐待だった。
「う……」
 しずくは躊躇いを隠せない。おろおろとしながらボールを見下ろし、そのまま立ち尽くすのみだ。
 が、そんな躊躇を、母が許すわけもなく、
「だからぁ、こうやって――食えってんだよ!」
「ぐぶぅ!」
 いきなり母はしずくの髪の毛を掴み上げると、そのままボールに顔面を漬け込んだ。
 あまりの勢いに伏臥する形となったしずく。苦しそうにボールにうずもれるその顔。
 しかし母の力は弱まるどころか、一層強くグリグリとボールに押し付け、かき乱した。
「そう、食うんだ! お前は食うんだ! おら、うまいか!? うまいよな!? あたしが作ったご飯がまずいわけないよな!? 牛乳だって特濃だから甘くてうまいよな!? あ? うまいって声が聞こえないなぁ!?」
「あぁ! ごめんなさい! 許してください!」
 しずくの悲鳴。いや、謝罪か。
 俺は呆然と、身動きすることもできず、ただただその衝撃的な光景をぼんやりと眺めていた。
 動きたい。動かなければならない。
 でも――体は動いてはくれなかった。
 喉さえも脳みそに反逆する。
 そして、その間にしずくは母の暴力を受け続ける。
「全部食べるんだ! 食べるまでここを動くなよ!」
「むぐぅ! 許してください! む、むぐ! お嬢様やめ……!」
 悲鳴と謝罪が入り混じった苦悶が、俺の耳に痛い。
 繰り返される声。繰り返される虐待。
 永遠に続く悪夢。
「う、げほっかはっ、む、むぐ……けほ、ゆ、許し……く! た、助け……景至様」
 う……しずくが見ている。顔を上げるたび、悲壮なまなざしをじっとこちらに向けてくる。俺に――助けを求めている。
 でも、でも――
 ぎらり。母がこちらを睨んだ。来たら殺すぞと言わんばかりに。
「うまいか? うまいか? うまいって声がないなぁ!」
「お、おいしい……けほっ、で……す」
「そうか! おいしいか! あははは! こんなもんがおいしいか! じゃあ残さず食べないとねえ!」
「な……あ……ぁ」
 なんで、なんで動けないんだ?
 どうして動けないんだ?
 それは多分――恐いから。どうしようもなく、恐いから。
 理性よりも本能が俺から活動を剥奪したからだ。
 と――ようやく母がその手を止め、ゆっくりと立ち上がった。その顔は、満面の笑み。
 破顔。
「無様ねしずく。あーすっきりした。じゃ、あたしたちも食べましょ。いただきます」
「い、いただきます……」
 震える口調で、反射した。
「おら、何やってるのさ。食べるんだよ!」
「は、はい……お嬢様」
 しずくはそう言って、涙をボールにぽちゃんと落とした。
 胸に槍が刺さったような衝撃が、俺に炸裂した。
 それからも聞こえるしずくの声。
「う、うぅ……ひどい、ひどいよぅ……」
 それは――果たしてどちらに向けての非難だったのか。

「さ、しずく。とっとと後片付けと食器洗いしな。その後風呂の掃除。で、あたしの部屋の布団を出して。取り込んだ洗濯物をたたんでタンスやクローゼットにしまって、けーちゃんの明日の学校の準備と、まだまだやることは山のようにあるんだからね!」
 夕食を食べ終えた母は四つんばいで泣きながらエサを食べているしずくにそう唾棄するように言い捨て、食堂を後にした。
 その声はどこまでも悪意に満ちていて――残虐に彩られていて――
「は、はい……」
 でも、しずくは素直に立ち上がり、ボールの中身を流しに捨て、テーブルにある空の食器類をべそをかきながら運んでいった。
「しずくちゃん……そ、その……」
 俺は何を言おうとしているのか。
 頭の中身は空っぽなのに、どうして、声をかけたのか。
 ああ――本来なら、こんな懊悩に満ちた時間ではないのだろうに。和気藹々として、照れくさくて、暖かくて、蜂蜜のような空間が存在してしかるべきだろうに。
 笑顔が飛び交い、ぷんすかと腹を立て、そこに非道も残虐もありえない。
 でも、そんなのは所詮幻想。
 誰もが思う、退屈な毎日。日常。
 そんな甘い世界は、一瞬のもとに瓦解したのだ。
 俺はそんな中で、一体、何を、言えるというのか?
「あ、あの……そ、そのな」
「景至様。ごめんなさい。食器、洗わなければならないので……」
「あ、ご、ごめん。呼び止めて」
 ――と、妙案……でもないだろうが、ある程度空気を緩和させる手法が脳をよぎった。
「あ、よかったら俺も手伝――」
 だが、そんなことにはならなかった。
「ああくそっ、鞭もパドルも見当たらない! 縄跳びは物置だし……ったく。おい! しずく! 何チンタラやってんのさ! 早く洗いな!」
「あ、は、はい! お嬢様……いたぁい!」
 母は布団たたきを手に宿していた。それで、しずくの顔をぶったのだ。
 ……なんてことしやがる。
 さすがに、さすがにそれはないだろう。
「おら、早くやれ! お前の仕事はまだまだ終わんないんだからな! ほら! あ! ボールの中身すてやがったな! 殺してやろうがこのクソガキがぁ!」
「あっ、いぃうっ! いきぃっ! あく! いたい! 痛いよぉ! やめ――あぁっ!」
「黙れ糞蟲! あたしとけーちゃんの気遣いを無駄にして! ぶっ殺してやる!」
 母は布団たたきで何度も何度もしずくの顔を殴りつけた。
 そう、顔を集中的に攻撃している。顔だけを。
 何度も、何度も。しずくが手で顔をかくしても、それでも顔を。
 もう、俺は耐えられずに、
「な、なんで、なんでしずくちゃんに……そこまでするんだよ」
 そう言って、後ろから母の腕をがっしと掴みあげた。
 母は信じられないほど無表情な顔つきで、ゆっくりと首だけをこちらに向けた。
「えー? だってぇ」
「あんた……そんなことして、何の罪もない子にそんなことして、あんたの良心はカケラも痛まないのか!?」
「……」
「姉さん、俺が姉さんに逆らったことは謝る。姉さんのお陰で生きていけるのは否定しない。でも、でもさ、差別は……しないで欲しいんだ。俺もしずくちゃんと同じように家のことは何でもやるから。小遣いもいらないから。だから……姉さん。差別は、しないで」
 それは懇願だった。
 俺は今まで自分さえ傷つかなければ目の前で誰がどうなろうと知ったことじゃないと思っていた。
 ここから何万キロも離れた異国で子供が餓死する写真を見ても、ちっとも心は痛くなかった。
 なのに――目の前で、目の前で人が殴られている姿を見ると、どうしてこうも違うんだ? まったく違う、地獄として認識されるんだ?
 いじめの現場を見過ごしたことだってあるはずの、この俺が?
 頭がくらくらする。もしかして――俺がしずくに一目惚れしたからか? ただ単に、欲情を催したから、特別視しているからか?
 だとしたら、俺って、醜いな。
 ――と、そんな思索に囚われていると。
「…………差別はしないで? ふーん。そんなこと、できるわけないだろっ!」
 母がいきなり顔を守ることでがら空きになっていたしずくのわき腹に、つま先蹴りを食らわせた。
「いぐぅ……!」
 しずくはゆっくりとくずおれてゆく。
「ね、姉さん!」
「黙れけーちゃん! お前はこいつがどんな人間か知らないからそんなことほざけるんだ! こいつはな、こいつはな!」
「いぐっ! がはっ! あぐっ!」
 今度は蹴りつけた。顔面を、背中を、腹を、尻を、首を、腕を。さっきとは違う。寝転びながらも必死にイモムシの状態になっているしずくの体を、怒りにまかせるように無差別に蹴りつけた。
「こいつの父親はな、五年前にあたしのお兄ちゃんを殺したんだぞ? いや、お兄ちゃんだけじゃない。けーちゃん。あんたの母親もぶっ殺したんだぞ、こいつのクソ親父は!」
「いがぁ!」
「え……あ……?」
 ぴくり――
 心が、カチリと、引っかかる。
 そう、俺は養子だ。この人に五年前から養って貰っている。
 でも……なんで?
 それは、殺されたから。俺の両親を、親族に。いや、遠い親戚で、法事の時に顔を見たきりの、ほぼ他人に。
 理由は? 単純。ああ――殺したくなったさ。
 で、死刑判決でたな。上告? マジ? 死ねよ。
 ああ――そうかそうか。
 それって――その殺人鬼の名前って――確か――水村、簾。
 水村? 水村? ああ――そう。
「覚えてるだろ? 忘れてないだろ? そうだよ、死刑になってしかるべき鬼畜外道の殺人犯の娘なんだよこの豚はなぁ!」
「いがっ!」
「あたしの大好きなお兄ちゃんを殺したんだぞ? こいつの母親が何? 病死しました? だからなんだよ。そんなもん知るかよ。いや、知るべきだな。罪を悔いて死んだとするなら、こいつも死ぬべきじゃないのかなぁ!」
「うぐ……た、助け……」
「あ……あ――」
 視界が真っ暗になった。
 どうして? わからない。
 ただ、視界が、真っ暗になった。
 声も、遠くなってゆく。
「――あ、ぁ――」



 気づくと、俺はベッドにいた。
 あれから――どうなったんだっけ?
 確か、放置して、そのままふらふらと部屋に戻って――あれ? 風呂は……ダメだ、記憶にない。
 ただ、ひとつだけはっきりしていること。
 俺は助けられなかった。どうしても、助けられなかった。
「あぁ……!」
 嫌悪。無限の自己嫌悪。
「なんで……なんであの時俺は助けなかったんだ!」
 後悔してももはやアフターカーニバル。
 それに――情けない自己弁護ではあるが、あの状況で助けることはまず無理だった。理由は二つある。
 一つは普通に、しずくが水村簾の娘だということに、ショックがあったからだ。
 昔は死刑廃止してもいいんじゃないかな? とか、確かに国が殺人してるわけだよな。とか思っていたのだが、実際に身内が殺されてはじめてわかる。
 ああ――そうだ。五年前の九月三日。
 あいつが――水村簾が、そもそもあいつ、なにしに来たんだっけ? ああ、思い出した。末期癌だと問答無用に宣告……ドクハラってやつか? そうだ。今風に言えば――ムシャクシャしたから殺ったわけだ。
 思い出す。思い出す思い出す。
 血の臭い。高い声もでない絶え絶えの悲鳴。そして――ああ、ダメだ。思い出すな。
 わかる。実際殺されてはじめてわかる。
 死刑廃止なんてことは、絶対にしてはいけないのだと。
 殺して当然。死ぬ以外に償いは認めない。当たり前だろ? 罪なき一個の人格を永久に排除した人間に、人格を存続させる価値などどこにある?
 そして、そんな意識を頑なにもっているからこそ、しずくを止めれなかった。なんで? それは――やはり、娘だから。血族だから。母と同じように、やっぱり別には扱えなかったのだ。
 少なくとも――即座には。
 これが時間を置かれれば俺はこうして問答し、結論を出せただろうが。でも、咄嗟の判断でしずくを決断することは、無理だ。絶対に。
 俺はそこまで頭の回転が速くないし、殺された両親のことをスパっとスルーするほど非道な人間じゃないからだ。
 でも、結果としてしずくは蹴られた。まるでサッカーボールのように。
 ……どうすればよかったんだ?
 ああ、それに助けられなかったもう一つの理由もあったな。それは――
「恐かった? ああ恐かった。あの人は、恐い」
 母が、恐かったから。
 あそこで止めに入って、自分も母に殴られたり蹴られたりするのを、恐れたからだ。
 ……悪魔か、俺は?
 じゃあ、あそこでしずくを助けるべきだったか? 助けるべきだったろうな。両親への思いも、母の考えも、俺の下心も全てを放棄して、盲目的に、助けるべきだったのだ。
 でも――やっぱり恐い。
「でも……でも……」
 しずくを助けるのは偽善か? では、これから毎日こんな光景を見せつけられる生活を送って、それでも自己が大切だからと見過ごす行為は、偽善ではないと? あるいは、しずくは母同様殺人犯の娘だから、何をされても仕方ないんだと諦観するか?
 でもそれって、人としてどうよ?
 事大主義は仕方ない。長いものに巻かれるのは圧倒的に正しい。それ自体は。
 だけど――だけど――どうして、ただ無視するだけの行為が、こんなに気色悪くて、吐き気がして、胸を強烈に締めつけやがるんだ?
 胸が、どきんと鳴る。
 俺の中にある良心が、表層にある醜い防衛意識を木っ端微塵にしようとしている。
 でも、どうしろと?
 安っぽい蛮勇は、ほんの数日後の地獄をもぼやかしてしまうのか?
 でも――でも――
「いや、ダメだ。助けよう。明日は――明日からは、助けよう」
 震えていた。体がガチガチと。寒い。凍えそうだ。俺はぎゅっと毛布をくるむ。
 俺も虐待されるだろうな。確実に。
 同じようにいちゃもんつけては好き放題に殴られて、朝食も昼食も与えられず、夜は犬食いするのか。はは、滑稽だ。
 でも――構わない。
 俺はしずくが、俺を一目惚れさせたあの女が、これ以上悲惨な目に会うのを見たくない。
 刹那的で、無計画で、無謀な結論。
 いいさ。構わないさ。
 …………いいのか? 本当にいいのか? いや、心の中ではいいわけないと警鐘を鳴らしている。素直な、もっとも根幹的な領域では。
 俺は聖人じゃない。キリストでも、釈迦でもない。人が傷ついても俺は気にしないけど、俺が傷つくのは――嫌だ。
 なのに、なんで?
 そこまでに至って、ようやく気づく。
 ――ああ、そうか。
 考えちゃ、ダメなんだ。こういうことは頭を使っちゃ、打算で動いちゃダメなんだ。
 子供が車に轢かれそうになって、自分が轢かれるとわかっていながらも子供を助けるその行為に、果たしてどんな打算がある?
 思考を捨てろ。
 打算を捨てろ。
 保身なんか考えるな。
 刹那でいい。瞬間でいい。
 その間隙にのみ――俺の正義は発露されるのだから。



 ――曇りの二日目――

 何人も、奴隷にされ、又は苦役に服することはない。奴隷制度及び奴隷売買は、いかなる形においても禁止する。(世界人権宣言第四条)

 ……
 ー……
 のー……
 あのー……
「ん……」
 声。ぼんやりとした頭蓋にズルズルと粘着的な物体が流し込まれるような、声。
 朦朧の中にある俺を覚醒へと至らしめる光。
 重い。鉄塊のような瞼。ずっしりとして、文鎮を思わせる。
 しかしゆっくりと、ゆっくりと瞼を開き、瞳を世界にさらけ出し、俺は視界を得る。
 耳もそれに倣うようにはっきりとしたリアルなインフォメーションとして聞こえてくる。
 脳が、覚醒した。
 聞こえる。女の声だ。しずくの声だ。
 しずくは言った。
「あ、あの……おはようございます」
「………………………………は?」
 俺はまだ寝ぼけているようだ。
 いや――
「い、いえ……その……お嬢様が起こして来いと言いつけられたので……その……ご、ごめんなさい」
「お嬢……あ、あぁ、あの人のことか……って、何ぃ?」
 寝ぼけてはいなかった。
 俺はゆっくりと身を起こす。
「で、ですから、その……おはようございます、景至様」
 しずくは狼狽しながらもぺこりと頭を下げた。
「……あ、ああ。おはよう。えぇと……しずく……ちゃんでいいかな?」
「あ、はい。お好きなように……」
「え、えと……その」
「え? 何?」
「あ、あのですね。お嬢様が景至様のお着替えしてさしあげろって……」
「いや、いいから」
 俺はきっぱりと断った。
 いや、本音を言えばすごくやって貰いたいのだが――俺は猿にはなりたくない。
 まだまだ欲望と理性の天秤においては後者が勝つだけの心の平穏は持っている。
 が!
「で、でも……やらないと私、怒られ、いえ。殴られます」
 殴られます――その言葉に昨日のことがリフレインする。
 さりげにちゃんと言い直しているあたり、しずくは意外と人間だったんだなと認識させられる。つまり、母に対し恐怖と、明確な怒りを抱いているということだから。
 となれば断るのはむしろしずくのためにならない。
 そんな――実にもっともらしい自己弁護で天秤は欲望に傾き、俺は承諾した。
「あ……そうか。あの人はそういう人だったな。わかった。お願い」
「はい」
 しずくは淡々と俺の着替えさせてくれた。必死に朝勃ちを隠そうとも思ったが、隠したところでどうなるわけでもないと思ったので、敢えて堂々とさらけ出した。
 その堂々さがよかったのか、しずくは特に顔を赤らめたり、恥ずかしがったりすることなく――文字通り機械的な動作で俺のパジャマを脱がし、シャツを着せ、ブレザーを羽織らせ、ネクタイ……は、しずくはどうやら締めたことがないらしくクエスチョンマークを浮かべていたのでこれは俺がやり、ペコペコと申し訳なさそうに何度か頭を下げると、今度はズボンを着せ、靴下を履かせてくれた。
 途中の謝罪がなければ俺は間違いなくしずくを人間とは認識できないほどの、凶悪なまでに、事務的な動作だった。
 ほんと、全身から「私、嫌々ながらやってるんですよ?」というのが滲み出ていて、不思議と――胸が痛んだ。
 でも、おそらくしずくのその嫌々は、俺に対しての諦念も混ざっているだろう。
 仮に俺が母のように感情をぶちまげてしずくを陵辱したとしても、それを受け入れようという、諦念。
 だから行為が機械的なのだ――と、俺は仮定づけ、しずくと共に部屋を後にした。

 朝食のこと。
「けーちゃん。あたしと旦那ちゃんは子宝に恵まれなかったから、けーちゃんを息子にできたことはとっても嬉しく思うの。特にだーい好きだったお兄ちゃんのお子さんだからね。可愛がってあげたいって思ってるよ」
「あ、ありがとうございます……あ、あので、できれば……その」
「ん?」
 母の目は笑っていなかった。言葉しだいによってはただじゃ済まないのが一発でわかるほどに冷たい眼差しをこちらに向けていた。
 だって――そうだ。
 しずくに朝食が、与えられていないんだから。
 テーブルには二膳しかない。場には三人いるというのに。そして、茶碗を手にしているのは俺と、母だけ。
 しずくは、しずくの分は。
 でも――俺はこの人に歯向かおうことは、どうしてもできなかった。
 育てて貰ってる義理ではない。ただ純然たる恐怖。風緑春胡という一個の悪意が俺に降りかかるのが……恐くて恐くて仕方がないからだ。
 卑怯で、臆病で、身勝手で――でも、勇気を起こす力はない。
 無力さに、死にたくなるような痛みが走った。
 そんな痛みをかき消すように、飯を喉に押し込んだ。
「……」
 その間、しずくは恨めしそうに俺をじっと見ていた。悲しそうに、さびしそうに。
 でも、「ごめん」とさえ言えない。そんな苦しみは、胸を、より強烈に締め付けて、
 涙が――こぼれそうになった。
 と、そんな俺たちの様相を見て、母が愉快そうに語りだす。
「けーちゃん。いいこと教えてあげる。世の中に理不尽が沢山あるけど、それは目の前にあるものしか人間は同情しない。目の前に悲劇がないと誰も悲しんでくれない。つまりね。目の前にこうしてしずくが朝食抜きで悲しい思いをしてるけど――中東やアフリカあたりではしずくよりも悲惨な人たちが沢山いるわけ。でも、今の君はしずくしか心配してない。だって、目の前にあるのはしずくだけだから。そう、錯覚なんだよ。こうしてささやかな朝食を食べてる一方で、どこかの金持ちは豪華絢爛なモーニングを優雅に楽しんでいて、それと比べたらこんな朝食は豚にエサにしか映らないかもしれない」
「な、なにがいいたいんだ、姉さん……」
「けーちゃんに、これから死ぬまでしずくに朝食は与えられないことを説明した際に、同情しないように説明してるんだけど、わかりにくかったかな?」
 わかるかそんなこと。
 そして――しずくには絶対に朝食を、与えない気か。

 登校時。俺としずくは自転車で学校へ向かっていた。
 ……俺の学校の制服を買う金を渋り、おそらく前の学校の制服である紺色のセーラー服に身を包んだしずくに本来、自転車などという嗜好品が与えられるわけがないのだが、幸いというか、奇跡というか、たまたま新しい自転車をこの前こさえたばかりだったため、古い自転車をしずくに渡すことができた。
 ……ていうか、なかったらどうしてたんだ?
 多分徒歩だろうな。バス代を渡すような母ではないから。で、遅刻と。で――それをネタに学校で体罰でも実行するつもりだろう。
 ……危ないところだった。
 俺たちは住宅街をすべるように進んでいき、大通りへと出たところでふと、空を仰ぐ。
 空は生憎の曇り空で、どこかのっぺりとした印象を与える。それは予感でも予知でもないが、不思議な不安を感じさせるものだった。
 また、雨か?
 だが、そんな思索も長くは続かない。
「うぅ……おなかすいたよぉ」
「……」
 しずくの悲痛な声。
 よく考えたら昨日の夕飯もほとんど食べてなかったっけ。
 腹を空かせるのも当たり前か。
「くすんくすん……」
 とうとうしずくは泣き出してしまった。
 ここが往来の真ん中であるとか、泣いたら俺もしずくも恥をかくとか、そういう次元の問題ではなく、今、しずくは自転車を運転しており、ここが大通りで車の行き交いが激しく――眼前には交差点があるのだという、リアルな危機を、彼女は認識していなかった。
 不安定だ。俺は戦慄を覚える。
 何とかしずくを止める方法はないか? 普段使ってない脳みそをフル稼働させて周囲を散見する。…………見つけた!
「しずくちゃん。ちょっとそこで待っててくれ」
「え……」
 しずくは停止した。自転車から降りてくれた。マジで危なかった。
 俺は即座に交差点の隅っこにケバケバしい茶色い虹色(?)を構築した、二十一世紀の現在においては名前と営業時間がまったくかみ合ってないちぐはぐなコンビニの中へと突撃すると、財布からなけなしの身銭をはたいておにぎりとお茶とひったくり、レジへと叩き込んだ。
 オニギリアタタメマスカ? やかまし! しかし常識人の俺はそんなことは口が裂けても言えるわけがないので「結構です」とだけ告げると、金を投げるように支払った。
……なんで朝はコンビニしかやってないんだ。コンビニのメシは高いってのに。
 財布の消費量が予想以上に激しい。
 バイトするしかないか?
「しかし……あの人がバイトさせるとは思えないな……もし理由聞かれたらどっすかな。素直に言うか? いや、ダメだ。そしたらバイトなんかさせてくれるわけがない。じゃあ事後承諾……いや、そんなことをしたら一昔前の借金取りみたいにバイト先にクレームの電話を延々と垂れ流して俺をクビに追い込むに違いない……困ったな」
 なるほどあらゆる方面で俺は母に対して無力であるわけか。
 はは……。
「うぅむ……難しい」
 外ではしずくが自転車から降りてはいたが、べそをかいているのは変わっていなかった。
「はいよ」
「あ、あの……これ……」
 しずくは呆然としている。
「よかったら食ってくれ。金はいいから。ていうか、ないっしょ?」
「で、でも……」
「気にすんな。ここならあの人にはバレないから毎日買ってやるよ」
 数日で財布飛ぶな。欲しいものも買えなくなるな。
 瞬間――理解した。人一人腹いっぱい、それも永久に食わせてやらなくちゃならないとしたら――そんなの、どれだけ金がかかるんだ?
 なるほど金という悪魔を凌駕してまで可能とする崇高は、絶対的な情愛なくしては成立しないということか。
 でも、それだけであそこまで辛辣な態度をとるだろうか?
 俺にはまだ何か母がしずくに明確な敵意を抱く理由があるような気がしてならなかった。
 ――と。
「あ……ぁ……」
「う、あ?」
「あ、ありがとう……ございます……ぐすっ」
「い、いや……別に泣かなくても」
「う、うわあああぁぁん」
「あ、あの……しずくちゃん……」
「あああぁぁあぁぁん!」
「………………このまま……」
 そっと手を肩に乗せ――と、その手をギリギリで止める。
 って、何を考えてるんだ俺は!?
 人の好意につけこんで零落させようってか? 俺は悪魔か!?
 自制しろ。でも――どうせこいつ人殺しの娘じゃねえか。犯そうが壊そうが別にいいだろ? そうだ。こいつを木っ端微塵にしてしまえ。犯して犯して犯したあとはこいつを……。
 止まれ!!
 全身から冷たい汗が流れる。
 なんで……こんな思考にいきつく?
「学校行く前に食っちゃえよ。あ、これは昼食用な。かばんに隠しとけ」
「あ、はい!」
 しずくは俺から敵意を失ったのか、あるいは、信用の領域まで到達したのか、満面の笑みを咲かせてくれた。
 綺麗だった。素直だった。
 俺の心とは、大違いだ。



「はーい、今日は担任の先生が出張でいらっしゃらないので、副担任のあたしが出欠とりまーす」
「あの人……副担任だったのか」
 知らなかった。
 そして、これはまずいと確信した。
「ああ、そうそう。今日は転校生を紹介しますねー」
「水村しずく……です。よろしくです」
 ああ……やっぱり。
 ていうか、同い年だったのか。なるほど、母が学費を出すことを拒否しなかった理由の一つはこれか。
 今が十一月中旬だから。というか、三年の十一月なら――ああ、なんて、なんてわかりやすい人なんだ。
「つまんねー自己紹介すんなよ。教壇に上って股でも開けよこの豚が」
 ぼそっと――笑顔な母がその表情を崩さぬまま、極々微量の音量をもって恐るべき言葉を口にした。
 俺が教壇のまん前の、一番前の席だから聞こえたのか、だとしたら他の生徒にも聞こえているんじゃないだろうか。聞こえてたとしたら一体どうなるのだろうか。
 俺に――何ができる?
 無理だ。何もできない。俺は自分を凡人と面と向かって口に出したくはないが、でも、寵児にも英雄にもなれる器ではないことを重々理解もしている。
「ま、ちょ〜っと質素ていうか、シンプルすごる挨拶だけどまあいいかな。じゃ、席は」
 幸い俺以外の誰にも聞こえていなかったようだ。
 どうやら神経が過敏になりすぎている。
 ……無理もないか。
「さあて、一時間目は日本史、つまりあたしの授業ですよねー。あたしは日教組に入ってないから安心して受験勉強に取り組めますから安心してくださいねー。じゃ、今日は模試対策しましょーか。プリント配りまーす」
 しずくは窓際の一番後ろにとってつけたように置かれた机に案内された後、授業は始まった。
 窓際の一番後ろ――つまり、小さな嫌がらせならバレない場所というわけだ。例えば、小突いたり、わざとプリントを一枚減らしたりとか。
 母はどこまでも意地汚い人だった。
 不安が連鎖し、風船となって膨張する。その末路は破裂か?
「ヘイケーシー」
 と――そんな時、後ろから俺を呼びかける声が。
 ゆっくりと振り向いて、
「ん? なんだ宮本」
 宮本屋烏と対面した。
「ノンノン。宮本なんて水臭い。屋烏って名前で呼んでOK?」
「……で、なんの用だ」
「あれケーシーのマミーなんだよNE?」
「ケーシーやめろ……まあ、義理のな」
「わけーよなー」
「四十路すぎてるぞ」
「ノンノン。人は見かけが全てって偉い人が言ってた」
「だから詐欺られて涙見る人が多発するんだな」
 人間が第一印象が全てというのは幻想だ。少なくとも、その法則を逆手にとって大金や、あるいは自身にとって大切な人を巻き上げる人間は世界にゴマンといる。
 それでも人は第一印象を最優先する。何故か? 第一印象が悪い人間を見ても、そこから一歩進んで確認しようとする意欲はもたないからだ。
 だから――騙されたとしても、どうにもならないわけだが。基本的によっぽど優れた人間でなければ回避は不可能である。二十一世紀の現代においても、手品師が「これは手品ではなく魔法だ」と言えば多分、大半の人間は騙せると思う。
 俺なんか壁からチーズバーガーを具現化させたり、五百円玉をガラステーブルの中に埋め込んだ手品を見て「これはマジックだ」と言われてもまだ半信半疑なくらいだ。
 と――
「こーら、あたしの授業中におしゃべりしちゃいけません。今話してるところは来週の模試に出るかもしれないんだからね。志望校に合格したいでしょ? だったらまじめに聞く」
 そう言って母がおどけた調子で教科書を横にしてポコンと俺と宮本の頭を叩く。痛くもなんともない。文字通り、注意のレベルだ。
「OH! ソーリー」
「すいません……」
 俺たちは謝罪する。
「えーと、じゃあ夏目漱石はもともと建築家を目指していましたが――」
「ところで転校生さ、根暗ぽくね?」
「……そうだな」
 昨日あれだけ酷い目にあって、むしろどうすれば明るくなれるのか聞きたいところだ。
「トゥモローからいじめられるのチェケラだよな」
「わけわからん」
「根暗→いじめれる。これ、大日本帝国時代から連綿と続く教育機関の伝統芸能」
「……」
 日本に限ったことではないような気がするし、そもそもしずくは根暗であるとか、そういう所とは全く別の理由で母にいじめられているわけなのだが……ま、こんなやつに話す必要もない。
「さ・て。授業も終わったので……水村さん。ちょっとこっち来てくださいな」
「っ!」
「え……」
 なに?
「聞こえませんでした? 水村さん。こっち来て。ちょっと廊下にいらっしゃいな」
「あ、はい。おじょ……先生」
「今転校生おじょってトークしなかったかい?」
「黙ってろ」
 俺は振り向きもせず母をねめつけた。
「オヤマ菊の助」
 俺は宮本を無視して、二人の後をつけてゆく。すぐに止まった。教室から曲がってすぐにある職員階段だった。
「水村さん。今日は転校初日だからしょうがないんだけど……」
「いたっ!」
「うち、ピアス禁止だから」
「ぴ、ぴあす?」
 しずくがどうしてそんな装飾品を――って、そうか、朝のあれか。
 なんて、嫌がらせ。というか、気づかない俺も俺だな。鈍感というか、馬鹿というか。
 しかし後悔してももう遅い。
「いたいいたい!」
 しずくは母に耳を引っ張られながら壁に顔面を叩きつけられた。
 ……おい、ここは声が漏れて誰かが通報しない限り安全な我が家じゃないぞ? 学校だぞ? 休み時間で生徒たちが便所に行ったりベランダで花札したり教室で小さなグループをつくっておしゃべりに興じていても――学校なんだぞ? 廊下からほら、通りすがりの生徒たちが、見てるんだぞ?
 でも、声が――でない。
「うん。しっかり反省するのよ。じゃ、壁に手を載せて、お尻を上げなさい」
「え……そ、そんな……」
「これからあなたはお尻叩かれるの。何がいい? 定規? 箒? 竹刀? あいにく鞭やパドルは持ってないからねえ。おら、……しずく。さっさとケツ出せよ」
 母はなにやら不穏なことを口走りながらしずくを壁に手をつかせ、尻を上げさせた。
「ま、素手でいいか。いきますよ水村さん。ちゃんと叩かれるたびにごめんなさいって言うんですよ。言わないといつまでも終わりませんからね」
「せ、先生!」
「なんですか風緑くん」
 勢いよく二人のもとへ駆け出した俺に対し、温和な様相で母がそう言った――刹那!
「うっ!」
 いきなり俺の胸倉を掴み上げ、ぐいっと顔を近づけると俺にしか聞こえない音量で小さく、悪意を吐いた。
「……けーちゃん、あたしね、一度でいいから絶対にクレームが来ない生徒をいじめてみたかったの。ほら、最近の親って糞豚が多すぎて生徒に馬鹿って言っただけで狂ったように電話かけてくるからね。例えばさっき教科書でポコンってやったでしょ? 実は内心宮本の親が体罰だ! ってクレームかけてこないかヒヤヒヤなわけ。そういう生活さ、ぶっちゃけすっげーストレスたまるわけ。わかる?」
「……理由になってないよ姉さん」
「黙っててねけーちゃん。けーちゃんも絶対にクレームが来ない生徒だってことをよく自覚した方がいいよ。つまりね、体罰を受けても文句言えない人間なんだからね、君も」
「……」
 やはりそうだ。母は俺を愛してはいない。母は俺を通して親父の、つまり、母の兄を投影しているからこそ、『義理』を有しているだけで――俺への愛情は、ほぼゼロだ。まあ、その理由は俺の容姿が母親似――というか、父親の面影がほとんどないことも起因しているのだろうけど、でも――
 でもさ、無視したり、それとなく対応してくれるなら諦観もできるけど――どうしてこの人はこうも露骨に口にするかなぁ。しかも、本人に向かって。
 正直者は馬鹿を見る世の中で、素直であることは罪悪なのだなぁと、この人を見て、そう思う。
 母は嬉々とした表情でしずくを教壇に手をつけさせ、わき腹を突っつきながら無理やり尻を突き上げさせた。スカートをめくりあげ、白桃のような臀部が浮かびあがる。血色はまだよかった。
 母はさわさわとそんな尻を撫で回す。しずくは小さく腰をくねらせた。
「お願いです……痛いのは、やめて……」
「黙れ。じゃ、水村さんいきますよ。回数は十回で許したげる。まず一回目!」
 バチィィーーーン!
 音がした。布団たたきで布団を叩いた時よりも、もっと乾燥した、弾けるような音が炸裂した。
「いたぁい!」
「あれ? 聞こえない。もう一回!」
 バシィ!
 叩く。母の表情は歓喜の彩られていた。その手のひらはたった二発だというのにすでに赤みがかっており、その力の込め具合がはっきりと認識できた。
「あぁっ! あうっ! あぁ……ご、ごめんなさい……」
「声に反省がないな。まだ一回目!」
 ビシィ!
 一方でしずくの臀部も紅に染まり、卵のような――とはよく言ったものだと感心してしまいそうになるその肌を、白桃を叩き、それに連動するように上げるしずくの悲鳴まじりの謝罪に、母はサディスティックな心に汚染されてゆくように、その双眸を歪ませていった。
「あぅっ! い、いたい……あ、ご、ごめんなさい」
「痛い。なんて言ってる時点で反省がない証拠。本当に心の底からすまない気持ちでいっぱいだったら痛いなんて言えないものね。さ、一回目!」
 バシ!
 そう言いつつも母は手を痛そうにブンブンと振りながら、一呼吸置いて叩いている。
 ……なるほど、作用・反作用の法則か。
「う、あぅ……ぅう……ご……めんな、さい……」
「苦悶の声を漏らしたな。一回目!」
「ご……めん……ぐすっ、さい」
「あら? 泣いちゃった? 痛いの? 苦しいの? でも、あたしは痛くない。じゃ、二回目!」
「あ、あぁっ! いぐぅ……ごめんなさい」
「また余計な声出したな。二回目!」
「ごめ……うっ……さぃ……ぐしゅ……」
「三回目!」
 悪意は繰り返されていた。
「四回目。五回目。六回目!」
 俺はただ――呆然と、眺めるだけだった。
 ……呆然と? なんで? どうして?
「おら! 謝れよ! しずくぅ! 謝れ、謝るんだ! ごめんんさいって! 謝れぇ!」
「あうっ、いやぁ……ご、ごめ! あ、あぁぁっ! なさ……も、もう……あぁっ! 許して、許してください! あ、いたぁい……痛いよぅ……う、うぇぇん」
「……あれ? 何回叩いたっけ? 忘れちゃったから一回目からやり直しだ!」
「……え、えぇ……!?」
「おら! 一回目ぇ!」
「あ、あぁぁああぁぁっ! ごめんなさい……ごめんなさい……」
「こ、この人は……」
 なんで佇んでるんだ俺は? なんで何もしていないんだ?
 どうして――俺の眼前でしずくは泣いているんだ?
 どうして? なんで?
 そんなの――考える必要あるか?
 あるわけない。絶対的にあるわけない。
 助けると、打算も目算も全否定して、ただ――盲目的に助けると、決めたじゃないか。
 なのに何故俺は何もしてない。意識がスパークする。そうだ。動け。百を忍んで千を耐えろ。動け。動け動け動け――!
 しずくが簾の娘だとしても、やっぱり。
 悪意は連座させてはいけないのだ。簾は八つ裂きにしても気がすまないが、でも、だからといってしずくを傷つけてはいけないのだ。
 なのに――
「でも――なんでだ? なんで、しずくと、しずくの親を、切り離して考えられないんだ?」
 固まる。心の一点が鎖となって俺から行動意欲を阻害する。
「でも――でも――」
 それでも、俺はゆっくりと足を運び、
「く……か、構う……ものか!」
 そして――母の手をがっしとつかんだ。
 昨晩決めた、俺の矜持。刹那の正義。
 だが、一転して母はぎらりと俺をねめつけた。
 それだけで足が震え、腰が抜けそうになる。あと一押しで失禁してしまいそうなほどの恐怖が全身を侵略した。
「……けーちゃん。その手は何?」
「え? な、何って……言う必要、ないだろ?」
「けーちゃん。それはあたしを裏切るってことだよね? あたしとしずくを天秤にかけて、しずくを選んだと言っているんだよ。その手は。わかってる?」
「……う」
「あたしをナメんじゃないよクソガキ。……あたしを裏切ったらただじゃすまないよ。もうご飯食べられなくなるよ。大学にだって行かしてあげないよ。その覚悟はある?」
「ね、姉さん!」
 なんてことを言うのだろうこの人は。
 情愛の全てを否定するが如きこの発言。たかが、暴行を止めただけで。
「姉さん? 慣れ慣れしく呼ぶんじゃないよ、この裏切り者の豚野郎が」
 母の声は冷たい。たかが、手を押さえただけで。
 でも、俺は紡ぐ。
「姉さん。確かにしずくの親が、あの水村簾だとしても」
「だとしても?」
「しずくには関係ないじゃないか。連座するなよ。連座して、ものを見るなよ!」
 それは慟哭に近かった。喉ではなく、臓腑の底から絞り上げるように口にしたその言葉は、苦しみと悲しみを含有していた。
 でも、それでも尚――母には届かない。
「見る。あたしは見る。だってそうだろ? この――」
「きゃあ!」
 ドカっと尻を蹴っ飛ばした。しずくは今までの弾けるような衝撃ではなく、蹴りによる圧力によってバランスを崩し、ずずずとくずおれる。
 そして――同時に母はしずくの顔を蹴りつけた。
「雌豚の血には大好きだったお兄ちゃんを殺した鬼畜外道の虫けらと同じものが流れてるんだぞ? どうして別に扱わなきゃならないんだ? こいつの面見るだけで思い出すんだよ。あの虫けらの醜い面をなぁ!」
「いぎゃ……っ!」
「姉さん!」
 もう全身で抱きつく。母を抑えるために、しずくを守るために。
 たかが、下心で。
「ったく、あたしのかわいいけーちゃんをたぶらかしやがって。殺してやろうかこの売女」
 俺は、ぼそっと、しかし母にはっきりと聞こえるように――言葉という弾丸。その激鉄を引いて、
「いい加減にしろよ……母さん」
 俺は、引き金を引いた。
 母が止まる。完膚なきまでに静止する。
 けれど、今まで向けられていた攻撃の感情が、俺に向けられた。
「か――あ? けーちゃん。今なんつった?」
 冗談じゃない。なんだこの人は。
 昔路傍でチンピラの集団とぶつかりそうになった時そいつらに蹴っ飛ばされたことがあったが、今思えばあんなの大したことなかったんだなと理解する。
 重い声。重い空気。そして、重い眼差し。
「母さん。やめろ。それ以上しずくを傷つけたら、いくら母さんでも許さない」
 俺の声は震えていた。ぶるぶると、全身から恐怖が滲み出ていた。
「あ? 何それ? クソガキの分際で養母であるあたしに宣戦布告? ブチ殺されたいのかてめえ。お前なんかな、ちょっとメシを与えないだけで簡単に死んじまうんだぞ? わかってんのか?」
「母さん……」
「家を出て働いてみるか? 誰が保証人になると思ってるんだ? 仮に働いたとしてあたしがお前を辞めさせることだってできるんだぞ? そもそも出て行くって、引越し資金なんてあると思うか? お前、ワーキングプアにでもなるのか? ネカフェ難民になる気か? できるのか? そんなこと、本当にできるのか?」
 やばい。小便漏れそう。
 しかも母が口にする一言一言に可能な限りの悪意が込められており、俺の人格さえも崩壊してしまいそうになる。
 と、俺の力が緩んだ。震えで腕に力を込められなくなったか――刹那、母が俺から半歩離れたと同時に、頭をぐいっと鷲づかみして、
「いいか小僧。ガキがいっちょまえに背伸びなんかすんじゃねえよ。お前は保護者であるあたしの許しがなければ生きていくことはできないんだからな」
 虐待の言葉を、投げかけた。
 でも――
「それでも――それでも、俺は、間違ったことはして……ない」
「景至さん……」
 しずくから声が。鷲づかみされた指と指の隙間からちらりと見えるその様は、どこまでも呆然とした様相を呈しており、同時に、悲しみを霧散させていた。
 それは、勇気を、与えてくれた。
 俺は間違ってはいなかったのだと。俺は――間違ってはいないのだと。
 そんな矜持を胸に宿し、母を、今こそ、攻撃する――

「こ、これ以上……し、しずくを虐待するなら、通告……するぞ?」

 母の目の色が変わった。今までの嗜虐的で圧倒的で高圧的な睥睨から、全くの無機質へと。
「……へぇ。通告。へぇ。それって、宣戦布告だよね? 間違いなく、宣戦布告だよねぇ。わかったよけーちゃん。あんたはお兄ちゃんのお子さんの割にはお兄ちゃんっぽくないのが気に食わなかったけど……あんたは中身も母親似なんだね。はは、はははは」
 笑ってない。笑ってない!
 でも……鷲づかみにしていた手は、ゆっくりと離した。
「……っ!」
「通告する? するの? 本当にぃ?」
 最終警告であるその音吐。まるで呪いのようだ。
 しかし、構わず俺はしずくの元へと移動し、手を差し伸べる。
「……立ちな、しずくちゃん」
「え……あ、は、はい」
 そんな俺の行動を完全なる敵対。宣戦布告と受け取ったのか、母はその場を去る事にしたようで、てくてくと階段を下りてゆく――去り際。
「けーちゃん!」
 母が叫ぶように俺を呼んで、
「もう、帰ってこなくていいからね」
 小さく、そう言った。



 俺としずくは母のいなくなった職員階段にぽつんと佇立していた。
「あ、あの……」
 こういう時、果たして何と言えばいいのか。
 直情的にしずくを助けてはみたが、それから先どうしたらいいのかは考えていなかった。
 愚直なる汚点。
 でも、取り敢えず声をかけてみる。
「あの!」
「ひくっ! は、はい!」
 しずくはびくっと肩を震わせた。
 で、俺は何を言えばいい? さっぱり考えていなかった。
 困った。
 ああ、そうだ。そういやまだ俺はしずくに俺は母とは考え方が違うということを説明していなかった。
 俺はそれを紡ぐべく、たどたどしくも口を開く。
「あ、あの……その……俺の親がさ、その……」
 と――
「ご、ごめんなさい!」
「……は?」
 俺は静止した。
「い、いえ……その、景至様のご両親を、あの……」
 ああ、なるほど。
 うん、話やすくていい。そう思った俺は静かに笑みをたたえると、
「あ、いや、それを言いにきたんだ。その、な。確かに、正直に言って。しずくちゃんの父親――水村簾が死刑になるのは当たり前だと思うし、無期懲役なんか、俺は許さない」
 いくら俺がしずくが好きだとは言っても、俺の家族を殺した人間を許せるほどには刹那な人間にはなれない。
 あの男は死んで償うべきなのだ。それだけは間違いない。
 でも――しずくの父親をそんな風に罵倒されることは、やはり心苦しいのか、
「……ですよね」
 表情を、絶望と悲痛を笑顔にのせて、そう、ぽつり呟いた。
「でも」
「え?」
「それは水村簾という個人であって、水村しずくには関係のない話だ。そうだろ?」
 口ではそう言いつつも、実を言えば俺は割り切れてない。
 それを無理矢理割り切らせている。力ずくで。心臓をぎゅっと握り締めて。
 でも、それを気取られてはいけない。俺は慈愛ある微笑みを消すわけにはいかない。
 複雑な感情が全身を徘徊した。
「で、でも……」
「だからさ、その。気にしないでいいよ」
 手を置く、優しく、しずくの頭に。撫でる。
「あ……」
 もういいや。暴露してしまえ。俺がしずくを助けた理由を。もししずくが男だったら絶対に助けなかった。もちろん虐待に加担はしないだろうが、それでも助けはしなかったであろう、その理由を。
 しずく、お前が助かったのは、お前が女だからなんだぜ?
 そんな、醜い醜い本性を、何故か。
 しずくの純朴な瞳に照らされて何かが麻痺したのか、つい――そんな風に思うようになって、嗚呼、
「それと――俺さ、初めてしずくちゃんを見たとき、その、惚れちまったんだ。あ、あの、だからな。その……だから、しずくちゃんを助けたのは、その、ヒューマニズムな正義感でもなんでもなく、ただのしたごこ――」
「いいですから。その先は」
「……え?」
 何故? どうして?
 俺は懺悔にも等しい悪口を、しずくにぶつけようとして……なるほど、よく考えたら、しずくが止めるのは当然か。
 どうも俺は頭が悪くていかん。
「助けてくれたのは事実ですから。あの人に睨まれても、それでも私を助けてくれましたから。理由は、いいです」 
 笑顔だった。その腹の中にいかほどの思いが込められているのかは理解できなかったが、少なくともその表層は――
「………………な、な……」
「ただ」
「た、ただ?」
「私のことが好きなら……これからも私を助けてくれますか? 助け続けてくれますか? 私のこと、傷つけませんか?」
「……あ、お……」
 一端、止まるも、俺は、
「も、もちろんだよ! 守る、守るさ! あの人に殴られたって、蹴られたって、メシを与えられなくなっても俺はしずくちゃんを守ってみせるさ!」
 そう、はっきりと答えた。
 微弱に女々しかった。
 と、
「ふふ。ありがとうございます。……ところで景至様」
「ん? 何?」
「あの……これからは景至さんで、いいですか? その……様づけは、もう」
 ああ、なるほど。
 俺の中に潜むサディスティックな支配欲に従えばそのまま様づけで呼ばれたかったのだが、さすがにそんなこと口に出せるわけもなく、
「あ、ああ、いいよ。なんだったら呼び捨てでも構わないよ」
 そう答えた。
 しずくは破顔する。
「あは、ありがとう景至さん!」
「じゃ、そろそろ行こうか」
「うんっ」



 家に帰ると、母の車があった。
 どうやら仕事すっぽかして帰省してしまったらしい。
 ……何か、凄く嫌な予感がする。
「た、ただいま……」
 俺は恐る恐るドアを開ける。
 母はいなかった。母が家にいるときはとてとてと笑顔をたたえてやってくるのだが、一向に現れる気配がなかった。
 ただ、
「あれ? 帰ってきたの?」
 そんな硬質な声が、リビングの方から小さく響いた。
 ……凄く凄く嫌な予感がする。
 取り敢えず俺としずくはリビングへと向かう。
「ただいま」
「ただいま帰りました……」
「ふぅーん」
 母はこちらを見ようともせず、暖房の効いたリビングで新聞を読みながらテレビをポチポチとチャンネル替えしていた。
 そんな空間にいつまでも佇んでていても不毛なだけなので、俺は一端しずくと別れ、自室へと向かう。
 取り敢えず私服に着替えて――と、そう思いながらドアを開く……と。
「……な、なんだ………………………………は?」
 なかった。何も。
 机も、ベッドも、本も、服も。テレビも、ゲームも、時計も、いや、ペンの一本さえ、そこにはなかった。
 本当に、がらんどう。
 俺は呆然として、何も、できなかった。
 シーーーーーーーーーーーーーーーンと、耳が痛くなるほどの静寂。その静寂の中、ただ、何もせず、佇む。蛍光灯も失われ、薄暗い、茶色の中。
 雨が降っていたらその音で時間を判別することもできただろうが、あいにくの曇天ではそれも叶わない。
 時計の音が、チックタックというあの音が、実はとても大切なものだったんだということを、俺は、無音の空洞の中に佇立することで、初めて理解した。
 と、どれくらい経過したのか、五分だろうか、十分だろうか、ひょっとしたら一時間かもしれない。不可思議なまでに時間の感覚を喪失した俺の背後から、のっぺりとして、均一性が欠落したちぐはぐなトーンをもって、母が、赫怒と歓喜と憐憫と忸怩の四つの感情を繰り返すようにして――告げた。
「あぁ。けーちゃんの持ち物は全部捨てたから。いやあ業者頼んだらかなりお金かかっちゃったよぅ。でもま、けーちゃんならこれくらいの出費はいいかな? なーんてね」
「あ……ぁ……」
 声が――でない。
「それとさけーちゃん。悪いんだけど、今日からこの部屋あたしの服の収納部屋に使うからけーちゃんは外の物置で寝てくれない?」
 何を言っているんだ?
 この人は、何を?
「それとねもういっこ」
 刹那、
「ぶぐっ!?」
 いきなり股間に膝蹴りを! 潰れた!? いや、潰れてない。でも、なんだ、この痛み。いや、痛いというか、息ができない。何か丸いコロコロしたものを体内に押し込まれるような、いや、その通りなわけだが、にしても、これ、どう形容すれば?
 アア――アアアアア!
 あれ? 俺の遥か上空に母の姿が?
 そうか、俺はホコリくらいしか存在しないフローリングに伏臥しながら悶絶しているのか。ああ、顔が。母の――顔が!
「今日から姉さんも母さんも禁止ね。お前もあたしのことはお嬢様と呼ぶように。ご主人様でもいいわよ。あ、財布返して。そのお金あたしのだから」
「……!」
 そう言って俺のポケットをまさぐり、財布をひったくる。
 でも、抵抗できない。声もでない。母は笑っている。
「あれ? 意外と少ないなぁ。毎月一万もあげてたのに……。もうけーちゃんたら浪費家なんだから」
 そう言って顔面をサッカーボールを蹴るようにドカっと!
 でも、声が出ない。こんなに、痛いのに。ていうか手で防御できない。俺の手は股間に向けられている。そうか、だから金的したのか。
 金的を喰らった人間は百%股間をずっと抑え続けるから。本能で。
 でも、結果として顔面を蹴られる。痛い。凄く痛い。しずくはこんな目に合わされたのか。自分で受けて初めてわかる。この痛み。この辱め、この哀しさ。
 でも――でも。
「さ、いつまであたしの部屋にいるわけ? お前の部屋は外の物置なんだから今すぐでていけ」
「……ぐぁ!」
 声が出た。腹を蹴られたためだろうか。
「返事」
「……う、ぐ」
 もう一回蹴られた。やばい、洒落にならん。女は非力だとよく言うが、それは単純な腕力の差であり、こうやって局部を蹴りつければ大の男であろうが誰であろうがこんなにも脆く、破壊されるのか。
「返事」
「あぎっ! がっ!」
 今度は顔だ! あれ? 鼻が熱い。ぽたぽたと何かが――ああ、鼻血か。
「返事が聞こえないなぁ。景至!」
 けーちゃんではなく、景至と。そう言いながら耳を踏みつけた。急所しか狙わない。なるほど、母を敵にするとここまでされるのか。ここまで――攻撃されるのか。
 俺が甥であるとかないとか、そんなことは関係なしに。
 だとしたら、これ以上母を怒らせてはいけない。俺は、声なんか出すだけで一苦労だというのに、腹から、喉から精一杯の力を込めて、
「は、ぐぁ……は、はい」
 そう、返事した。
 それに満足したのか母は俺の後頭部を蹴りつけながら、
「よぉし。じゃ、とっとと出てけ。この裏切り者の豚野郎が」



 都落ちというか、自宅落ちになった俺はしずくと同じ物置に押し込まれることになった。
 なるほど、ここは酷い。まず寒い。次に汚い。そして臭い。とどめを刺すと狭い。
 おおよそ人間が生活するような場所ではない。
 広さは三畳もなさそうな狭い場所に、小さな裸電球をたらして、布団が一つ。そして周囲をぐるっと小物が囲っているこの状況は、まさに牢獄を思わせた。
 いや、牢獄なんてちゃちなものじゃない。アウシュビッツ第二収容所並の状況だ。ていうか、トイレはどうするんだ? まさかこれもアウシュビッツ同様彫られた溝に流すなんてことは……
 そこまで考えて、体に刺すような痛みが走った。
「いててて……」
「だ、大丈夫ですか景至さん」
「あ、うん……」
 しずくが心配そうに俺の体をさすってくれる。鼻、耳、頬、胸、腕。さすがに股間はしなかったけど、全身をべたべたと触られる感覚に、心臓が――とくんと、大きく高鳴った。
 ちなみにさすっている理由は絆創膏一枚すら母が与えなかったからだ。
 ……化膿したらどうする気なんだ?
「ごめんなさい、私のせいで……」
「あ、いや。気にしなくていいんだよ。ていうか、しずくちゃんのせいじゃないし」
 誰がどう見ても母のせいだ。
「でも……」
「いいから」
「でも……」
「いいから」
「う、うん。でもなんか気が引けるなぁ……」
 しずくは納得できないといった様相を呈しながら小さく俯いた。
 それからどれだけの時間が過ぎたのか、薄暗い物置には時計はなく、俺の携帯電話は母に取り上げられてしまったので時間を確認する術がない。
 無言が重い……。
 と、いつしかしずくが俺のことをじっと見つめていることに気づいた。うぬぼれじゃない。比喩でもない。しずくが俺を凝視している。
 じーっと。じいぃぃっと。
 何だ?
「ど、どうしたの?」
 一応訊ねてみた。まさかヤらせてくれるなんてそんな生まれて初めてコッソリとエロ本買ってオナニーの仕方もろくにわからないでただ興奮してチンポを膨張させているだけの中学生の妄想じみた、そんなことは……
「見返りはなんですか?」
 ある意味、ニアピンか?
 しずくは俺を疑っていたわけか。なるほどなるほど。俺は深く頷いた。よく考えれば当然だ。両親を殺した男の娘に朝飯を奢り、母から虐待される覚悟で助け、かつ実際に自宅から追放されてもなお俺はしずくを攻撃しない。
 これに懸念を抱かない人間なんかいない。必然、俺の腹の内に不安を覚えるわけだ。
 そして――言葉次第では今、ここでしずくと寝ることができることがわかった。おあつらえ向きに布団もあるし。
 ……やっちまうか? いや、それだと母とはまたベクトルの違う鬼畜になるぞ。
 でも、ここで見返りなんかないとは、俺は言えない。絶対に。それに、言わないのは得策じゃない。恩を売るわけだから。
 恩の売買は相手が懸念を抱くことで成立する。
 それは、いやだ。
 恩を売るくらいなら見返りを要求する。
 考えろ。ここで最もしずくが傷つくことがなく、かつしずくの納得できる見返りはなんだ?
 となれば――やはり、性行為しかない。金品の要求は見込めないし、迂遠な願望は非現実的だ。目先。目先であって、かつしずくに実行可能であり、その上で納得までできる最も確実で、最もシンプルな行為と言ったらもう、それしかない。
 だから、俺は、
「しずくちゃん。俺とエッチしてくれ」
 この上なくストレートに、これ以上はありえないほど露骨に、本音をぶつけてやった。
 しずくは呆然と俺を見た。その目はまさに丸くするという比喩がとっても似合うほどに大目玉だった。
「どうだろ? 嫌なら本番じゃなくてもいい。でも、見返りはいらないと言ったら、嘘だ。俺は聖人じゃない。キリストでも、釈迦でもない。でも、詐欺師でもない。しずくに蜂蜜を与えるフリして破滅させようとは全く思ってない。だからこそ、俺は――」
 一呼吸置いて。
「しずくが、欲しい。どうしても欲しい。少なくとも、俺の全財産を失うだけの価値は欲しい。本当はこんなことは言わない方がいいんだろうし、言ったら俺の醜い部分をさらけ出すだけで何のメリットもないかもしれない。でも――しずくが訊ねた。見返りはなんだと。だから答えた」
 いつしか、しずくと呼び捨てにしていることに気づいた。
 まあ、いいか。
「……」
「打算的に考えて、全財産を失って、俺は何も得られなくても、それでもしずくが無事ならそれでいい――とは、思えない。俺は貢くんになる気はないんだ」
「……」
「でも」
「?」
「でも、しずくが嫌だというのなら俺は我慢する。しずくがいいというその日まで」
「諦める気はないんですね」
「ないね。金も通帳も服も本も家具もPCも携帯電話も部屋も親の愛情も進学も失って、それで諦めるのは無理だ。それともしずくは金持ってる男の方がいいか? ならあの人についていけばいい。近い将来成金のヒヒジジイに売ってくれるから」
「!」
 途端、しずくの眉がつりあがった。
「あ、ごめん……言い過ぎた。しずくちゃん、悪かった」
「う、うぅ〜」
 しずくは懊悩に暮れだした。無理もない。だが――俺は不思議と胸がスッキリしていた。正直者は馬鹿を見る世の中で、一際馬鹿な行為をしたためだろうか。
 極度の愚は馥郁な快感を提供してくれるようだ。
 ……俺って、マゾだったのか?
 考えると嫌になってくるので若気の至りということで深く考えないことにしよう。
 と――しずくがゆっくりと顔をあげ、悲しみと微笑みが混じった……憐憫のような表情をこちらに向けて、
「……しょうがないですね」
 そう言って、しずくはゆっくりと脚を、膝を立てたM字状に開きだした。濃紺のプリーツスカートの間隙から縞模様のパンティが顕現する。
「お、おぉ……」
 俺の喉がごくりと鳴る。目が見開く。
「……景至さん。こ、恐いですよ」
 しずくの声。ちょっと恐怖の彩られたその音吐は不思議な艶を携えていた。いや、錯覚か。でも、不思議とその錯覚はとろけるような甘さを内包していて、ただのパンティが、幻想的かつ妖艶なショーツとして俺の頭蓋を汚染してゆく。
 ただの縞模様。青い、縞模様。でも、下着だ。香り? なんだこれは。俺の鼻が狂ってしまったのか、しずくの全身からふんわりとした香りが、馥郁とした芳香が漂ってくる。
 痺れる。
「まったく、ほんとしょうがないですね」
 はぁと乾いた笑みを浮かべながらしずくの脚はさらに開かれる。股間に僅かに食い込んだ印象を与えるパンティ、そこから見える縦じわは、俺に不可思議な興奮を与えた。
 欲情する。欲情する。欲情が――止まらない。
 股間が反応しているのがわかる。言ってよかった。愚かでよかった。自分が馬鹿で、本当によかった。
 いや、ひょっとしたらしずくがこれを許したのはどこの誰とも知れないヒヒジジイと俺を天秤にかけたからだろうか。あの失言が、これを可能としたのか?
 だとしたら俺は卑怯者だ。でも――今更止まれない。
 と、しずくがセーラー服を脱ごうとした。俺は止めた。
「え……?」
「人類は動物ではないんだ。生物界で唯一衣服を着るのが人間だ。だから、それは脱いではいけないんだ」
「は?」
 しずくはまるで理解できないといった然ではあったが、むしろどうすれば理解できるのか知りたいところだが、衣服に対する欲求を説明するのはとても難しいし、下手をすればこれから先の行為がおじゃんになりかねない。また、永遠に侮蔑の目で見られる可能性だってある。
 黙っていなければならなかった。
「え、じゃあ……どうすれば」
 俺は黙ってしずくのセーラー服に手をかけ、半脱ぎの状態にさせた。……下手に欲情しない方がよかったかもしれない。しずくの視線に呆れの色がある。
 でも特に言及することなく、濃紺と肌色に差し引かれた境界線のように浮かび上がるシンプルなブラジャー。感動的なまでに豊満な胸はしかし、しずくの両手によって隠された。
 その、僅かに紅潮した頬と幾許の困惑が顔に浮かび上がるその様は異様なほど美しかった。
「じゃ、俺も脱ぐか」
 しかしさっき変な言い訳で無理矢理半脱ぎにさせた手前、自身が全裸になるわけにもいかないので、面倒臭いが俺も半脱ぎになる。それから、俺はゆっくりとしずくの手をどけ、ブラジャーを取り外した。
「綺麗だ……」
 思わず、声が出た。
「そ、そう……?」
 俺の中に侵略的な意識が芽生える。股間に蓄えられた無数の憎悪が白濁した形となって表れたいと強烈な自己主張を行う。
 半脱ぎ――現時点で俺はズボンをおろしたが、パンツはまだ存在している状態だった。トランクスからチンポが膨らんでいるその様は不気味な様相を呈していた。
「うわぁ……それが勃起ですか」
「あ、あぁ……」
「……見てみたいな」
「え? 見たいの?」
「だって私の見てるじゃないですか」
 ……まだ上だけじゃねえか。
 喉まででかかったその言葉をぐっと飲み込んで、俺は無言でパンツをおろしていった。
「うわぁ……すご」
 肉棒とはほんとよく言ったものだ。そそり立つ俺の下腹にある異形の物体は、まさに肉の棒であり、同時に腐臭をまきちらす悪意の筒だった。
 それを、しずくはまじまじと頬を赤らめながら覗いていた。
「じゃ、今度はしずくちゃんの番だ」
「え?」
「下」
「あ……」
 俺の簡素な言葉にしずくは気づいたようで、膝立ちになり、縞模様のパンティを恐る恐る脱ぎおろしてゆく。しずくの月経周期は知らないが、多分問題はないだろう。
 だって、トイレもないこの部屋で特に問題を起こしていない以上……と、そこで疑問。
 そういやしずくはトイレは一体どうしているんだ?
 疑問はつきない――と、そんな思索に暮れていると、しずくの股間が目に映った。
 しずくの毛はあまり烟ってはいなかった。薄くて淡い。縦筋が見えるほどに。
「じゃ、もっかいさっきのポーズしてくれ」
「え? あ、はい……」
 しずくは特に抵抗を示すことなく開脚してくれた。見える。恥部が。なるほどペニスとはまた違った意味で異形であった。
 生々しい。雪肌とでも言うのだろうか。真っ白な肌に象られたセピアな色合いに、煽情的な毒々しさが構築されている。
「ど、どうしたんですか? 何も言わないで……」
「あ……いや」
 不思議と声が出ない。毒々しいまでにリアルなインフォメーションに、俺はフリーズしているのか。
「たかが、おま×こでか?」
 やっと出た声音は、実にろくでもないもので、しずくは怪訝そうに顔をしかめた。
「あ、ごめん」
 何を謝ってるんだ俺は。
 俺は首を振り、
「触っていいか?」
「え? いいですけど……乱暴にはしないで」
「わかった」
 俺は両手の指を僅かに膨らんだ部分に添え、ゆっくりと左右に開いた。小さい唇が目に映る。それが離されると凹凸があり、わずかにしめりけのある窪地が理解できた。胸が高鳴る。
 まだ毒されていない、純然な性器。つんと香る酸っぱい匂い。俗に言うチーズ臭か。特に病気はなさそうだ。それにしてもイカとかチーズとか、何で食べ物を想起させる名称を使うんだ? 精液とイカにどういう接点がある? 確かにイカっぽい気はするが、イカを焼いてもあの臭いは出なかった。ナマの臭いなのだろうか。
 まあ、詮無いことだ。俺は窪地。粘膜に指をそっと触れてみる――瞬間、
「あ……ん」
 しずくは腰をびくっと震わせ、そう声を上げた。
「あ、大丈夫か?」
「え、あ、ええ……」
 すでに赤に染まったしずくの返事は微妙であった。肯定とも否定ともとれる。取り敢えず前者と決め付け、俺は指を光沢する粘液の中心に狙いを定め、身長に探りだす。
「ン……はぁ」
 声が上がる。心地が良かった。
「続けるぞ」
 一応そう告げてみると、しずくはこくりと小さく頷く。
 俺は指をまさぐってゆく。なるほど乱暴に扱えば壊れそうな物体だった。そういう点では男と同じか。あまり強くいじっても不味いかと思いながら続けてゆく。
 と、粘液が糸を引いた。人差し指と窪地をつなぐ透明なつり橋。濡れてきたようだ。
「どうだ?」
「あ……はぁ、んン」
 返事はそれと、腰の震えだった。
 さて、もう少し濡らしたら、いよいよ挿入か?
 俺の股間はいい加減最大領域に達しようとしていた。
 と――
「あ、あの」
「ん? どうした? 痛いのか?」
「い、いいえ……その、今日は、その……」
「恐いのか?」
「あ、は、はあ……」
 なるほど、入れるのは嫌か。しかし俺の股間はおさまりきらないのだが……仕方ない。しずくが嫌と言った以上は無理にやるわけにもいかないし、
「わかった。しずくちゃん。なら――せめてこれを鎮めてくれないか?」
「あ、はい。それなら……」
 しずくは了承し、おずおずと俺のイチモツに指を当てた。不思議な感覚だった。自分の手とは違う。明らかに感覚が違う。
「うわぁ……か、硬いですね」
 しずくの驚愕。指が絡んでくる。さするように、撫でるように。まだ手のひらと、その指でいじっているだけだ。握ってすらいない。
 にも――関わらず。
「う……うわ」
 俺の股間は鋭敏に反応した。撫でられているだけで、赤く脈打ってゆく。
「気持ちよさそうですね」
 しずくが蠱惑的な笑みを浮かべながら俺のペニスをさすってゆく。
 ……俺はマゾなのだろうか? 自覚はない。つもりもない。
「握った方がいいですか?」
「あ、ああ。頼む」
「では」
 ぎゅっと握られた。乱暴ではなく、あくまでも丁寧に。俺が普段握る力より弱い。どうやら俺が愛撫した時の加減でそうしてくれたのか。
 ……乱暴にしないでよかった。
 意外としずくは油断のならない女なのかもしれない。
 と――握られたしずくの手が、緩やかに動かされた。拙いはずなのに、弱々しいはずなのに、俺の先端から透明な液体があふれ出てきた。
「あは。熱いですね。脈打ってますよ?」
 しずくの笑い。なんとなくシャクだった。俺は絶頂を堪えようとする――が、遅かった。
 股間から上昇する感覚が静止を否定している。
「あ、で、出る」
「出るって、栗の花?」
 なんだそりゃ?――と気づく。ああ、精液のことか。
 気が緩んだ――刹那、
「う、あっ!」
 俺のペニスは炸裂した。ピュッと迸る白濁の熱。それは正確にしずくの顔と、はだけた乳房を侵略した。べっとりとして、のっぺりとして。
「え……やあ!」
 しずくは声を上げた。おそらく初めての精液は、彼女において驚愕を提供したようで、嫌悪と愕然が複雑に混ざり合ったなんとも奇妙な不安の顔を浮かべながら、ぼーっと、顔についた精液を指ですくい、見つめていた。
 俺は気だるさに包まれている。何で射精後はいつもこう疲労感がのしかかるのだろうか。意欲も失い、そもそもしずくが嫌がっている。
 なら――いいかと納得し、
「ま、今日はこんなとこでいいか……」
 そうぽつり呟いた。

 間隙。

「随分仲良さそうじゃない」
 声――
 誰の?
 考える必要あるか?
「あ……お、お嬢様……」
 しずくがまず発した。
 俺はギギギと後ろを振り向く。ああ――嗚呼――
「少しは懲りたと思ったのに、残念ねぇ」
 母だ。風緑春胡だ。俺を、破滅させた女だ!
 春胡が暗闇を背負って俺たちを圧迫する。
「ね、ねえ――いぎっ!」
 髪の毛を捕まれた! 後ろから、ぐいって!
 母の声。怨嗟のような、悪意の声。
「姉さんじゃないだろ。あたしはお前の何だ? 言ってみろ」
「う、ご、ご主人様……」
 咄嗟にでた言葉だった。おそらくこれは、もっとも母を満足させる言葉であろうから。
 俺も馬鹿じゃない。今、ここで、母を刺激させてはいけない。それくらいわかる。
 実際、母は満足気にふん、と鼻を鳴らして、
「そう。それでいいのよ。でもなんかムカつくなぁ。夕飯楽しみしててね」
 そう言って俺を布団に叩きつけ、自宅へと戻っていった。

 静寂。暗闇の中にある静寂。
 十一月も中旬になればもう虫の音はしない。ただ、肌を刺すような冷気だけが全身を震わせた。
 そんな中、しずくがぽつりと声をかける。
「景至さん……」
 不安そうに顔を曇らせていた。声のトーンも限りなく低く、絶望的というか、完膚なきまでの絶望が、しずくの内外を寄生していた。
 俺は、そんなしずくを見て、
「しずくちゃん……だ、大丈夫だ。俺がいるから。な?」
 そう言い、ぎゅっと抱擁する。これが最善だと信じて。
 事実、それは最善だったようで、
「景至さん」
 しずくは受け入れるように、腕を、俺の腰へと回してくれた。
 今だけは、俺たちの共通の敵たる風緑春胡に感謝してもいいかもしれない。
 ある意味ではあの悪女こそが――俺としずくを繋げたのだから。



 それから後、いつまで経っても夕飯がでないことにしびれを切らした俺としずくは殴られるのを覚悟――はしてないが、夕飯を恵んでもらうべく自宅へと入っていった。
「あ、やっと来たのねけーちゃん」
 母は愉快そうに笑みをたたえながらダイニングにて待ち構えていた。どうやら彼女は既に夕飯を食べ終えてしまったらしい。
「あ、あの……俺たちのご飯は?」
 恐る恐る訊ねてみる。
「あるよ。安心なさいな」
 笑っている。
 恐い。一体何が待っているというのだろうか、恐ろしすぎて想像もしたくない。
 と、母はゆっくりと俺たちをダイニングではなく隣の和室へと案内した。
 何事かとも思ったが一応夕飯を与えられることに僅かな安堵を胸に宿し、てくてくと後ろをついていって――愕然とした。
「で、エサなんだけどさ。ちょっと面白い趣向を凝らしてみたの」
「う……こ、これって……」
「お、お嬢様……」
 なんだ……これ?
 信じられない。いや、信じられるわけがない。
 これが人間の所業か?
 母は笑う。けらけらと。凄絶と脅威を喉から搾り出すように、破壊的な哄笑を家中に撒き散らした。
 和室にした理由はわかった。ふすまだ。ふすまの端と端をロープでくくりつけてあって、同様にふすまの両端に置かれた台の上に、ご飯と野菜と味噌汁がいっしょくたになったねこまんまの如きエサがそそがれたボールが置かれていて――要するに、
「そう。食べると片方の首が絞まるんだよ。でも食べたいでしょ? 食べたいよね? じゃ、相手の首を絞めないと。ふふ。死んじゃったらどうしようか? ビデオでも回してスナッフフィルムとして売ってみる? あはは」
「あなたは……悪魔か?」
 こんなの人間のやることじゃない。さすがの俺もこれは許せない。
 ロープはおそらく俺としずくの首にあてがわれる。で、屈伸の応用で後ろにいる相手の首を絞めている最中にねこまんまをすするわけだ。
 ……ふざけるなよ。俺の臓腑に沸々と赫怒の炎が燃え上がってゆく。
「けーちゃん。言葉遣いには気をつけようね。お前はこれから一生こうやって過ごしていくんだから」
 おそらくそれは本気だろう。母ならやりかねない。
 でも――それでも。
 俺は人間の尊厳を失う気は毛頭なかった。
 母はそんな俺の睥睨を見て、不満気に眉をひそめて、
「ふん。気ぃ悪くした。さすがにこれは冗談だったのにー。ちょっと脅かして素直に泣いて土下座すれば普通に犬食いで許してあげようと思ったのに。罰としてもうちょっと酷い目にあってもらおうかな」
「う……うぅ」
 踊らされていたか。いや――ある意味では、母は、俺を母側に戻そうとしているのだろうか。愛情か? 母の愛情か? なるほどわからなくはない。母は俺を愛してはいないと思っていたが、ひょっとしたら心の奥底には俺にたいする情愛を持っていたか?
 だとしたら――俺に活路はあるかもしれない。
 でも、
「ねえ、けーちゃんここでオナニーしてみせてよ」
「……え?」
「そしてさ、その精液をこのエサにぶちまげて、それ、しずく食え」
「えぇ!?」
「しずくがエサ……ザーメン丼かな? まあいいや。そのザーメン丼を一粒残さず食べきったらけーちゃんにご飯をあげるよ」
「な……!」
 少なくとも、今日明日に開けるような状況ではなかった。
「さ、やるんだ。さもないと今日も明日も明後日もご飯抜きだよ。さすがにそれはつらいよ。立ってられないだろうね。あはは。それとも食中毒になるのを覚悟して生ゴミでも食ってみる?」
「う……うぅ」
 確かに世の中には両親に虐待された幼児が一ヶ月間生ゴミを食べて生き延びたという実例があるにはあるが……いくらなんでも、それは危険すぎる。俺が食中毒になるのは当然嫌だが、仮に俺が大丈夫だったとしてもしずくが食中毒になったらと思うと――
 母は酷い人だった。どこまでも悪魔な女であった。
 懊悩に暮れる。どうしようもない袋小路に、死んでしまいたくなってしまう。
 と、そのとき。
「景至さん。お願い」
 しずくが言った。そう言った。
「……しずくちゃん」
「お願い景至さん。かけてください」
「だ、だって……だって……」
「けーちゃん。確かにここでしずくにザーメン丼を食べさせたくない気持ちはわかるけどね。でも、食べさせないとしずくも三日間メシ抜きだよ? それでもいいの?」
「う!」
 どうしようもないのか。どうにもならないのか。
 俺は――どうしたって助からないのか。
「景至さん。お願い」
 しずくの声。それが引き金。俺の股間から精液を弾丸を発射させるための。
 俺は、そんな悲痛な熱意によって、小さく、小さく零落した。
「………………わ、わかったよ……」
 俺はゆっくりとボールの前に膝立ちになると、するり、とズボンとパンツを下ろした。恥じらいと言った感情がないわけではないのだが、それ以上の絶望感が興奮を奪取し、俺の股間から充血を拒否していた。
「ふぅん。けーちゃんは七割側の人間だったんだねぇ」
「……」
「ああ、別に恥ずかしがることないよ。ヨーロッパなんか九割だよ? 気にしない気にしない。人類史上において赤いのはむしろ少数派なんだから。それでも嫌なら手術し……ああ、仮性だと保険きかないか。道理で」
 いちいち俺を逆撫でするようなことを言う。
「どうしたの? 腹立つ? むかつく? で、だから何? あんたあたしに逆らうの?」
「ぐ……」
「なぁにその目は? あなたはもう息子じゃないのよ? 奴隷の分際で御主人様にそんな目ぇして許されると思ってる? ねえ」
 そう言って母が俺の股間に手をさし伸ばして――屹立には至っていない俺の股間を、ぎゅっと強く握ってきた。
「あ、やめ……」
 抗おうと身をずらそうとすると、母がぐいっと顔を近づけ、
「動かないのけーちゃん。あたしはね、けーちゃんのこと、嫌いにはなれないの。ムカつくけどね。でも、しずくみたいに致命的に嫌いにはどうしてもなれないの。ねえ、あたしに殴られたくなければ大人しくしてくれないかなぁ?」
「う……あう……」
 母の手が異様な淫らさを放出するかのような動作で俺のペニスをまさぐりだす。
「う……く、ん」
「硬くなってきたわねー。ふふ、久しぶりだなぁ。こんなの」
「ぅ……?」
「あたしは子供産めない体だからねー。ここ何年もご無沙汰なのー」
 母は何を思ったか、突如として縷々語りだした。
「あたしが何で体外受精しなかったかって? お金がかかるからさ。世の中ポンと何百万円も出せるわけじゃないんだよ? 世の中金持ちだらけじゃないんだ。全人類がデパートでお買い物して長期休暇で海外旅行できるような生活を送れるわけじゃないんだよ」
 それはわかる。そんな中産階級の家庭がゴロゴロしているような国は地球上に存在しない。ほぼ全ての国はごく一部の上流階級と僅かな中産階級。あとは、スーパーでしか物を買えないような貧乏人ばかりだ。
「でも、それでも人には健康で文化的な生活を送る権利がある。少なくとも、日本人にはある。だから風緑家はなが〜い時をかけてようやく去年家が建ったし、けーちゃんという養子も得られた。あたしがどれだけ嬉しかったかわかる?」
 わかる。それはわかる。俺が養子になった頃はそりゃあひでえ借家だった。
 風呂のガスはつかないわ、夏暑くて冬寒いわ、何より虫が蔓延ってた。この家に貰われる前との生活のギャップに衝撃を隠せなかった。
 確かこの家を建てるために必死に金を節約してたんだったか?
「あんたにど田舎の、それも駅から離れた辺鄙なところで家賃四万の借家に二十年暮らす元気はある? 移動の際には車が絶対に必要で、ガソリン代が上がる度に腹を立て、ナメクジの這うガス風呂や、ズタズタの網戸から蚊がわんさと現れて、天井からは突如としてネズミやゴキブリがぼとっと落っこちる家。住める勇気はある?」
 いや、住んでましたよ春胡さん。
 毎日十キロ以上の道のりを自転車きーこきーこ扱きながら学校通ってたじゃないですか。雨の日はあなたが車で学校まで送ってくれてたじゃないですか。
 でも、さすがにそんなこと口には出せない。
「まるで狙い済ましたように綺麗なお家で日々を過ごして諭吉さんが入った財布を好き勝手に使えて、ちょっと勉強していればそのまま大学まで行ける――そのことに、君、どれだけ感謝した?」
「……」
 それは困る。そう言われると凄く困る。
 去年確かに家は建った。でもそれより前も小遣いは一万貰っていた。携帯料金も親持ちだった。でも――それが当たり前だと思ってたのも事実だ。むしろそんな財布事情だからこそあの借家は不平たらたらで、俺は何度も母に文句を言った記憶がある。
 でも、感謝は……感謝は――
「実家は貧乏だったからね。でも、あたしは大学行ったよ。確かに。その代わりお兄ちゃんが高卒なんだけどねー。お兄ちゃんがあたしに大学行かせるために高卒なんだよ。わかる? 女が大学行って長男が高卒なんてことが実家にはあったんだよ、わかるぅ?」
 なるほど、親父は高卒なのはそういう理由があったか。
 風緑家は借家ではなかったがででんと一軒屋を構えれるような金持ちでもなかった。賃貸マンションに住み、親父は小さな零細企業で働いていたな。
「わかんないだろうなぁ。一人っ子で何不自由なく生活できたけーちゃんには多分死んでもわからない。君が、どれだけ恵まれてるかがわかってない」
 声が出なかった。
 恵まれている――確かに恵まれている。俺より恵まれている人間は沢山いるだろうけど、でも、俺も恵まれている部類に属する人間には違いない。
 少なくとも、目の前にいるこの人や、死んだ両親よりは遥かに恵まれた人間ではあった。
「でもあたしはけーちゃんには恵まれた生活を提供したかった。日々を健やかにさせたかった。だからお小遣いだって一万円あげてたし、服だってあたしが買ってあげた。大学にだって行かしてあげるつもりだった。かわいいから。けーちゃんが好きだから」
 好き――そうか、母は俺を愛していたか。義理しかないとか、お兄ちゃんのお子さんだからとかよく口にしていたけれど、やっぱり、心の奥底では――俺に、愛情を抱いていたか。
 表層だけの、上っ面だけのこの人からは愛情は理解できなかった。でも、確かにあったのだ。義理でも、義務でもなく、純然たる愛情が。
「でも、あんたはそんな親心を裏切って目先の女に揺れ動いた。これはどうしても許せることじゃあなかった。けーちゃんが女と付き合うなとは言わない。あたしが子供埋めなかったらけーちゃんにはいずれかわいい子供が授かって欲しいし、あたしも孫は見たい。それはいい。でもね、だからって相手はしずくはないんじゃあないかな?」
 だからこの人はここまで腹を立てたのか。俺が母を上っ面だけしか見てないから。第一印象で永久に止まっていたから。内在する愛情に見向きもしないから。
 でも、それだけならこの人は許してくれた。大人だから。
 それを決壊させた、その理由は――
「あたしのために人生において貴重な学歴を提供してくれた大好きで大好きでだーい好きなお兄ちゃんを殺しやがった鬼畜外道の虫ケラの娘に揺れ動くことは、ないんじゃないかなぁ?」
「う……」
「だから、これはお仕置きなのよ。さ、射精しましょうね。さすがにオナニーはいや? だったらあたしがやってあげるね」
 俺はもう抵抗する気力は残されてはいなかった。しずくが見ている。哀しそうな表情で。
 けれど、俺にはもう……
「可愛いおちんちんだねー。ごめんね、さっきはここ蹴ったりして」
 そう言って母はくりっと丸まった睾丸を手のひらで持ち上げ、優しくさすりだした。
 俺は思わず身悶えしそうになる。
「そ、そんなこと……したら」
「あら? なぁに? まだ蹴られたトコ痛いの? ごめんねー」
 そう言いながら母はその手を止めることなく、睾丸から陰茎へとその手をずらし、きゅっとつまむようにたおやかな指で握り締めた。
 瞬間、俺の陰茎――ペニスは下腹を叩き、先端にはしめりけが生まれた。
「随分敏感だねぇ。くすくす」
 笑いながら母は巧みに俺の陰茎をこすりたてる。不思議と、快感が尻にまで伝道し、痒みのような快感がじわぁと広がりだした。
「ねえ、今日けーちゃんの私物を全部処分したけどさ、おかずが見当たらなかったの。ねえ、けーちゃんは何でオナニーしてたの? しずくはないよね。昨日あったばっかりだし」
「う……」
 何でそんな事を一々説明しなければならないのか。冗談じゃない。
「ま、いいや。射精はメインじゃないからとっとと終わらしちゃおう」
 そういった刹那――動きを早めた。途端に俺に炸裂する快感はそれに比例するように増大してゆく。
「あっ……うっ」
 俺は身をよじり、全身を苛む異様な気だるさに濡れた先端からはそのカウパー腺駅によって陰茎をてらめかせ、母の指を侵略してゆく。
 その侵略はどこまでの粘着的で、ぬちゃぬちゃといやらしく、泥状の錯覚を与える音と酸性な臭いによって沈黙の和室を濡れ音で満たしていった。
 もうダメかもしれない。背筋がきーんと何かが貫かれる。唇をかみ締めならが、俺は、
「あ、ね、姉さん……あ、ああっ」
「姉さんじゃないっつーの。ま、いいか。それだけけーちゃんがあたしのこと大切に思ってるってことだからねー。で、イッちゃいそうなの?」
 音が立つ。クチュクチュというどこか淫猥な雰囲気を携えた音が。そして、それは母の力の上昇によって包皮と東部を摩擦され、俺の股間からは異様な熱量が脳髄へと走り出す。
「あ、ああっ、ン――」
「何女みたいな声上げてるのさ。ほら、さっさとこのボールに射精をびゅっと出しなさいな」
「う、うぅっ、あぁ――っ」
 瞬間、熱いほとばしりが勢いよくピュッと放出され――ねこまんまの入ったボールの中へとぶち込まれた。
「あ、あぁ……」
 白濁した液状のものが異様なカルキ臭をまきちらし、鼻をつんとえぐるよう。
 そして、それが割れた風船のような破裂となって吹き飛び、食料に、エサに、夕飯の中へと落下したのだ。
「あー出した出した。……さてっ!」
 母が、笑った。ぐるりと振り向いて、しずくを見る。
「……ま、まさか」
「そうだよ。そのまさかだよ。しずく。このねこまんまを犬食いするんだ」
「ひ……」
 しずくは母の眼力に呑まれたのか、恐怖しつつも諾々と従い、ゆっくりとボールの前に跪くと口をその中へつけていった。茶色いねこまんまに精液のソースがかかった不気味な物体を、ゆっくりと啜ってゆく――が、
「うぇ……けほっ、かはっ、む、無理です……」
 しずくは咳き込み、その双眼に涙を宿しながら懇願するようにそう言った。
 でも、それを母は許さない。
「無理でもやるの」
「いやぁ……うぅ」
 口に再びつける。しかしそのペースは極度に遅く、しかめ面のしずくは舐めるようにボールの、それも白濁のない部位を必死にさぐりあてるようにして口の中へと入れていった。
 それを見た母はちょっと怒気を孕んだ感じでゆっくりとしずくの頭に手を乗せて――
「とっとと食え!」
 母が、無理矢理ボールに顔を突っ込んだ。
「気持ち悪いよぉ……うげぇ」
「あは。どう? どんな味?」
「……えぐい、味ですね」
「えぐい?」
「はい……なんか、えぐい。筍の灰汁みたいな感じでしょうか……」
「あー、なる」
 母は何か納得しているようだが、俺にはよくわからなかった。
 ただ、呆然と、惨劇を見ているだけ。
「ふん、臭い女だねぇ。こんなもん食べるんだから」
「う……うぁ……あ、ん……けほっ! うぐっ……うえぇぇ……ひ、酷い、酷いよぉ」
 でも――食べた。ボールに注がれたねこまんまを。量は茶碗一膳くらいだからかきこめばさほど時間はかからない。
 それにしたって……ザーメンのまじったねこまんまを、食べるなんて……俺には、とてもじゃないけど信じられない光景だった。
「はいオッケー。しずくはちゃんと食べたし。けーちゃんもねこまんま食べていいよ」
 そう言って母は立ち上がり、和室から姿を消した。
「ねこまんま……」
 俺は、屈辱に打ち震えながらも、がばっと勢いよくボールの顔を突っ込んで、そのエサというに等しい食べ物を喉に押し込んだ。
 涙が、こぼれた気がした。



 それから俺たちは別個に風呂に入ることを許され、物置へと戻っていった。
 さすがに部屋には戻してはくれなかった。
 寒い。湯冷めする。十一月中旬が生み出す残虐な冷気は俺としずくの体をどこまでも冷やしていった。
 凍えそうな寒さ。
「さ、寒いです……」
「俺もだ……」
 物置には布団が一つ。ガタガタと隙間から差し込む風をさえぎる熱は、たった一つの布団だけ。
 ちらちらと風で揺れる裸電球が、やけに寂しく感じられた。
 気づく。そうか、昨日はこの寒さをしずく一人で耐えていたのか。俺が、安穏と布団にもぐっている間に。
 不思議な罪悪感が胸中を蠢く。
「ごめんな」
「え?」
 しずくは目を丸くした。
「俺は助けられなかったな。しずくちゃんにあのねこまんまを食わせちまった」
「でも……あれは……」
「それに……まさかここがここまで寒いとは思わなかった。全てにおいて俺は口先だけだった。情けない。みっともない。……ごめんな」
「……」
 沈黙が続く。
 寒い物置は不可思議な重厚さを纏い、異様な圧力となって俺を圧迫していった。
 と――
「あの……景至さん」
「ん? 何?」
 しずくのもじもじとした声に、俺はぶっきらぼうに答えた。
「寒いですから……その……」
「あ?」
「抱きしめて、くれません?」
「あ――」
 俺は絶句した。
 様々な思索が頭蓋を巡廻する。だが、途中でそんな巡らせには何の意味も、価値もないことに気づいた。
 寒がっているのなら、そして、僅かにでも俺を信頼しているのなら、ここは承諾した方がいいだろう。
 なんせ、俺も凍えそうなまでに寒いのだから。
 だから、
「わ、わかった」
 そう言って、ぎゅっと、しずくを抱きしめた。
「あ……」
 しずくの、声。ぬくもり。体温を略奪する冷気を殺害するがの如きぬくもり。
 触れる。香り。しずくの臭いだ。
 しずくは暖かかった。いや――熱い?
「不思議ですね」
 しずくが紡いだ。
「何が?」
「私、何でだか景至さんを責める気にはなれないんですよ」
 ……なんとまぁ。複雑なことを。
 俺の喉は機能を停止させ、一切の言語器官が神か悪魔に強奪された気分だ。
「……」
「……」
 沈黙。寒さの中にあって深い、沈黙。
 抱き合う俺たちに降りかかる容赦のない隙間風と、ちろちろと揺れる裸電球が、まるでここがどこか遠い山奥か、あるいは雪国の果てで遭難したかかのような錯覚を抱かせる。
 ガタガタと揺れる物置。
 本当に遭難してしまいかねない。
「寒いな」
「寒いですね」
 それだけだった。それ以上は何も出てこない。
「……」
「……」
 長い、沈黙。
 一体どれだけの時間、こうして過ごしているのだろう。俺はしずくを抱きしめ、共に布団で体をくるんで、必死に寒さから耐えている。
 無駄なまでに滑稽で、でも、それ以外の行動意欲は存在しなくて。
 でも、じっと、何もしないでこうして座り込んでいても体の節々が痛くなるだけ。まるで生産性がない。
 要するに――退屈なわけだ。
 けれど、俺は動かなかった。退屈と疼痛が限界を迎えそうな状態にあっても、でも、俺はただただしずくを抱きしめていた。
 それからさらに時間が経過して――ふと、しずくが小さく口を開いた。
「キスしたいですか?」
「……したい」
 咄嗟ではなかった。真剣でもなかった。ただ、深い思索もなく、ぼんやりとした感情の渦の中から、ふわり、浮いた思考をそのまま口にしただけだった。
 それは畢竟、本能、いや――本性といえる概念。
 俺の本性が不意に、曝け出でたのだ。
 それでも――俺たちは、深く言及することはなく、そこで、抱き合ったまま、しずくがくるりと向きを変えると、自然と口づけを交わしていた。しずくは熱かった。
 自然とその口づけは展開してゆく。自然と舌をじゃれあうように転がして、少しずつ移動された体は悩ましい腰の移動をもって濃厚に絡ませる。
 限りない悲痛が、互いの体温を求めていたのか、手の平をもって互いに肌を撫で回してゆく。
「……濡れてたのか」
 俺はパンティへと指を侵略させると、底の部分はじっとりとしていた。
 熱い。そう思う。しずくはため息をついた――と、それに連動するように俺のペニスを下着越しのさすりだして、
「そういう景至さんこそ、ここ、こんなに硬いですよ?」
 微笑みがあった。どこか稚気を孕んだような。
 愛おしさがこみ上げてくる。自然と、俺としずくは共に下着の裏側へと指を移動し、喜悦漂う液が滲むところを愛撫するようになっていった。
 俺のペニスはしごかれている。そこはもはや疑うべくもなく屹立しきった状態となり、同時に、先ほどから濡れた陰唇を愛撫した成果、しずくの息はどこか弾んでいるよう。そんな雰囲気によって発露した興奮だったのか、
「……ここに、キスしてあげましょうか?」
 俺のアソコを指しての、しずくの、そんな一言。
「だったら、俺もしずくちゃんのお×んこにキスしようか」
 反射的なその一言によって、俺たちはゆっくりと布団にくずおれてゆく。
 俺はその時に体の向きを変え、肩膝を立たせると頭を太股に挟み込んだ。秘所と顔が揃うために。しずくがのしかかるということはしなかったため、結果横向きとなる。
 しずくは中々口に運ぶ気配がない。仕方ないので俺がまず唇を秘所へと運ぶ。
「くうぅ……あぁ、んぁ……あん」
 わずかにしずくは喘ぎのような音吐を漏らしだした――と、ようやく彼女も俺のペニスを口に含み、舌を律動させてきた。
「ん……あむ……くぅ、んん」
 蕩けそうな快感が伝導する。俺はワレメを開き、舌を中へと入れてゆく。しずくも俺のふぐりをいじりだす。そんな砂糖菓子のような状況を維持するにつれ、次第にエスカレートするように俺はアナルへとその舌を移してゆく。
 確か尻は病原体が多いと聞いたことがあるが、少なくとも今の状況においてそんな思索は巡廻せず、俺は舌を這わせてゆく。だが、同時にしずくも尻へと愛撫領域を拡張。瞬間、俺は無意識に声を上げそうになる。こらえるが、結果として体がビクンと跳ね、痙攣にも近しい揺すりを顕現させる。……熱い。
 しずくは舌でさらにペニスをくすぐってゆく。俺の股間はすでに透明な液を溢れ出していた。
「あらら……ぬるぬるになっちゃいましたね――ひあっ!」
 俺はしずくが声を出したとき、クリトリスの合わせ目の包皮を剥き上げて、それを直に舐め回した。
「あはぁ……あ、やぁ……ん。んっン……あぁん、んぁ」
 今度はしずくが痙攣する番だった。ただ、今までより反応が大きいことで俺は確認するようにクリトリスを突いたり、吸ったりしてみる。
「あ……ああッ、ん、うぅ……」
 ふと、声の質に涙が宿っていることに気づいた。息も荒く、でも、そのまま俺は舐め転がしてゆく。
「あ、ダメ……あああ」
 わななくような感じへと以降し、でも、しずくはそのクリトリスを俺に押し付けてくる。さっきより尖った感があり、俺は唇でそれをきゅっと挟み、くすぐった。
「あ……え、ンっ、いや……んんっ」
 声は次第に泣きへと変性してゆく。しかししずくは俺のペニスにむしゃぶりつく。吸いつき、口におさまらないところはしごいて。
 でも――俺が絶頂を迎えるよりも、しずくの方が早かった。
「あぅ、イク……イッちゃう」
 しずくはすすり泣くように絶頂を迎えた。
「満足したか?」
 俺はしずくから離れ、優しくキスをし、そう問うた。
 不思議と、しずくがさらに熱くなった気がした。だけど、
「景至さんが満足してない」
「あ、いや……俺は」
 確かに俺はまだ射精してないが……。
「いいから」
「いいのか?」
「私に恥をかかせる気ですか?」
「……わかった」
 俺は深く頷くと、ゆっくりと身を起こし、しずくの中へと入るべく腰を沈めてゆく。まず先端が僅かに埋没した。
 と、同時にしずくの顔が歪む。
「……やめるか?」
 俺は小さく言った。実は理由はある。
 しずくが、不思議と熱いのだ。俺よりも遥かに。
 ……おかしい。だが――
「平気ですから、このまま続けて」
 そう言ってしずくは一つ深呼吸する。
「……わかった」
 俺はしずくの意と、己が欲情を満たすため、ゆっくりと進めていった。だけど中々に進まない。俺は少し小刻みな振動を加える。
「あ――」
 しずくから声が出た。
 でも、俺は黙って押し込んでゆく。ようやく入りこんだ。ぬめるような感覚。膣の中は暖かく、だが、嬉し恥ずかしの破瓜よりも、やはり、不自然なまでの熱さが俺に不安感を与える。
 同時にしずくの体も反応する。痛いのか、その双眸は潤んでいた。
「大丈夫か?」
「う、うん……大丈夫ですよ」
 信じるしかなかった。入った以上、あとは動かすだけだ。
「動かすぞ」
「うん……あったかい……」
 微妙な感想であったが、俺は欲情の赴くまま、腰を前後に振り出した。粘膜の柔い襞が擦りつけ、締め上げる。
「あ……んっ、やん。あっ」
 腰が絡む。俺はしずくと抱き合い、快感へと到達する。
 体は不思議と心までをも接続し、俺は感動にも等しい愉悦の中で、一気に絶頂への気配を全身に漂わせていた。
「しずく、気持ちいい」
「あは……」
「そろそろイクぞ」
「うん」
 と――そこで母に昨日貰ったネオサンプーンループ錠をしずくの秘所に挿入するのを忘れていたことに気づく。
 失策だった。あれはヤる前にやらないと意味がない。しかも入れてから五分待たないと錠剤が溶けて精子を殺してくれない。
「ううっ!」
 仕方ないので俺は絶頂と同時にペニスを引き抜き、脈打つものを先端からしずくに向けて放出させた。
 ボーっとする。俺は放心したのか。しずくもぐったりと仰臥している。息遣いも荒い。
「しずく……」
 一呼吸置いて、俺は慈しむようにしずくの顔へ、優しく撫でるように手を置き――違和感を覚えた。
 俺はしずくを凝視する。……右手を、額に置き、左手を、俺の額に置く。
「まさか……」
 不安がよぎる。どうしようもない不安が。
 顔をぐいっと近づける。乱れた吐息。熱い体。……汗だくの顔。
 ……気づいた。ようやく。
 俺は馬鹿だった。
 なんで、さっきからしずくが熱いのか。どうして、どんどん熱くなっていったのか。
 そうだ。そんなの決まってるじゃないか。なんで――射精するまで気づかなかったのか。
 殴る。自分を。だって――
 しずくは、発熱しているのだから。



 ――凍てつく三日目――

 俺は走る。物置をぶち抜け、玄関は鍵がかかっているからいつも開けっ放しの裏の勝手口から侵入し、キッチンから廊下を駆け、階段を上り――母の部屋へと。
「母さん!」
 灯りは点っていた。鍵もないのでそう叫びながら問答無用とばかりにドアを開ける。
 ベッドに寝転がりながら読書していた母は、ぎょろりとこちらをねめつけながら、
「か――あ? けーちゃん。あんたまだ……」
「母さん」
 しかし、俺は言った。姉ではなく、母と。
 可能な限り真剣さを孕んで。絶対的な眼差しをもって、母を――睨み返す。
「……」
 母は沈黙した。思慮しているような顔つきのままこちらを見て、俺はもうひとつ、
「母さん」
 と言った。それで母の顔がまた変わった。ゆっくりと起き上がり、本をベッドに投げ捨てると、
「…………………………なに? けーちゃん。改まって」
 よし、会話ができる。俺は興奮した体と心をできるだけ冷却するように一つ深呼吸をすると、結論だけを、口にする。
「しずくが、熱を出しました」
「……そう。……それで?」
 母に怒りの色は見えない。淡々として、機械的な印象を与える。
「病院へ連れて行ってください」
「……こんな夜中に?」
「こんな夜中に、です」
「熱ってどれくらい?」
「計っていないのでわからないですけど……かなり、熱いです」
「…………そう。でも、こんな夜中に? 風邪薬は……」
 母は窓際の化粧台の隣にある小棚を開き、ゴソゴソと探ってゆく。どうやら病院は嫌らしい。そんな彼女の冷酷さは僅かばかりの殺意を俺の中に噴出させるが、ここはぐっとこらえ、風邪薬を待つことにした。
 ……だが、
「ちっ、切らしてやがる。咳止めしかない」
 母の唾棄するようなその言葉。
 はっきり言う。俺は嬉しかった。
「……母さん。お願いです。しずくを病院に」
「明日じゃダメ? もう病院なんか閉まってるよ」
 この人は……
 頼むから、俺をあまり失望させないで欲しい。いくら母でも、病人に鞭は打たないで欲しい。どうしようもなく哀しくなる。胸が――痛くなる。
 そんな悲壮さを双眼に宿し、すがりつくように、上目遣いで、
「かあさん……」
 母は、ひるんだ。
「う……けーちゃん、そんな目しないでよ……うぅ……」
 どうやら良心はあるようだ。よかった。底の底まで堕ちていない。よかった。
 なら、可能性はある。しずくを救える可能性が。
 でも、どうすればいい? どうすれば、この人を病院に運ばせることができる?
 考えろ、思索しろ。
 しかしすぐにどれだけ懊悩しても――どうにもならないことに気づく。ならば、素のままで、ありのままで、泣きつくだけしかない。
「もう俺は何も持ってないです。金もないし物もないし……母さんにあげるものは、何にもないですけど……」
「……それはあたしを攻撃してるんだよ?」
「すみません。でもお願いします。母さんの言うこと、何でも聞きますから」
 ぴくり、母の眉が跳ねる。
「……あたしにそんな事言ってタダですむと思ってるの?」
 思ってない。思っているわけがない。
 でも――この刹那のためなら、悪魔にだって魂を売ってもいいと、打算も、目算もなく、刹那に。
「でも、いいです」
「――わかった。あたしはやっぱりけーちゃんのこと好きだからね。でも、今言ったよね。何でも言うこと聞くって。それ、一つでいいや。聞いてもらう」
「あ、はい。なんでしょうか?」
「ああ、敬語はいいよ。親子でしょ。そうねえ。しずくともう二度と話すな」
「え――」
 俺は硬直した。
 なん……だと?
 耳を疑う。何? しずくと話すな? 中学生のいじめか?
 頭がぐらぐらと揺れる錯覚。皿の上にシチューとたくあんが混ざって、にぼしとジャムがぐちゃぐちゃで――異様な臭いが鼻を腐らせる。
 錯覚。錯覚錯覚。
 でも、一つだけ理解してること。
 ……早まった!
 そんな混乱と悲痛が入り混じった表情を見て、母はにんまりと口を三日月を真横にしたような、口裂け女の如き笑顔を浮かべて喜々と紡ぐ。
「しずくを今後永久にシカトし続けると約束できるなら、しずくを助けてやるし、けーちゃんもあの寒い物置から部屋に戻してあげるよ。まあ、家具はしばらく無しだけど」
「う……」
「もちろん、あたしが助けた後でけーちゃんが約束を反故したら包丁でしずくの顔をズタズタに切り刻んだ後服を焼き払ってドブ川に叩き込んでやる」
「あ……う……」
 どうしろと言うんだ? 俺に――どうしろと?
 まずかった。本当にまずかった。このシカトというやつは一見無傷で済むのだから大したことはなさそうに見えて、その実自殺者を出すほどに強烈な攻撃である。
 ひどいところでは、三日シカトされただけでマンションから飛び降りた女学生もいるほどだ。
 無視。それは沈黙を攻撃に置換した――相手の人格を全否定する虐待なのだ。
 ただ、これはいじめる側がしても全く意味はない。むしろ好都合だ。ではシカトをもって相手を徹底的傷つけるためには?
 それはつまり――相手の拠り所である人物が、シカトすること。
 そんな悪魔じみたことを、平然と!
「どうする? 別にいいんだよあたしは。刑務所の飯はマズいだろうけど、あたしがいなくちゃけーちゃんどうやって生活するんだろうね? パパんとこ行く?」
 パパ。それ自体に問題はない。養父は無口ではあるが悪い人じゃないんだから。
 だが――母が刑務所に送られればそんな事は関係なしに家庭環境は絶望的となる。学校生活も崩壊するだろうし、最悪……俺の将来は木っ端微塵と砕け散る。
 昨日通告するぞと脅しても、心の中ではそんなことはできないことを知っていた。最初から破滅している家庭ならまだしも、風緑家はかなり危ういバランスの上で――表層的な円満を顕現させているから、それを失うことは許されない。
 家庭を失うことで俺の将来を失うこと。それだけは絶対にあってはならないことだ。
 しずくを生贄に。そう考えると心の中でドス黒い何かがわめきたてる。
 しずくの人生はお前と違って既に粉々なんだから、これ以上どうなったっていいじゃねえか。
 それに承諾しないとしずくは熱を出したまま物置だぞ? もし単なる風邪じゃなく悪性のインフルエンザや肺炎だったらどうする? 取り返しのつかないことになったら――お前、どうやって償うんだ?
 風邪だからと軽く見たせいで悪化させて最悪の結末……なんて事例は世界中どこにでもあるんだぞ? だいたいその軽く見られている風邪だって、立派なウイルスなんだぞ?
 それに熱を出して苦しんでたしずくを犯したのは、お前だろ?
 揺れる。天秤の如く揺れる。
 ぐらぐらと、ぐらぐらと。
 そして――一分ほど沈黙が母の部屋を支配した頃。俺は、
「ま、守ります……」
 そう、口にした。
 しかし、その程度では母は許さない。
「守りますじゃないでしょ。しずくをシカトし続けます――でしょ?」
「し、し……」
「し?」
 く……どこまでサディストなんだこの女は。
「しずくを、シカトし続けます。約束……します」
 言ってしまった。俺の、人間としての尊厳は崩壊した。
 そんな姿を見て、しかし母は笑うことなくコートを走ると小走りにこちらへ酔ってきて、一部の嗜虐性も愉悦もない、きわめて真剣な表情で言った。
「わかった。今すぐ夜間急病診療所に連れてけばいいんでしょ。しずく車に乗せな」



「インフルエンザでも肺炎でもなかったね」
「……」
 そんな結末に、俺は沈黙した。嬉しいとも言えたし、悔しいとも言えたし、複雑で、錯綜していて、何も紡げるような感情は持っていなかった。
 薄暗いの病院だからか、俺の眼球が腐ってしまったのか。
 しずくが楽な症状でよかったのか、重症ならばよかったのか。
 わからない。俺にはわからない。
「ま、お薬貰ったから大丈夫でしょ。さすがに病人を物置に入れとくほど悪魔でもないから……そうね、あの和室に寝かせてあげるわ」
 母にも最低限の慈悲はあるようだ――そんなことを一瞬頭に巡らせた、刹那、
「そうそう」
「え?」
「ちゃんと約束、守ってね」
 母は凄絶な笑みを浮かべた。
「うぅ……」
「守ってね」
 母はもう一度。
「く……」
「守って、ね?」
 もう一度。
 ……ダメか。俺はがっくりと項垂れながら、
「……はい」
 そう、小さい蚊の鳴くような声で返答した。
 途端に母は破顔する。
「うん。けーちゃん大好き。今日からお部屋に戻っていいよ。進学もさせたげるから安心して。家具は本当に捨てちゃったからしばらくは何もないけど……ま、お仕置きと思って我慢して」
「あの、売ったの?」
 取り敢えず聞いてみる。母の本気、その真贋を確かめるように。
「ううん。逆に引き取り料取られた。おかげで貯金が削られちゃった」
「それでも捨てたんだ……」
 母の本気はどこまでも本気だった。
 つまり――
「あたしはヤると言ったら本当にヤる女だからね。気をつけたほうがいいよ」
「う……」
「もし、しずくが幼女だったら纏足にしてやるんだけどね」
「……」
 しずくが年取っててよかったと、冗談でも思ってしまった。
 夜の病院がちらりと灯る。



 目覚めは――最悪だった。
 今日は土曜。休日だ。時計が俺の部屋にはないから今何時かはわからないが、昨日深夜に病院へ行ったため多分十時くらいだと思う。
 そして、これからのことを考えると、ひどく、憂鬱になる。
 いっそ反故にしてしまおうか?
 いや、ダメだ。あの母がそれを許すはずがない。
 俺は鬱になりそうな状況で、それでも日々を送るために、ゆっくりと客用の布団からのそりと起き上がると、普段着に着替えた。
 廊下は綺麗だった。今まではホコリがたまってべたべたしていたのに、しずくが磨いたからか。なるほど従順だ。
 そう思うとますます鬱になる。俺が――しずくを攻撃しなければならないという、その事実に。
 やはり、早まったのか?
 いや、あの時俺がとった行動には一切の瑕疵はない。あれしかない。最善の行動だ。金もない車もない未成年が、どうやってしずくを医者に見せられると言うんだ?
 しかし……結果として……。
 ああ、そんな思索に揺られながら階段を下りると、ちょうど和室から出てきたしずくの姿が――
「あ、景至さん。おはようございます」
「……」
 俺は、沈黙した。
 パジャマを与えられなかったのか、あるいは、与えられたけど起床して着替えたのか、制服に身を包んだしずくが頬をぽっと赤らめながらぺこりと頭を下げて、
「あの、あの人を説得して病院に連れてって……その、ありがとう」
「……」
 初めて知った。沈黙が――違う意味でつらい。
「その、何てお礼を言ったらいいか、その……」
「……」
 沈黙は簡単なことを知った。
 とても、とても簡単だ。ただ黙っていればいいのだから。何もしなくてもいい。
 そんな、誰でもできることだからこそ――それを可能とするからこそ、胸が痛い。
 しずくも僅かながらに気づいたようで、ぴくり、眉をひそめた。
 だが、それも一瞬で、すぐに笑顔に変換する。
「あ、あれ? 心配してくれてるんですか? 嬉しいなぁ」
 でも、俺は答えない。すっとしずくを横切り、黙って廊下をすぎゆく。目指すはダイニングか。
 だがしずくはついてきた。とてとてと。
「……あ、あは、私はもう大丈夫ですよ。ほら、もう熱もないし」
 不安そうな声だった。俺はもうしずくを見ていない。
「あ、あれ……?」
 ついに、しずくから弾んだ声が消えた。
 俺は構わず歩く。
「あ、あの……景至さん?」
 しずくの声が遠のくのを感じる。どうやら追いかけてもこないらしい。
 早い。
 ひょっとしたら彼女は鋭敏な感性を持っているのかもしれない。
 だとしたら――だとしたら。
 ああ、いっそ振り向いてしまおうか。そんな衝動に駆られる。くるりと向いて、しずくと会話してしまおうか? 早い。一分もせずに挫折しそうになる。
 と、
「けーちゃん。朝ごはんできたよぉ」
 母がご機嫌な様相で俺に抱きつきながらそう言った。
 救いの手を差し伸べているつもりか、あるいは、俺の行動を監視し、危機を察知してそれを阻止したのか。
 だが、どちらにしてもどうということはない。俺は頷くだけだ。
「あ、どうも」
「どうもって、別にお礼言うことじゃないでしょ。今日は土曜だしのんびりしよ」
「そうだねか――」
「か?」
「じ、じゃなかった。姉さん」
「そうそう。口には気をつけて」
 そんな、俺と母のやりとりを訝しむように、しずくがずいっとこちらに寄り、
「あ、あの……」
 そう、小さく口を挟んだ。
「……」
 俺は沈黙。代わりに母が口を開く。
「なに、しずく。ああ、朝ごはん? いいわ、あげる。あたしとっても機嫌がいいの。ちょっと待ってなさい。…………どうぞ」
 しずくをテーブルへと誘うと、そこには俺と同じ。あったかそうな銀シャリに、具だくさんの御御御付け。目玉焼きに紅鮭に胡瓜の額づけと、俺がこの家に来て五年になるが、未だかつて一度も見たことがないほどに簡素でありながら荘厳な、絢爛なる朝食がそこに君臨していた。
「え? あ、あ……」
 しずくは目を丸くする。俺も同じ。そんなに俺がしずくを無視することが嬉しいのか。母の気持ちはわからない。
 ……ん? 朝食? ところで今何時だ。俺は壁に掛けられている時計を見る。八時だった。
 ……どうやらろくに寝られなかったらしい。
「毒なんか入ってないわ。ま、病人に鞭打ったりはしないから安心して。お昼ごはんもちゃんとあげるからコレ食べたら寝てなさい」
 と、よくみるとしずくの飯はおかゆだった。
 やけに手が込んでいる。母はギリギリまで寝るタイプの人であるため朝食をこんな念入りに作る時間なんかない。卵かけご飯と海苔くらいしか出たことがない。
 それが――なんだ、この豪華さは?
「あ、ああ……あ、ありがとう……ございます」
 しずくの声が震えている。ただならぬ不安を感じているようだ。
 椅子に座る様子もびくびくとして、小動物的である。
 だが、いつまでもそんな姿を見ているわけにもいかない。俺も座り、朝食を召し上がる。
「けーちゃん。それでね」
 母が話しかける。
 俺は返答した。
「あ、あの……景至、さん……」
 するとしずくが話しかける。
 俺は沈黙した。
「あ、あの……」
 泣きそうな声。泣きそうな顔。
「……」
 でも、それでも沈黙する。
 だって、母が眼前にいるんだぞ?
「その……」
 声はもういつ嗚咽が混じってもおかしくないところにあった。
「……」
 知らなかった。わからなかった。
 無視されることって、こんなに早く傷つくものなのか。
 体は痛くも痒くもないのに。心を抉られるような罵倒を浴びせられるわけでもないのに。
 ただ――存在を否定されるだけで。こうも、傷つくものなのか。
 俺はどんどん表情が悲壮さを帯びるしずくを見ることの苦痛に耐えられなくなって、かきこむように飯をたいらげると、そそくさとこの場を――しずくの目の前から消えることにした。
「ごちそうさま」
「お粗末様。お皿は自分で片付けてね」
「う、うん……」
 重い空気で終了した豪勢な朝食は、この世のものとも思えぬほど不味かった。

 一日は長い。初めて、それを実感した。
 今日が土曜ということもあってかどうしたってしずくと触れ合う時間は長くなる。
 基本、病み上がりなので和室でじっとしてはいるのだが、それでも同じ屋根の下にいる以上、顔をあわせることは避けられない。特にしずくは積極的に俺と話しようとちょくちょく部屋を出て会いにくるのだから最高に始末が悪い。
「あ、あの! 景至さん!」
「……」
「景至さん。あ、あの……私、何か景至さんのお気に触ることしましたか?」
 不安そうなしずくの声。いっそどこかへ外出してしまおうかとさえ思う。
 しかし外はぱらぱらと小雨が降り注ぎ、風の強さがカタカタと窓を揺らしていた。
 ……神は残酷である。
「あ、あの、だったら謝りますから! その、景至さん!」
「……」
「ねえ、どうして?」
「……」
「あ、待って」
 沈黙は簡単だからこそ難しかった。
 一見矛盾してそうだが、しかし俺の心象風景が象る感情の奔流は、まさに容易な行為を持続することの難しさによる懊悩が、支配していたのである。
「待ってよぅ」
 すがりつくようなしずくの声。
 俺の胸をぐちゃりとえぐる。
「ふえ……どうして? どうして無視するの?」
 理由なんか言えるか。
 俺はもうどうしようもなくなって――と、
「景至さん。ごめんなさい。その、自分の胸に聞いてみますから」
 そう言って、しずくはすごすごと和室へ引き返していった。
「……」
 何故か、すがりつかれるより気分悪い――攻撃的な行為に思えた。

 昼食。やはり俺はしずくと介さねばならなかった。
「うぅ〜」
 うらめしそうなしずくの視線。
 けれど、俺には何もできない。ただ――昼食のそばをズルズルとすするだけだった。
 すると、
「あのぅ……」
「ん? なぁにしずく」
 しずくが、何故か母に声をかけた。
 母はまるで予想していましたとばかりに満面の笑みをしずくに向ける。
「お嬢様。景至様に何か……」
「ううん。なーんにも。気にしなくていいからご飯食べたら寝てなさいな。お薬飲んだ?」
「え? あ、はい……」
「そう。じゃ、安静にしてなさい」
「うぅ〜」
 しずくは不満気にちらりと俺を見た。
 俺は……目をそらすだけだった。

 雨も止み、空には薄暗い灰色の空が辺りを包み、夜の帳が降りてきそうな夕刻に。。
「あ、景至さん……」
「……」
 階段で、部屋に引きこっていた俺がトイレのために部屋を出て――しずくと、はち会わせて。
「け……」
「あ……」
「景至さん! なんで無視するの!?」
 しずくは――とうとう決壊した。
 我慢の限界。
「何か言って! ねえ!」
 俺の胸倉を掴んで、がくがくと揺らして。
「私何かした!? ねえ! 何かしたの!? したら謝るから、心を込めて謝るから! あ、自分で考えろって? でもわからないよ! どれだけ考えてもわかんない!」
 しずくの激昂に、しかし俺は何も吐露することは許されず。
「ねえ無視しないで。私の目を見て! ねえ!」
 ただ、なすがままに佇立するのみで。
「どうして? どうして私の目を見てくれないの? なんで聞く耳を持ってくれないの? 私、何もしてないよ? 景至さんに嫌われるようなこと、してないよね?」
 階段の窓からはもう、光は差し込まれることはない。
 俺の心境もまた、どこにも光は灯っていない。
「う、うぅ……お願い。無視しないでください。黙らないでください」
 俺はしずくの目を見てないからよくはわからないが――たぶん、涙を浮かべている。だって、声が滲んでいるから。
 いや、そんな思索さえ意味はないか。
 だって、
「ふえ……ふえぇぇ……」
 しずくは、本当に、泣き出してしまったのだから。
「ふぇええええん。ああぁああん」
「う……あ……」
 そんなに、そんなに無視とは傷つくのか。
 しずくは一体、俺にどれだけの期待を持っていたのか。
「わぁあああああん!」
「……」
 わからない。わからない。
 ただ、しずくの気持ちよりも、しずくの体を思うのなら、俺は――
 やはり、しずくから離れるしかないのだった。
 去り際、「あ……」というか細い声が階段から俺の耳へと下ってきた。
 と、
「やぁけーちゃん。ちゃんと言いつけ守ってるね」
「そりゃ、姉さんの言いつけは、守らないと……」
 困ったことになってしまう、しずくが。
 母は笑顔だった。
「偉いよけーちゃん。まだお兄ちゃんが生きてた頃からけーちゃんはいい子だったもん。お年玉だって沢山あげたくなるってもんだよぉ」
「はは……ども」
 沢山って言っても貧しい風緑家が破格のお年玉をくれるわけもなく、また当時は小学生だったこともあってか五千円しかくれなかった。
 まあ、それはどうでもいいことだ。
「これからも守るんだよ。なぁに、人間なんてのは環境に順応できる生物だから二、三日もすればしずくも諦めて迎合してくれるって」
「そ、そんなもんですか……」
「そうだよ。あたしがしずくに虐待しないでけーちゃんが無視してればすぐに迎合するっしょ。体が痛いのと心が痛いのを天秤にかけた場合ね、痛いのは心なんだよ。でもね、耐えられるのも心なんだなぁこれが」
「……」
 果たしてそうだろうか? しずくを見る限りそうは思えないのだが……。
「体の痛みより心の痛みの方が痛くてもね、体の痛みは耐えられないけど、心の痛みは耐えられるんだよ、人間は。だから大丈夫。しずくもすぐ痛みに慣れるさ」
 体の痛みはいずれ消え去るが、心の痛みは一生残る。
 でも――人はその痛みに耐えることができると、体の痛みは耐えられない場合があるけど、心の場合は耐えられると、そう言いたいのだろうか。
 だとしたら、母は間違ってる。
 心の痛みが臨界と突破した時、人は……壊れるんだぞ? あんたみたいに。
「はは……」
 そう、こんな風に。
 ……なに?
 え? ぎょっとして振り向く。
「景至さん」
「あ……」
 しずくだ。聞かれたか。いや――母が、聞かせたか。
 どちらにしても、しずくは仔細を理解してしまった。
 でも、俺は、返事をしなかった。愚直なまでにシンプルな行動。もはや反射だ。
 そして――それが引き金となった。
「そうですか。無視ですか。……わかりました」
 冷たい声だった。ちらり見ると、母が満足そうに笑っている。
 ……させたのか。
「私はこの家に来たとき、いい子でいようと思ってたのに。素直で、どんな言いつけもちゃんと守って、好かれはしないだろうけど、嫌われないように」
 しずくの声は怨嗟となって冷たい廊下を徘徊する。
「……し」
 声が――俺が、無意識に。
「ず……」
 声を、俺が、出した。いや、出させた。
 しずくに、恐怖して。
 怨念のような眼差しと、仮面のような笑顔をもって。
「はは……はははは」
 しずくは――笑い声で、呪いを発した。



 不思議と、それから特に変化はなく、変わらず。
 ただ、俺に声をかけなくなっただけで。
 母はそれを早い諦観と言っていた。
 そうか? と首を傾げながら夜を過ごした。
 
「ん……う……」
 ――ぎし。
「…………………………あ?」
 ――こん。
「!!!!!!」
 本能だった。
 な、なんだぁ……?
 俺は一瞬で目が覚めた。真っ暗な部屋。何もない部屋。布団で寝返りを打って――後ろに、人の気配を感じる。
 声はない。シーンと、耳が痛くなるほどの静寂。
 でも、確かに、人がいる。はっきりと、わかる。
 ぞっとする。怖気が走る。なんだ? 一体?
 殺戮的な好奇心が全身を汚染する。
 しかし――
「く……そ……」
 俺は、振り向けなかった。あまりにも恐くて。
 心の中で好奇心と恐怖心が葛藤している。
 何故か、殺気のようなものさえ背中にただよっている。こうしていたって何にもなるまいに、何もしなけりゃ殺されてもおかしくないのに。
「はぁ……はぁ……」
 でも――俺はピクリとも動けなかった。心の中では必死に動きたい。後ろの気配の正体を知りたいとわめきたてていると言うのに、その最奥。もっとも原始的な感情がそれをひたすらに否定していた。
 ただ、じっと。気配が消えるのを、ただじっと。
 こうして、寝たふりをして、気配が諦めて消えてくれるのを、ただじっと。
「う……くっ、あっぁ……」
 一体こうして何分経過したのだろうか。
 息が荒くなる。緊張で動悸が激しくなったためか。もはや寝たふりさえ意味を成さない。
 だが、それでも俺は沈黙だった。
「ふぅ、はぁ……はぁ」
 不思議と、今、この場での沈黙は地獄の苦痛を伴っていた。しずくを無視していたあの沈黙よりも、何倍も苦しくて、辛くて、恐かった。
 それはやはり――俺が被害を被ることと、しずくが被ることの……差異。
 俺がどれだけヒューマニズムを唱えてみても、やはり痛いのは心だけ。しかし、今は違う。俺が傷つくことに、心が震えていた。
 全身がカチコチになっているのがわかる。何分だ? こうして――今、何分だ?
 わからない。わかりたい。好奇心が、猫をも殺す好奇心が俺の心を汚染する。
「くっ」
 そして――ついに、緊張の糸が切れた。
 恐怖に耐えることに、耐えられなくなった。
 俺は――後ろ、振り向く。
 ああ、やっぱり、
「…………しず、く……」
「あは。やっと私の名前呼びましたね」
 しずくの声は弾んでいた。本当に嬉しそうに。子供のように稚気を漂わせて。
 と――気づく。
「……なんだぁ、それ」
「あぁ、これですかぁ? なんでもないですよぉ」
「……」
 なんでもないわけがない。
 しずくの右手に宿っているもの、それは――それは。
 包丁。細さと長さから見て刺身包丁か。
 ……あんなもので刺さされたら命の保障はない。
 もっとも原始的な暴力が、眼前に聳えていた。
「でも、ほんと、やぁっと喋ってくれましたね」
「……」
 恐い、しずくが恐い。
 なんで、こんなに喜々としているんだ?
「ねえ、景至さん。出会ってまだ三日だよねぇ」
 しずくが語りかけてきた。
 俺は、答える。
「そ、そうだな」
 すると、しずくは唐突に。
「出会って二日で私を食べたよねぇ」
「……こんな時に、何を……言って?」
「早すぎると、思わない?」
「……!」
 ドクン。心臓が跳ねた。
 しずくの放った必殺の弾丸。その音吐は正確に俺の心臓を射抜いた。
「気づかない? おかしいとは思わない? たった二日で、どうして食べれたのか。ねえ、一度も疑問を抱かなかった?」
「あ……あ……」
 震える。喉が、痙攣しているような錯覚。
「私はこの家に来るのが恐かった。本当に恐かった。ねえ、わかるでしょ?」
「あ、あ……」
「私には味方が必要だった。どうしても、絶対に、なにがなんでも私を守ってくれる味方が必要だった。そうしないと、風緑家では生きていけないと知っていたから」
「そ、あ……」
「だから私は、春をひさいで……ねぇ?」
 今――今。
 そうだ。今から思えば兆候はあった。さりげない違和感もあった。
「でも、もういいの。私が風邪を引いたのが悪かったんだから。まさか、熱を出すとは、ねえ」
 そうだ。よくよく考えて、高熱を出した人間に、欲情的な意識が沸き上がるかと問えば、そんなわけがない。
 俺が熱を出した時を思い出す。あの時はとにかく楽になりたかった。寝ていたかった。フラフラで、苦しくて、熱くて、一刻も早く、楽になりたかった記憶がある。
 それはしずくにとっても例外ではないはず。でも、そんな状況で、どうして――しずくから誘惑してきた?
 しずくは処女だったんだぞ? 処女――だったんだぞ?
 妖艶さなんて、どうして持てた?
 ……ああ、そうか。そうだったのか。

 しずくは、水村しずくは――風緑春胡よりも、黒いのか。

 最悪の言い方かもしれないけど、やっぱり、水村簾の、娘、というわけか。
 意識が朦朧とする。どうしようもなく朦朧とする。
 しずくは清純ではなかった。しずくの腹の内に秘めていたのは――絶対的な欲望だったのか。
「ねえ、景至さん」
「ひくっ!」
「今、この場で私を抱けますか?」
「あ……」
「ねえ、どうなんですか?」
 キラリ――光った。
 刃物。なんだあれ? すごい、光ってる。暗闇の中、凍てつく夜の中。
 包丁が、しずくの右手に宿っている。それを――俺に、向けて!
「味方を失った時点で私がこの家で生きていくことは不可能。あなたが直接危害を加えなくても、沈黙するだけで、それは立派な攻撃なんですよ?」
「し、しずくぅ……」
「ねえ、どうですか? 私は春をひさごうとしてるんですよ?」
 殺戮が隣にある春ってなんだ? プラハの春か?
 上手いこと言ったつもりか? 馬鹿め。
 もう、ダメだ。色と血の、二色の暴力によって、俺の全ては瓦解した。
 ゆっくりと起き上がると、小さく、ぼそっと、限りない粒の声で。
「……抱いてやるから、こっちこい」
「あは」
 しずくは――笑った。
 と、風もないのに、不思議にふわりとひらめくプリーツスカートによって、パジャマ姿でないことを確認できた。
 ……着替えていた。何故?
 彼女の制服が、夜の闇と同化していたから今までわからなかった。
 狂気的な光を右手に宿したまま、艶やかな唇をくっと歪ませ(おそらく笑みだと思われる)ながらゆっくりとこちらへ歩を進める。
「あ……これがあったらダメですね」
 そう言ってしずくは包丁をドアの方へと放り投げた。ガチャリと硬質の音が耳を劈く。
 気づく。俺は汗ばんでいた。風邪が移ったのだろうか。いや、違う。
 これは緊張の、汗。緊張の――汗だ。
 しずくはそんな俺の様子を特に気にすることもなく、その身をわずかに前傾させ、両手をスカートの中にもぐりこませた。
 そして引き抜かれた、シンプルな、白のショーツ。
 包丁ではなく、今度はそれを手に宿したまま、俺の布団へと侵入し、ゆっくりと、俺の体をふとももではさむように、抱きついてきた。
 と、気づく。
「あ、待ってくれ、しずく」
「なんですか?」
 俺はネオサンプーンループ錠を布団の横にある制服のポケットから取り出すと一つを手に含み、
「これ、入れさせてくれ」
「……なんですか、それ?」
「殺精子剤」
「……なるほど」
 しずくは承諾したようで、一端俺から離れると、脚をM字に開脚させ、入れさせてくれた。俺は一錠取り出すと、指と指で挟んでしずくの中に入れる。
「あ――っ」
 しずくは跳ねた。……湿らせてからの方がよかったか。
「ご、ごめん」
 咄嗟に謝ってしまった――と、
「えいっ」
 俺はしずくのなすがままとなり、すんなりと押し倒された。
「し、しずく……」
「二回目では私は痛いだけでしょうけど……まあ、景至さんが気持ちよければいいんじゃないですかぁ?」
「な、何を……」
「ちょっとこれやってみますか」
 そう言ってしずくは俺のパジャマ、その下をはだけさせ、その、しずくの手の中でくしゃくしゃになっているショーツをもって、俺の、屹立には至っていないペニスに触れた。
 と、しずくは手で包み込んだ後、輪郭をなぞるように指先を動かしてきた。
 瞬間、俺のペニスは勃起した。
 熱く、硬く。それに比例するように、心臓もどくんと跳ねる。
 ショーツに包まれた俺のペニスは、ゆっくりと上下にしごきだす。
「し、しずく……」
「あは。景至さんやっとまともに私の目を見ましたね。やっぱり暴力はいいですね。すぐに反応するから」
 その瞳は清潔だった。
「しずく……」
 血で脅し、色で実行する。
 しずくの暴力は、完璧だった。
 それにしても初めてだ。初めて理解した。
 俺は今まで狂気的な瞳というと、血走って、焦点の合わない奇怪な眼差しをイメージしていたが、本当に狂気的な瞳というのは、完膚なきまでに純粋だった。
 俺の瞳の方がよっぽど濁ってる。そして――母の瞳も濁っていた。つまり、母は狂人ではないという、証左。
 悲劇的な証明。
「私の味方になってくれるのなら毎日だってしてあげますよ? お一人で自慰行為なんかしなくていいし、私を好きなだけ蹂躙してもいいんですよ?」
 しずくは指を絡めながら唾液の混じった声音をもってそんな風に俺を誘う。
「ただ――裏切らなければ」
 そう言って、手を離した。
「え……あ?」
「だって、このまま続けたら射精しちゃうじゃないですか」
 稚気的な笑み。少しだけ俺の心に反発心が生まれた。
 俺はゆっくりと身を起こすと、しずくの上、セーラー服をはだけさせ、
「じゃ、今度は俺が入れやすくなるようにしてやる」
 そう言って、あらわになったしずくの乳房に顔を寄せた。
「あ――あ、やぁ」
 ちゅぱ、じゅるっと突起をしゃぶる音を立て、しずくを反らせる。
「やん。あ、だめ、あ、あッ、はンッ」
 しずくの息がはずむ。腰が淫靡にくねる。密着していたため探るように真下へと動かし、クリトリスを確認すると、指を蠢かせた。
「あっ、あぁッ、ダメぇ、やぁ、あんッ」
 乳首と陰核を同時に攻め、秘唇のしめりけが十全であることを確認すると、しずくの体がガクガクと震えた刹那、
「じゃ、入れるぞ」
 そう言って、俺はしずくを少し浮かせ、
「あ、あああぁぁっ!」
 ペニスを一気に挿入した。しずくの声が漏れる。やはり二回目程度だとまだ痛いようで、その顔が苦痛の色が見える。
「あ……は、ぁ……」
 しずくのは息を荒げながら体をわずかに痙攣させる。
「苦しそうだな」
「……は……なんか、熱くて、ずきずきして」
「……大丈夫か?」
「は――あ。ええ、大丈夫ですよ……力抜きますから」
 そう言ってしずくはひとつ深呼吸し、肩の力を抜いてゆく。それに比例して表情も穏やかなものへと変性していった。
「はぁ……ふぅ。よくなってきました」
「よし、動くぞ」
 俺は火照るしずくの顔を見て、縦に上下運動を開始する。
 前にもできそうだったが、ごりっと骨が当たりそうな気がしたので、縦に。
「あっ、やぁ……あぁ、動いてる、あんッ」
 鈍痛と快楽が含有しているのか、潤滑液をこぼし、こすりながら発せられるしずくの声と、その顔色はどこか混沌めいた様相を呈していた。
「やん、あ、はぁ……ふぅ、あっ、んンッ、あぁん」
 だが、そこに含まれる熱は、喘ぎのとなって置換させ、苦痛の色が隠れてゆく。
 しずくの体重がいくつかはしらないが、互いに座しながらしずくを抱きかかえるこの状況で、俺の運動量は確実に増大しているわけだが、不思議と、それが苦痛とは感じなかった。
「しずく……白いぞ」
「あっ……え? あうっ」
 しずくも俺に連動するように腰を上下さえ、ぱつんぱつんと音を立てながら股間をぶつけ合う。俺のペニスはそろそろ放出に至ろうとしていた。
「あ、あああぁぁあっ、あっ、んあっ」
 しずくの膣も締まる。俺の臨界は到達し、
「いそ、そろそろ出るぞ」
「い、イクっ、うあぁっ」
「う、ううっ! 出るっ!」
 ドクンという感覚とともにびゅるッと精液をしぶかせて、しずくの奥へと注ぎ込む。
「うああぁーーッ!」
 俺としずくは同時に絶頂へと至った。

 と、ちらり気になることがあって、ネオサンプーンループ錠を手にとってみる。
「……」

 性交の五分前に挿入してください。

「……ま、いいか」
 俺は見ないことにした。



 眠りが浅かったのは不安だったからか。
 寒かったからか。
 ともかく、俺の閉じられた目蓋の向こう側には確固たる覚醒が潜んでいた。
 だからこそ――
「ん……あ?」
 異変に気づいた。
「……あぁっ!?」
 俺は跳ね起きる。
 周囲をぎょろりと見回す。
 真っ暗な部屋。カーテンがないから丸裸のベランダ。月は雲の奥に潜み、この部屋に青白い光を差し込むことはなく、ただただ外灯という人工的な光が、道路を映す光の残滓が、この部屋を少しだけてらめかせていた。
 だからこそ、すぐにわかる。
「いない! しずくが! い、いない!」
 どこにもいなかった。空洞のような俺の部屋。どこにもいなかった。
「まさか……い、いや、まさか……まさか!」
 ちらり――ドアを。
 ああ、やっぱり。
 なかった。包丁が。
 刺身包丁はいずこへ?
 俺の頭の中に最悪の結末が弾丸となって装填される。
 風緑景至の人生を必殺する悪魔の一発。
「どうして!? なんで!?」
 俺は矢も盾もたまらず部屋を飛び出した。
 幽霊が出そうな静謐で、陰気な廊下。霧でもあればムードもあったろうが、それさえ与えられない沈黙の床。
 ――と。

「痛いのは嫌です」

「……なんだ?」
 声。俺はその声の方向へと向かう。それは母の部屋から遠く離れた――しずくの、和室。
「もっと優しくしてください」
「……しずく?」
「言いつけはちゃんと守りますから」
「しずくの……声?」
「素直ないい子でいますから」
 しずくの――声だ。
「それでも、それでも私を虐待するというのなら――」
 やばい。やばいやばいやばい。
「もう、殺しちゃいますよ?」
 思索する。
 しずくじゃない。簾だ。
 何で――簾は死刑になってまで殺そうとした?
 五年前、あの男は、どうして?
 いや、死刑確定する前に癌で死にやがったけど、でも、どうして?
 母なんか癌で死ぬ前に磔か鋸引にしてやればよかったとか言っていたけど、でも、疑問だ。
 殺したのは結果だ。殺そうとするのも結果だ。
 違う――? なんだ? 一体。
 ……そうか。殺すと言う行為は、違うんだ。
 俺は勘違いしていた。人が人を殺すのは、狂気が憎悪のどちらかだと思っていた。
 違う。決定的に違う。
 人は、人を殺すのは――
 俺は、和室の戸を開いた。
 いた。
「しずく……」

 女性は全て裏切り者で、ずるくて、虚栄心が高く、物見高く、性根が腐っている。
――アルフレッド・ド・ミュッセ――

「あ、やっぱり来た」
 声が、弾んでいる。
 その右手には包丁を宿して。赤くない、きれいな包丁を。
 あの声は、この包丁は、俺を誘う……嘘か。
「俺を……謀ったな?」
 ちょっと殺意に近い蠢く何かが混ざっていたのかもしれない。
 でも、しずくは平然と、笑顔で。
「いいえ」
 首を横に振った。
「本気で殺す気……だったのか?」
「ええ」
 首を縦に振った。
 平然と。
「……笑ってるんだな」
 ヤクザが本当に相手をブチ殺すときは、決まって笑顔だというが、本当にそうだ。
 しずくは、笑顔だ。
「そうですかぁ? わかりません」
「しずく……」
 実力行使。そんな言葉が似合った。
 暴力は問題解決のための手段の一つに過ぎないが――なるほど絶大である。
 ただ、暴力はあまりにも瑕疵が多すぎるのが欠点なわけで、事実、この実力行使によって俺のしずくに対する評価はかなり下がった。
 国家でもそうだ。戦争ばっかりする国は世界中で嫌われ、国際的に孤立する。だから滅多なことでは戦争はできない。戦争が最後の手段なのはそういうわけ。
 でも――でも。
 ただ座して死ぬよりは、ある意味、正しい行動なのかもしれない。
 簾の殺人行為はおそらく、俺の知る由のないところで、なんらかの問題を解決するための手段の一つとして――殺戮を実行したのだ。
 機械的に、自動的に。もはやそこは善悪とは別の世界。
 今、しずくがその領域に達しているとすれば――しずくがこの家で生きていけない以上、最後の手段に講じるとするなら、俺の命などアリより薄い。
 その中で、選択肢を間違えること、それは即ち絶命を意味するのなら、
「命乞いしたら、許してくれるか?」
 素直に、許しを乞おう。
「命乞い? 命乞い……命乞い……」
 しずくは顔は笑顔で、でも、『表情』は無表情で。じっと思索しだした。
 だが、すぐに吐き捨てるように鼻でひとつ笑いをとると、
「景至さんが命乞いしても、何の価値もありませんよ」
 チャキっと、包丁の刃が反り返った。薄い中に不気味宿る銀色な包丁が血の赤を求めるように俺を射抜く。
 となると、この和室は母がやってくるまでの時間を引き延ばした、時限の処刑場。
 裏切り者には死を。と言った所か。
 そんなしずくから、我が身を守る方法な何か?
 何か?
 そんなこと、考えるまでもなかった。
「しずく……わかった」
「え?」
「今すぐ、あの人を説得してやる」
「無理なことほざかないで」
「……無理だろうな」
 俺は自嘲気味にそう呟く。
「ですよねー。そんなことができたら苦労はしませんもん。貴方にできるのは私の味方になることだけです。だからこそ――」
「ここまで強引な手段をとったわけか?」
「ええ。別にお嬢様が憎いからやってるんじゃないんですよ? 全ての暴力が怒りや悲しみ、あるいは愉悦によって行われると思ったら大間違いです」
 でも――違う。しずくがこの手段に講じたのは、危機を感じたからだ。
 俺にはわかる。この女は、風緑景至という矮小なクソガキが仲間であることに不安を感じたんだ。だからこそ――裏切りを、受け入れた。
 となれば、俺が再びしずくの元に戻っても、許すわけもない。
 水村しずくの願望は。母からの標的とならないことなれば、俺一人の味方など、一握の砂ほどの価値もない。
 それを、口にしてみる。
「でも、満足しないんだろ?」
「ええ」
 しずくの肯定。
 やっぱり。
「何が何でも満足させなきゃダメなんだろ?」
「ええ。春をひさいだんですから」
「……そのための春か」
 俺は一種のハニートラップにかかったわけだ。
 まったくもって異質な賢だ、
「ええ。そのための春です。春はそのためにあるんですよ」
 しずくは黒かった。どこまでも――黒かった。
 俺はもう少し、白い女だと思っていたのに。
 いや、白い女というのは母のような人物を言うのだろう。ただ、あの人は『悪い意味』で白いから問題なわけで。少なくとも黒くて安全なしずくと、白くて危険な母は、ある種、同格の悪性を有しているということだった。
 そして今、黒くて安全だったしずくのセーフティは解除されている。
 となれば、動くしかなかった。
「……わかった。行ってくる。……しずく」
「はい」
「もし、成功したらよ、打算のないキスをしないか?」
 なんで、こんなことを口にしたのか。俺にもよくわからない。
 でも――多分。
「……打算の、ない?」
 しずくは固まった。止まった。硬直した。
 そしてその顔は、唖然に包まれていた。いや、驚愕というべきか。
 俺はそんなしずくを見て、どこか微笑ましい気持ちになり、顔を緩めながら、区切って、言う。
「ああ、打算のない、だ」
「……それって、告白ですか?」
「そうなるな。ていうか、前にもしなかったか?」
「厳密にはしてないですね。そーですねぇ。できるものならやってごらんなさいな。できたら打算のないキスしましょう」
「わかった」
 俺は唇を緩めた。俺がこんなことを口にしたのは――多分、しずくが、好きだからだろうか。馬鹿なものだな。
 それはしずくも抱いたのか、怪訝そうな笑みをたたえながらぽつり問う。
「ただ、よく私に幻滅しませんね。それって、かなり不思議なんですけど」
「俺は女……というか人間に幻想を持ってない。人間は素晴らしいとか、心が清らかな人はいるとか、そんなこと、一度だって思ったことない」
「私の父や、あの養母や、そして……私を見て、ですか?」
「ああ、あと――俺自身もな」
「……」
「それに、この家で俺に媚びるのは最善の方法だってのはよくわかるしな。至って自然な反応だ。それを否定するなら、そいつは人間じゃない。裏表のない人間はいる。だけど、それがいいことかは別問題だ。あの人みたいにな」
 これは口には出さなかったが――人間、愛なんかなくても情があれば生きていける。そして、情を持ってない人間でも、それを作れる人間なら見込みはある。何故ならそれこそが、そいつが持っている情以外の何物でもないからだ。
 だから――
「だから、俺はしずくを嫌いになれない。例え、刃物で脅されても」
「……景至さん」
「なんだ?」
「私が景至さんを喋らせるにはあれが最適だと思ってますからごめんなさいとは言いませんけど……でも、もし……」
「もし、私の待遇を改善できたなら、ありがとうって、頭下げてあげます」
 ほら、咲いた。
 しずくの心に情の花が。
 ならば愛は期待しない。情だけでもあれば――十分だ。
「……ああ、頼むぞ」



「……で?」
 ベッドで寝そべりながらこちらを向く母の眼光が俺を射殺す。
「い、いや。だから……その」
 しずくの包丁よりも、丸腰の母の方が恐かった。
 やはり、年季と――悪意の差か。
「ふぅ〜ん。けーちゃん。約束破るんだぁ。しずくの暴力に屈してぇ」
 ぬっと起き上がり、ずいっと俺の元へ。
 恐怖。圧倒的な恐怖。
 震えが止まらない。でも、口は、止めなかった。
「ま、待ってよ母さん」
「けーちゃん。あたしの言いつけに従えない君の言うことなんか……」
「待って」
 ぎゅっと、部屋を出ようとする母の袖を掴んだ。
 恐らく、母はしずくを攻撃するつもりだろうから。
「けーちゃん。その手を離せ」
 無機質な声。
 一体どうすればいいのか。もう、わからない。ありとあらゆる説得はおそらく無駄に終わる。救いはない。絶望にまみれた近未来。
 俺は嘆くように、そんな思いを口にする。
「なあ、母さん。一体どうすればしずくを許すんだ?」
「死んだら許してあげる」
「うわぁ……」
 俺をどこまで絶望させれば気がすむのだろうか。
「だいたいけーちゃんはしずくの正体がわかってないからまずいんだ。いい? あの女はね、けーちゃんに媚びることで操縦……」
「いや、わかってる」
 母の言葉をさえぎった。
 そんなことはわかってる。従順な女ほど男に従うことで男を操縦する。
 でも――それを理解している以上、以上。
「じゃあ、けーちゃん貢くんでいいの? このどMが」
 母の声が胸をえぐりそうになる……が、それは心臓には到達しなかった。
 何故なら――俺だって、しずくに操縦されているわけでは、ないのだから。
 俺には俺の打算と欲望があってこそ、こうしてここにいる。
 風緑景至にとって、風緑春胡が水村しずくを虐待しては困る確固たる理由があるからこそ――俺はここにいるのだ。
 ただ、それはあまりにも独善的で、人間として劣悪な、卑怯者の本音だからこそ、今まで口には出さなかったが。
「まったく体を売って味方につけるとは……あの売女ぁ……いいじゃん。あたしが殺してやるよ。なぁに、残虐にしないで包丁で心臓を一刺しにして、初犯で一人なら十年もしないうちに刑務所から出てこれるっしょ。就職先も刑務所が斡旋してくれるそうだし」
 うん、日本の加害者に甘い司法機構をナメまくったご発言。
 止めなくてはならない。
「ま、待って母さん!」
「けーちゃん……」
 母は止まる。
 仕方ないと、俺はすぅっと息を吸い、今まで胸の内に蓄えていた本音を、ゆっくりと紡ぐ。
「ここで母さんがしずくを殺しても、しずくが母さんを殺しても俺の人生は滅茶苦茶になる。間違いなく。だから……止めてくれ。しずくの貢になったからじゃない。しずくの体に篭絡したからじゃない」
「でもねぇ」
 止まる。母の体が。
 もう、どうにもでなれ。当たって砕けてチリとなれ!
「だいたいよく考えてくれ母さん。しずくは処女だったんだぞ? 処女がどうやって売女になんかなれるってんだ? 本当に何でもかんでも体で解決させようとするならしずくはガバマンでないとおかしいじゃないか」
「……なるほど」
「母さんがこのまましずくを虐待し続けると間違いなくしずくは母さんを殺すぞ。仮に、母さんが返り討ちにしてしずくを殺しても、やっぱり、俺の人生は粉々だ。人殺しの子供は疎まれるのを、しずくで知ってるだろ?」
「……」
 母を止める必殺に弾丸。
 俺が――赤座景至から風緑景至になってまで、母にすがった、その理由を。
 しずくのように養子縁組を結ばなくてもよかったのかもしれないが、俺は――風緑春胡の息子となった。それを含んだ。その理由を。
 今こそ装填し、しずくという銃で、母を射殺する。
「母さんが俺を愛してるとは思ってなかった。情と義理で生かしてくれてるんだと思ってた。でも――俺を愛してるなら、俺に、愛と情を持ってるなら、俺の人生を壊さないで」

 男は全て嘘つきで、浮気で、偽善者で、多弁で高慢かつ卑怯者で、見下げ果てた者で、欲情の奴隷だ。
――アルフレッド・ド・ミュッセ――

「けーちゃん……」
 だらり、母が弛緩した。
 もう一度、俺は撃つ。
「しずくが嫌いなのはいい。構わない。でも、しずくに最後の手段をとらせないでくれ。そうしないと俺の人生に……俺の人生に傷ができる」
「……なるほど。しずくよりもけーちゃん自身が嫌なわけか」
「俺は聖人じゃない。キリストでも、釈迦でもない。俺の人生で一番大切なのは、やっぱり俺なんだ。出会ってまだ三日しか経ってないしずくじゃあない」
 打算。
 しずくにはしずくの黒さ、目算があったように、俺には俺の黒さがあった。
 そう、俺は――偽善者なのだ。多弁で、高慢かつ卑怯者で、見下げ果てた嘘つきなのだ。
「……なるほど。まだ子供だもんね、けーちゃんは」
 そう。だから、俺には庇護がどうしても欲しかった。自立はまだしたくなかった。ぬくぬくと継母の下で、安穏としていたかった。
 ましてやこの絶対零度の社会の中で、進学するにも就職するにも結婚するにも金を借りるにも、母の子になっておいた方が、色々と便利だという打算を含んで。
 愛はない。ただ、欲望のために情を必死に育んで、俺は風緑の姓を得た。
「だから、しずくがどんなに嫌いでも……虐待は、しないで。……させないで」
「けーちゃん……姑息っちゃぁ姑息な言い方だけど……たしかにあたしはけーちゃんの人生を壊すのは、嫌だな」
「母さん……」
「ねえけーちゃん」
「はい」
「けーちゃんって、義理なのは当然だから置いといて……あたしのこと偽物の母親って思ってる?」
 俺は笑顔で即答する。
「いいえ。俺は偽物とは、一度だって思ったことないですよ」
「なんで? あたしはお兄ちゃんの息子さんだから可愛がってるだけって何度も何度もけーちゃんに伝えてきたのに?」
「俺に対して、情があるから」
「……」
「母さんが俺を愛していなくても、情があれば、俺はそれで」
 愛という概念は人工的には作れない。あれは無自覚に発露する理性の結晶であるから。
 ならば――情を。人工的に作れる理性の結晶である、情さえあれば、俺は満足だ。
 家族というのは愛がなくても情さえあれば、墓場までを共にできるものだから。
 だからこそ、人々は忍耐と苦痛と束縛で構成された暗黒の結婚生活を、笑顔はなくとも、穏やかに過ごすことができるのだから。
 そう、情があるからこそ、耐えられるのだ。愛なんてものは、結婚すれば喪失する。
 それは親子でも同じ。
「だから、別に偽物だとは思いませんでしたよ」
「そう……」
 母は小さく、残酷でも嗜虐でもない、やけに諦観じみた穏やかな笑みを浮かべて、ゆっくりと目蓋を閉じると、
「わかった。けーちゃんの将来のために、しずくをいじめるのはやめてあげる」
 そう、言ってくれた。
 情は――やはりあった。
「あ、ありがとう……母さん」
 俺は大きく頭を下げ、最大限の感謝を。
 と――
「でもねけーちゃん、君に二つ、ちょっと言いたいことがあるの」
「な、なんですか?」
「あたしはけーちゃんを愛してるよ。訂正して」
「あ、はい。すみません……」
 俺は肯いながら謝罪した。
 珍妙なものだ。俺が母を愛してなくても、母をは俺を愛してくれるとは。
「それともう一つ」
「は、はい」
 すると母はぐいっと俺の胸倉を掴んで、やけに殺意丸出しの双眼で、
「あたしを母さんって呼ぶんじゃないよ」
「ご、ごめんなさい……姉さん」
 ……本当に愛してくれているのだろうか?

「よぉ、しずく」
 俺が和室に戻って、しずくは俺を信用したのか、右手に包丁は宿っていなかった。
 でも、やはり不安なのかすがるように訊ねてくる。
「あ、景至さん……どうでした?」
「ふっ」
 俺はびっと親指を立てた。
「……あは」



 ――颶風の後は――

 光。光。光。
 俺は階下にある小さな窓から差し込まれた光に包まれながら、和室から血色の良い様子で出てきたしずくを見て、ふっと、小さく微笑む。
「おはよーしずくちゃん」
「あ、おはようございます景至さん」
 しずくは満面の笑みをたたえながらぺこり一礼した。
 嬉しいのか、楽しいのか。仮にそれは何に対してであるのか。俺には深く理解することはできない。ただ――この破顔が俺に向けられていて、そこには一握の邪気さえ存在しないことを、瞳と瞳で交差しあえるのなら、考える必要などなかった。
 そう、受け入れるだけで。
 幸福を象るしずくの顔を。
 ただこうしてじっと見つめていると、次第に照れくさくなってつい、視線を下にそらす。
 でかい胸だった。そういやあの胸で満足に奉仕してもらったことなかったな。近いうちにさせよう。変に邪な心が俺を支配する。稚気のない、黒い桃色で。
 いかんいかん。首を横に振った。
 すると、しずくが何やらうーんと思案するような様子で人差し指をアゴにのせながら、
「ところで景至さんって、私のことちゃん付けの時と呼び捨ての時ありますよね」
 と言った。
「……そういやそうだな」
 特に深く考えなかった。ただ俺は心の中でも敬称・愛称を用いるほど白い人間ではないし、かといって出会って三日のしずくを呼び捨てにするのも気が引けるから使い分けしていたわけで、たまたま心に傾いたとき、『しずく』と呼び捨てにしてしまったのだろう。
 気をつけた方がいいかもしれないな。
 うん、そうだ。
 そう思った直後、
「別に無理してちゃん付けなんかしないでいいですよ? 凄く堅苦しそうですし」
「わかった」
 俺は即答した。
 他愛もなく、会話量も少ないが、確固たる安寧を感じさせる温度が、言葉の中から感じられるよう。
 そんな心持ちで俺たちは足を揃え、ダイニングへと向かう。
 そこには母が朝食を並べているところだった。
 ――と。
「おはよう、しずく」
 ……何?
 俺は絶句した。
「………………え?」
 しずくも同じだったようで、鳩が豆鉄砲食らったような、なんともかっこの悪い表情を浮かべながら立ち尽くしてしまった。
 呆然。
 しばし呆然。
 そして、はっと我を取り戻したのか目を丸くし、焦点が合わなくなっていた瞳を集束させ、恐る恐る母に問おうと一歩、足を踏み入れて、
「あ、あの……」
「しずく。朝食だよ。早くきな」
 返答。簡素だが、確固たる返答。
 しかもその内容。
 母が――しずくに飯を、朝食を与えると言った。
 俺は今更ながら気づく。テーブルには三人分の膳が!
 なるほど、なるほどなるほど。母がどれだけしずくが嫌いだとしても――俺のことは、こんなにも好きだったのか。
 兄を殺した男の娘に、俺たちと全く同じだけの食事を与える、その異常に。しずくは、ぶるぶると体を震わせて、
「あ、はい……お嬢様」
 そう、ゆっくりと頷いた。
 すると矢継ぎ早に母が、
「あぁ、あとその和室。今日から使っていいから好きにしな」
「あ……ありがとうございます」
 しずくはぺこり頭を下げた。その下にどのような顔をたたえたのか、俺には見えない。
 そして、五秒ほどじっと下げていた頭をゆっくりと上げると、くるり首を俺に向けて、その唇を緩めながらぼそっと、問うてきた。
「景至さん。あなたあの人になんて言ったんですか?」
「……それは秘密」
 死んでも言えるか。
 俺は簡素にそう言って、席についた。
 しずくはぎょっとして俺に呼びかける。
「ちょ、ちょっと……すっごく気になるんですけど」
「まあいいじゃないか。和室貰えたし」
「え、えぇ。それは景至さんのおかげですね。ありがとう」
「そ、そうかな? あ、あはは……」
 俺は照れくさく頭をかいた。
 朝食は目玉焼きとトースト二枚、コーヒーという、昨日とは比べるべくもない簡素なものであったが、不思議と――旨かった。

 朝食を終え、俺たちは部屋に戻るためとたとたと廊下を歩いていると。
「――ですよ」
「ん?」
「私のためにそこまでしてくれた景至さんは、好きですよ。嘘でも、打算でもなく、純粋に。妻にする女はダンスの輪からではなく、畑から選べって言葉がありますが、これはその逆ですね」
 しずくは唐突に、そんなことを口にした。
 俺はどういったらわからない感情に埋め尽くされる。これに対して彼女に返答する明快な言葉を作れない。
 だから、薄く頬を緩めてぽつり。
「そうか……」
「ええ。少なくとも、この男を利用して安穏とした生活を送ろうという打算は働かないほどには」
 言いまわしが実にしずくらしかった。
 そんな正直なしずくに、ちょっと。俺の心の鍵が開かれる。
「なら――最後は俺の番だな」
「ほえ?」
「嘘ではないが、打算はあるんだがな」
 本当のことを言うべきか。真実を、心の奥底にあるドロドロの悪意を。俺は――
「へ? 打算……」
 しずくの怪訝そうな眼差し。
「ああ、打算はあるさ」
 やっぱり、
「しずくを助ければしずくを手に入れられるという、打算が」
 言わないことにした。
「……なる、ほど」
 ただ、俺の言葉があまりにもっともらしかったのか、しずくは苦笑しつつも納得の様相でこくり頷いた。
 多少の罪悪感が残るが……まあいいさ。これもまた真実には違いないのだから。
 確かに俺は、風緑景至は水村しずくという女に一目惚れしたのだから。
 それは嘘じゃない。
 ふと、俺の内に仄かに灯る明かりのようなものを感じた。
 小さく、でも確実に。俺の心を鷲づかみにするような、そんな強烈な灯火を。
 とくん――その事を思うと、ひとつ、心臓が鳴った。



あとがき

昔戯れに書いた短編小説ですね。
特に誰にも見せるつもりのなかった作品――という意味では高校の時に書いた小説1作目の世界ノ終焉や大学の時書いた2作目の人間優遇同じですかね。
なんかHDD整理してたら偶然見つけたので、ここ最近ず〜っと放置しっぱなしだったからとりあえず……。



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