ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ。
夜。
萌えるような夜。
緑が萌える季節ではなく、夜が萌える季節。
崩れ行くそんな栄えある世界に咲き誇る一輪の大輪。
「うへ、うえへっへっへうえうえへ」
笑う。舐るような、囀りのような、敢えて例えるのなら小川のせせらぎのような、そんな、静かな地獄の呼び声。
天国と地獄が錯綜し、その結果悪魔と天使が自殺する。そんな感じを漂わせるような狂気に満ちた怨嗟の笑みが、震えるように口から発せられるその現象は、異常といってさしつかえない。
十全たる世界に咲き誇る邪悪な大輪。
ラフレシアの如く大きく、臭い。
こんな化け物花に勝てる悪魔など、天使など、存在しなかった。
男はその残忍な姿、オーラを隠すそぶりも見せずに往来を闊歩する。無論、男の邪気、臭気に触れたくないと願う人々は誰一人彼に近づかない。それは、男にとって最高の嗜好。男にとって夢の体現。
男の体躯こそみたところ180に満ちるか満たないかの不安定なレベルの身長で、一般人の中では長身と言えるであろうそのすらりとした体。一見しては何か格闘技をやっているようには見えない。体はよく絞り込まれているが、筋肉が集約されているようには見えないからだ。
問題は邪気。
男が放出している邪気はとてつもなく臭かった。その臭さを形容するならまさにラフレシア。ハエがたかりそうな強烈な臭気。その臭気に誰も近寄れない。だって、臭いから。
その実にシンプルな真理に男はしかし愉快だった。何故なら、それは自分を恐れているから。屁理屈な人なら「キモイだけだ」とでも反論しそうだが、それ自体が既に遺伝子的な恐怖なのだ。臭い、だから近づかない。これは臭い、生理的に危険であると判断する、つまり恐い、だから近づかない。という過程を経ている。それを知っているから、理解しているから、だから男は愉悦に浸るのだ。
巨大な大輪。
しかしそんな臭気を屁とも思わず男に近づき、あまつさえ足がもつれてぶつかった愚か者がいた。
どうやら鼻が詰まったか、あと、臭気が酒のそれを考えると、間違いなく酔っ払い。
クズ。そう、男は思ったのだろうか、ご自慢の臭気を存分に放出しても何一つ反応しないこの虫けらのような酔っ払いを殺したくなった。だって、自分を恐れない生物に、生きる資格なんてないもの。
「いたいなああああああああああああああ」
壊れるような通風。そんな気がした。被害者は。
だって、慟哭する間もなく、殺されてしまったから。
殺傷手段は男の体内に手を突き刺し、そのまま内蔵を抉り潰した。
「あー痛かった。あの世では気をつけろよ」
男はラフレシアだった。
実際に男はただ被害者とぶつかっただけなのだが、男の異常性な感性が、常識を逸脱し、最悪の手法を持って一人の人格、そして未来を全て奪い去ってしまった。
男は普段も臭かった。
とにかく臭かった。
何故かハエがよくたかる。
ハエはお友達なのだ。
ちなみにどうでもいいことだが、ラフレシアはたしかにハエと受粉するが、そこまで臭いわけではない。きわめて無臭に近い。
つまり、男の臭気はラフレシアなどとうに超越していたのだ。恐るべき男。
男、水村具例は西暦2005年の3月の段階で24歳の無職である。
特に生きることに特定の意識を持たないで飄々と風に巻かれてきたこの男は、ある時『におい』に気づいた。
どこの『におい』か最初はわからなかったが、しばらく調べていくうちにそれが自分の臭いである事を理解した。そしてその『におい』が自分にとってとてつもなく芳しい香りであると思い立ち、同時に周囲の人間の意見を求めたくなった。
結果、男は苛立つ意見を得た。
許せなかった。幸福を共有できないことが。
信じられなかった。嗅覚に文化的な相違があることを。
何故なら、美味しい料理は誰が食べても旨いと答えるのだから、素晴らしい芳香は、全ての人にとって素晴らしくなければならないと男は思っていたから。そして、自分の香りが素晴らしいものであると思った瞬間、それを理解されなくなった場合、それは世界の破滅を意味するのだ。
それから男は自分の臭いを全ての人に共有されたいと重い、この臭いをさらなる高みへと進化させたいと思うようになった。
最初に試したのは香水。しかし、世界中の香水のどれを用いても彼の臭気を引き立たせるものは何一つなく、むしろ逆。彼の定義する『素晴らしい芳香』を相殺してしまう。
許せなかったので香水は全て近くに流れている川に流した。
次に試したのはお香。世界中の様々な香を焚いた。しかし、どれも違う。全然違う。
許せない。お香は近くにいた野良犬の鼻の中にぶち込んだ。
男はそれからも様々な周囲の人々が共感する香りのでるものを駆使したが、どれも香りがマッチせず、途方にくれていた。
そんな時だった。男は絶望に酔いしれ、自分の香りに終焉を迎えそうなとき、適切な香りを発見した。だが、それは男にとってとても信じられないものだった。なぜなら、それは男にとってその香りは『くさい』と定義されるものだったからだ。
それは腐った肉。腐肉だった。
男は三日三晩眠れず、項垂れ、心を粉々に砕かれ、手首には生々しい傷跡が残った。
畳に血が染まっている。
死ぬ。
だが、男はその後ひとつの仮説を立ててみた。それは『腐肉は素晴らしい香り』というものだった。
高校卒業から6年。自分の部屋に引きこもり、特に何もしないで風のように過ごしていた男にとってこの『悟り』は核爆発にも匹敵した。
彼は、自分を『如来』と定義した。
水村如来。
その悟りとは、腐肉は素晴らしい香り。よってこの香りを世界中で共有しよう。できないとしても恥じゃない。何故なら、全てにおいて先駆者は批判されるものだからだ。
それから男は毎日部屋から出て腐った肉を捜し求めた。あるときはポリバケツから、あるときはゴミ袋から、あるときは道端におちている小動物の死骸から。ありとあらゆる『腐った肉』をかき集めた。中には、痛んだ果物や数週間放置した生肉なども混じり、男の部屋は腐ったものに満ち満ちるようになった。
男は如来なのだ。
水村如来なのだ。
もはや、誰の言葉もいらない。自分の言葉、それ即ち天声である!
男は体中に腐肉をまきつけた。体中に、すりつける。肉をスモークにして煙でいぶしたり、肉をすりつぶしてクリーム状にして体にぬりつけたり、腐肉を絞って香水にしたり、あるいは腹を下す覚悟で食べもした。
男はそんな生活を1年間続け、毎日腐った肉を食い、何度も何度も生死の境をさまよった。
男に両親はいない。否、この部屋にはいない。男は親の仕送りだけで生活していた。
だから、毎日毎日腐った肉を食い、体にまきつけ、煙でいぶし、『腐肉風呂』などをつくって体に浸し、腐肉を石鹸がわりに体を荒い、腐肉を歯磨き粉がわりに歯を磨き、布団や枕はもちろん腐肉だ。
男は腐肉に満ちていた。
男は如来なのだ。
水村如来なのだ。
そして誕生した如来様は、世界一臭い男の誕生だった。
男はたまたまその腐肉の臭いがラフレシアの香りによく使われる『腐った肉の臭い』と酷似していたことから水村・ラフレシア・具例とさえ思い立ち、この臭いを神の臭いとした。
早速1年間の苦痛と苦悩からおさらばし、外に出る。
外には素晴らしい太陽が照りつけ、吹き抜ける春の風がこの素晴らしい芳香を周囲の人に伝えてくれることだろう。
結果は、悲惨意外の何者でもなかった。
男の心は完全に破砕された。
男はもう、世界を信じられなくなった。
そりゃあ、当初は『ある程度』の批判は覚悟していた。しかし、まさかここまで批判されるとは思っていなかった。絶えられなかった。死ぬしかなかった。だが、ここで死んでなにになる? もう駄目だ。壊れるしかない。
結果、彼は腐肉を体にまきつけながら外を闊歩するようになった。
世界中が認めるその日まで、世界で一番臭い男になろうと決意した。
何故なら、少なくとも世界でただ一人、自分だけはこの臭いが世界で一番芳しい香りだと、『臭い』ではなく『匂い』だと思っていていたからだ。
だから、逆らうものは皆殺しだ。
男はもうためらうことはなかった。
逆らうものは容赦なく、かつて自分の手首を切った刃渡り12センチのナイフをもって殺しまくった。
警察はもうすぐ到着するに違いない。
緑が萌えるように、夜が萌えていた。
警察官の集団が、萌える夜に現れる。
男は如来だと、思っている。
だから、警察官より偉いのだ!
そんな時だった。
「あはは」
異質な笑いが木霊した。
いままでどこにいたのかわからないほどの速度で、その笑い声は形となって、男をかばうように具現した。
「あはは、具例ちゃん。あんたに幸せを与えてあげる」
そういってその笑い声の具現者は、周囲にある全ての現象を否定した。
周囲に警察官は一人もいない。さっき殺した酔っ払いもいない。否、周囲に誰もいない。
「あ?」
男は絶句する。
そんな表情がよほどうれしいのか、笑い声の具現者は舐るような視線を向けて告げた。
「あたしがあんたに幸せを与えてあげる」
男は桃源郷へと。
故に、最後の声は聞こえなかった。
笑い声の具現者、夏御蜜柑の声が。
・・・・・・ただし、一度でも自分の匂いを否定したら、死刑だ。
男は転じて桃源郷へと旅立った。
誰もが男の臭気に共感してくれた。
男は幸せの中にいた。
全ての人類が男の匂いを救ってくれる。
故に、死刑になった。
だから、死刑。
世界は突如として暗転し、男が困惑する。そんな時に突如として現れたのは笑い声の具現者、夏御蜜柑。
夏御蜜柑は笑う。
「死刑」
男は揺れる。困惑する。今までのは夢。
しかし、恐怖がリアルだった。
「あはは。あたしがその気になればなんだってできるんだよ」
恐怖。
揺れる様な殺意。
周囲全てを凍結させてなお、気温が下がってゆく。
極寒の悪夢。
「だから、あんたをどうしたってもいいだよ」
動けない。
びくともしない。
心も体も凍結している。
否、氷結。
「どうせあんたなんか死んだら地獄に落ちるんだから何したっていいじゃん。ねえ?」
「あ・・・・・・」
ようやく紡げた言葉は、しかし震えて満足な言語ではない。それに、その言葉以前にこの男は、全身をがくがくと震わせ、身動きひとつ可能としない。
「それとも何? あんたあれだけのことして死んでもいい目を見れるとでも思うの? あははははは!! 馬鹿じゃないの!? ばーかばーか。そんな馬鹿には凄いことしてあげるよ。二度と極楽思想を抱けないように」
動く。
動く。
夏御蜜柑は動く。
「何がいいかな? 待遇を真逆にしてやってもいいし、五体不満足にしてやってもいいし。ただ、そんなの誰でもできるからつまらないな。あたしにしかできない罰を与えてやる」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
声は出ないのに震えだけが全身を蝕んでゆく。生きることを拒絶されるような死刑宣告は、しかし疑惑と幾許の期待を内包していた。
「あんたには『餓死』してもうらおうか」
死刑。
「あはは、人はそう簡単に餓死はしない。かつてキリストはシナイ山で1ヶ月断食していたそうだよ。まあ、水と塩だけじゃそこまでもたないだろうけどね。あはは。まあ、なが〜く、なが〜く、苦しんで死ぬといいよ。具例ちゃん」
元の世界に戻ったとき。
そこはやはり自分の芳しい香りを理解してくれる者たちであふれた桃源郷。
男は刹那の夢だとさえ思う。
その少し後だった。理解したのは。
食べられなくなった。
不思議な感覚。
声はでるし、歯もあるし、舌も残っているし、空腹感もあるということは胃袋もあるのだろう。にも、かかわらず、何故か、何も食べることができなくなった。箸は持てる。食欲もある。しかし、どういうわけか、食料が喉はおろか口の中にいれることができない。
「な・・・なんで?」
この現象は食料においてのみ限定されており、液体に関してはスルーだと思われた。なぜなら、『水』は飲めるからだ。
男、水村具例は、液体から栄養を補給しようとスープを飲もうとする。しかし、飲めない。試す。今度は味噌汁。駄目、飲めない。ならば野菜ジュースの類は? これも駄目。どうしても飲めない。飲めない原理がわからない。何故なら、飲もうと、あるいは食べようと手を口もとに近づけるとまるでそこの壁があるかのように一定値から手を近づけることができなくなるからだ。
ならばと思い、放り投げてみる。すると食料にせよ、液体にせよ、『何故か』軌道を変えて口に入らない。物理法則を完全に無視したその動きに具例は絶望と驚愕に彩られた混沌の暗黒に苛まれ、同時に心のどこかが砕け散った。
しかし、水だけは入るのだ。奇怪な違和感が脳内を徘徊する。
今度は犬食いにチャレンジしてみた。これならば大丈夫だろうと思う。しかし、それでも、皿に盛られた食料が口はいることはなく、液体が口の中に注がれることもなかった。
腹が減る。どうしようもなく腹が減る。しかも目の前に食い物も、飲み物もあるのに、何故かそれが胃袋に収めることができない。残酷な拷問。具例はその拷問を、死ぬまで行わなければならない事を理解し、途方にくれた。そして、4日もしたころになると疲労が絶望を超越し、発狂した。
かろうじて気づいたことは、『塩』なら摂取できることだ。
しかし、塩と水だけでは、餓死する。
当たり前である。
具例は己が餓死するに至る道程を思索しながら、懺悔にくれる事もなく、ただただひたすら狂気と絶望の入り混じった凍結された世界の中、悲観で終えた。
最悪の民法典とは、疑いもなく、どこの国民にも無差別に適用される民法典であり、最悪の海法典とは、一国だけの特別な利益と習俗の特殊的影響にのみ基づいて作られる海法典である。